紅野明日香の章_2-6
さてさて、そんなこんなで俺は今、マウンドに立っている。
俺の持ち球は友人とのキャッチボールで身に付けたナマクラカーブと所謂ホームランボールと呼ばれる種類の棒球ストレート。
「さぁ、来ぉい! っしゃぁあああ!」
視界には、バッターボックスに超ガニ股で構え、バットを立ててくるくる回している女が一人。外人バッターみたいな構えだな。
ちなみに、キャッチャーは先刻まつりの剛球を受けていた男子である。野球部らしい。となれば、ノーサインでも俺のナマクラカーブくらいはあっさりキャッチするだろう。
さらに、俺の予想だと上井草まつりは絶対に変化球とか打てないと思う。そういう痛快な種類の人間のはずだ。そうであって欲しい。紅野明日香みたいなプチ万能感があったら、何となくガッカリするぜ。
「頼んだわよ! 達矢!」
紅野の応援。
「おう、任せておけ」
さてどうするか。ま、考えるまでもないな。当然、全部変化球でいくべきだろう。絶対に打たれないという確信がある。
一球目。
俺は振りかぶり、
「それっ!」
掛け声と共に自慢にもならないヘロヘロカーブを投げた。正直、あまり良いフォームではないだろう。
ブン!
空振り。
「ちょ……今、曲がった!」
そりゃ、カーブだからな。一応。
卑怯だとは言わせないぜ。変化球が卑怯だなんて言ったら、野球の試合が乱打戦ばかりでとてもつまらないものになってしまうだろう。
俺はキャッチャーから返ってきたボールを受けて、すぐに振りかぶる。
そして投げる。
二球目もカーブ。
ブンッ!
空振り。
「何で! 何で曲がるのっ!」
カーブだからだっての。
三球目。当然カーブ。
「ちょっ……」
ブンッ!
空振り。
まず、一打席目は三振。
「普通最後の一球くらいはストレート投げるもんでしょう!」
そんなのごく少数の人々の常識だ。
「ほらほら、二打席目だ、さっさと構えろ。肩が冷えちまう」
俺は言った。
「こ、こいつっ……」
もう完全に、俺のペースだった。そして。
ブン………!
ブン……!
ブン…!
「ストライク、バッターアウトォ!」
勝った。割とあっさり。自分の力で上井草まつりに勝利した。俺のお気に入りの靴を焼却した上井草まつりに。うれしい。
「最低! バカ! あたし、変化球苦手だって言ったじゃない!」
まつりは言った。
「現代の戦は情報戦なんだ。そして現代でなくとも、相手の弱点を突くのは兵法の基本!」
「て、ていうか騙したわね。キミ、変化球苦手とか言ってたのに……言ってた……のに……」
地面に両の手と膝をついて、悔しそうに、悲しそうに呟くまつり。
そんな彼女に、俺は言ってやる。
「戦は、騙し合いだ!」
そしてさらに、
「戦いは、始まる前から始まっていたんだよ!」
「わけわかんないけど、だからこそ更に悔しいっ!」
グラウンドをグーで殴っていた。痛そうだ。
すると、そこで紅野が……
「決まったわね。これで私たちが、新しい風紀委員よ!」
高らかに宣言。
後、歓声。
「うおおおおおおおおお!」
ギャラリーだった生徒たちの、歓声が響いた。
「圧政はここに終わりを迎えたぁああ!」
「もう上井草さんに怯えなくて済むんだ!」
「俺たちは、自由だぁあああ!」
「紅野&戸部のコンビバンザイ!」
「二人ともタダモンじゃねぇええええ!」
次々と、紅野と俺を称える声が届いた。
上井草まつりは、「――くぅぅ!」などと犬の鳴き声のごとき声を上げ、涙を隠しながら走り去り、勝者である俺たちの周囲には歓喜の輪ができた。解放者、とかそういうことなんだろう。
紅野明日香は大きな声でこう言った。
「この学校の風紀は、私が守るっ!」
こうして、紅野明日香は風紀委員長という名の権力を手に入れたのだった。
「やれやれ、一体何なんだこの学校は……」
俺は呟き、人ごみを抜け出し、人波から離れようと歩き出した。