浜中紗夜子の章_9-2
校庭に出た。
体育着の腕をまくり、気合の入った格好で待つ上井草まつりは、校舎に背を向けながら、つまり俺たちに背を向けながら、地面に着いた金属バットで体を支えて、バッターボックスに居た。
もうバッターボックスで待っているとは。まったく、せっかちな娘である。
グラウンドの周りには、どこで聞きつけたのか観客が七十人ほどいて、ざわついていた。その中には、笠原みどりの姿もあった。
校庭に出た俺は、キャッチャーマスク片手に、まつりの背中に向けて叫んだ。
「待たせたな! まつり!」
「遅いっ!」
まつりは、振り返らずに、そう言った。
「よし、行って来い、紗夜子」
俺は小声で後ろに居る紗夜子に言う。
紗夜子は、こくりと大きく頷き、マウンドへと小走りで向かった。
俺も、キャッチャーの位置へと向かう。
そして、マウンドの方を見続けていたまつりの視界方面には、紗夜子の細い体。
「達矢! 遅――――」
言い掛けて、
「え?」
と心底驚いたような声を出した。
「え、そんな……マナカ……?」
そう、ピッチャーは浜中紗夜子。
キャッチャーが俺、戸部達矢。
そしてバッターが、上井草まつり。
「…………」
無言で、マウンドの土を左足で蹴って土を掘り、準備を進める紗夜子。
その姿を見て、呆然とするまつり。
「左手にグラブ……? 右、投げ?」
呟いた。
よし、来い、紗夜子!
俺は心の中で言って、グローブを構えた。
「構えろ! マツリ!」
紗夜子は言った。
「なっ、そんな……相手は達矢じゃ……?」
「ほら、さっさと構えろよ」
俺も言う。
「あ」
構えた。構えたは構えたが、力の入っていない棒立ち。バットを持つその手が震えている。まつりらしくない。
「よっしゃ、いくよ!」
ザッ、とマウンドの土を踏みしめる音がして、次の瞬間、紗夜子の右腕がぐるんと大きく、よどみなく、素早く回転し、直球が放たれた。
銃弾のようにスパイラル回転したボールは、空気の壁を突き破り、俺のグローブに収まった。
ズダァン!
という大きな音が校庭に響き渡る。
気持ちのいい球。
ど真ん中のストレート。ストライクだった。
「よし、ストライク!」
俺はコールした。
浜中紗夜子が、復活した。
俺は、紗夜子にボールを返す。
「…………」まつりは呆然としている。
紗夜子は、安定したフォームで、でも力感溢れるフォームで、二球目を投げる。
風車のように腕を回すウインドミル投法で。
剛速球。
ミットに轟音と共におさまった。俺は「ストライク」と言った。
ウインドミル投法は、野球の投手の投げ方ではない。ソフトボールの投法だから、これは野球ではないのだが、マウンドに浜中紗夜子が居るのは間違いではない。
確かにそこにいて、確かにボールを投げているのだ。
それも、自分の左肩を壊した張本人である上井草まつりに向かって。
三球目、速球が俺のグローブに収まる。
ストライクだった。これで三振だが。
上井草まつりは力なく「あ」と呟き、紗夜子は怒った。
「まじめにやれ! こんな球! マツリなら打てる! 何でバット振らないの!」
涙声。
するとまつりは、
「打てるわけ、ないでしょう……」
俯きながら、そう言った。呟くように。
それは、イメージの中の凶暴な上井草まつりにあるまじき音色。
「打てるわけ! ないでしょう!」
今度は叫んだ。その叫ぶという行為自体はまつりらしかった。
バットを放り投げる。
カランカランと音を立てる。
グラウンドに、涙を落としながら。
「何で打てるわけあるのよーっ!」
また叫ぶ。
そして、マウンドに駆けていく。
「あ、おい!」
やばい、と思った。あの上井草まつりのことだ。敗北の腹いせに乱闘でもするつもりに違いない。
逃げろ、紗夜子と言おうとして、俺は慌ててキャッチャーマスクを弾き飛ばし、まつりの腕を掴もうとする。
間に合わなかった。動きにくいキャッチャーの装備ではどうしようもなかった。
細い体の紗夜子は、迎え撃つ気でいるようだ。
あんな細くて弱くて、疲労した体で撥ね飛ばされたら、本当に生命が危うい。
しかし紗夜子は、「マツリ!」と目の前の暴力女の名を呼んだ。
慌てる俺を置いて、まつりは駆け、両手を広げて、次の瞬間――。
紗夜子を抱きしめた。
何だか不思議な景色だった。
まつりが、紗夜子を、抱きしめていた。
「マナカ……マナカァ……」
まつりが、細い体を包み込むように、胸に抱いて。涙を流しながら、名前を呼んで、強く、抱きしめて。
俺は呆然と見ているしかなかった。
二人の間には、俺の知らない絆があって、俺なんかが割って入っていけないくらいに、強い思いがあって、勝負しないと清算できない過去があって。
「ごめん……ごめんね、マナカ」
震えた声で。
「大丈夫だよ、マツリ。もう、いいから。もう、心配しないで」
「マナカぁ……」
「わたしには、たっちーが居るから」
「マナカ……」
「もう、許すから。最初から、恨んでなんて、いないから」
「うそっ、あたしが肩を壊したのに、あたしを恨んでないなんて言うの? このウソつき! バカ!」
怒って、更に強く、抱きしめた。
「まつり……ちょと苦しい……」
「まなかァ!」
叫びが、青い空へと響いていく。
俺は、過去の二人を知らない。二人の間にあったことは、本当の意味で理解することはできないけれど、何だか、「良かったな、紗夜子」って、思うんだよ。
見上げた空は、いつもと同じように、雲が高速で流れていた。