浜中紗夜子の章_8-4
真剣に的に向かって投げている紗夜子に声を掛ける。
「おーい、紗夜子」
予想通り、気付かない。
もう本当に、真剣そのもので、とんでもない集中力には感心モノだが、それがむしろ恐ろしい。
これだけ集中していると、体がぶっ壊れていても気付かないかもしれない。
昔、集中するあまり骨が折れていることに気付かずにサッカーの試合を続けたプロ選手の話を聞いたことがある。
嘘みたいな話だな、とその話を聞いた時は思ったが、今の紗夜子もそういう超集中世界の中に居るのだろうから……集中力ってのは大切で危険だとつくづく思う。
とにかく紗夜子の体が心配だ。
「おい、紗夜子」
ボールが紗夜子のグローブに収まったところで、俺は紗夜子の右肩を掴んだ。
「あ……たっちー」
振り返る。
「手、見せてみろ」
すると紗夜子は、グローブを外し、左手を見せてきた。
まるで右手を隠して誤魔化すように。
こいつ、まさか。
「そっちじゃない」
俺は言いながら、右手を掴んで、見ると、
「お前、バカだろ」
マメがつぶれていた。
皮が剥がれていて、見るからに痛そうだ。
「……………………」
悪いことをした後の子供みたいに目を逸らす紗夜子。
「保健室に行くぞ」
「……うん」
こくりと頷いた。
俺は紗夜子の手を引いて、保健室へと向かった。
で、保健室の引き戸を開けると、見知った顔があった。
「――バカッ!」
開口一番、笠原みどりは言った。
「すみません!」
俺は謝る。
「戸部くんのことじゃなくて、その後ろに居るバカのことよ!」
怒っていた。
みどりの話から考えるに、二人は数年ぶりの再会ということになるはずなのだが……。
「やは、久しぶり」
紗夜子は言って、軽く左の手を振った。
「何が『久しぶり』よ。すぐ周り見えなくなって無理するんだから」
「あー、みどりさん、そんなに怒らないであげ――」
「戸部くんも! 何で怪我するまでやらせたの!」
「い、いやぁ俺は休みながらやれって言ったんだが……」
「そんなこと言っても、このバカが言われた通り休むわけないでしょ!」
否めない。他人の言いつけを守るような奴じゃないからな。
「サハラ、ごめん」
サハラ?
ああ、笠原みどりの笠原……カサハラだから、サハラか。何か砂漠をイメージしてしまうような呼び名だな。
「はぁ……」
みどりは一つ溜息を着いた後、「手、見せて。マナカ」と言って紗夜子の右手をギュッと掴み、消毒液をぶっかけ、ぐるぐるぐると包帯を巻いた。
「いたたたたたたっ」
涙目で痛がっていた。
そして、素早い処置を終えると、言った。
「これで明日には完治してるはずだわ」
本当かよ。適当な治療に見えたが。
「とにかく、今日はもう右手使っちゃダメ」
「うん」
「本当に、久しぶりね、マナカ」
紗夜子はこくりと頷く。
「頑張ってるみたいね」
「うん」
「元気だった?」
元気じゃなかったけど、ここ二日で元気になったな。
「ねぇ、二人とも聞いて。球、速くなったよ」
お前は会話をしろ。
元気だったかを聞かれて球速くなったって、どんな会話だよ。
「バカ」
まぁ、そう言いたくなるよな。
「やは、うれしくて、つい、やりすぎちゃった」
笑う紗夜子。
俺は、紗夜子の過去を知らない。みどりの話で聞いていても、実際にその場にいなかったわけだから、共感できない。紗夜子の「ボールを投げる」という行為に対する思いは、きっと俺の想像を絶するほど大きなものなのだろう。それは、きっと、アイデンティティそのものみたいなもので、それを取り戻した紗夜子は輝きを取り戻した。
おそらく……昔のように。
それはきっと、野球をやっていた頃の紗夜子に戻ったということであり、それを知っているのは、幼馴染であるみどりであったり、まつりであったりするのだろうが。
「まぁ、マナカは昔っからどうしようもないヤツだったから、もう諦めてるけどね」
「あはは」
「笑ってんじゃないわよ!」
みどりさんはお怒りだ。
「ねぇ、たっちー」
「何だ」
「マツリは何て言ってた?」
「勝負することになったぞ。明日十時だ。早く寝ないとな」
「うん」
こくりと頷く。すっかり素直になった。
「みどり、ありがとな」
俺はそう言ったが、彼女は何故か怒ったような口調で、
「ありがとうを言うのはこっちです!」
「ふふっ、相変わらずだね、サハラは」
紗夜子が、笑った。
今まで見せたことのないような笑顔で。
それは、まるで、満月みたいな美しさだった。少なくとも、俺には輝いて見えたんだ。