浜中紗夜子の章_8-1
転校して来て、何日目になっただろうか。なんか昨日は疲れたし、それでなくともここんとこ時間の感覚メチャクチャだったから、よくわかんなくなったな。
目覚めると、既に紗夜子は居なかった。
奇跡的な早起きを果たしたらしい。
それにしても、一気に更生したな。まるでスイッチを切り替えたら紗夜子が更生したみたいな感覚だ。
真剣になれる何かがあると良いんだよな。やっぱ。
紗夜子にとっては、それはボールを投げることだった。
俺にとっては……何なんだろうな……。
「とりあえず、腹減ったな」
俺は、何か作り置きがあるんじゃないかと思い、キッチンに入った。
「うげぇ」
散らかっていた。
以前は整理整頓され、輝いていたキッチンが……なんということでしょう、一夜にしてゴミ屋敷化。そして、冷蔵庫を開けてみると、何も作られていない。どうやら自分の分だけ作って食べて、皿も洗わずにどこかへ行ったらしい。
俺のことなど、もはや眼中にないようだ。
「仕方のない奴だな……」
俺は少し笑いながら、ふっと溜息を吐いた。
んでまぁ結局、俺は、冷蔵庫にあったものを適当に調理して食べた。
当然、紗夜子の料理よりも数段レベルが落ちたものだった。
その後、掃除をして、元の綺麗なキッチンに戻し、俺は親指を立てた。
さて、安物のグローブを抱え、紗夜子を探して歩く。まだ早朝なので、誰の姿も見えない。理科室に、グローブとボールが無かったから、どうせ一人で練習してるんだろう。
と、その時、バコンバコンというボールが弾む音がした。
この流れからすれば、どう考えても紗夜子だろう。
校庭に出ると、腕をぐるんと回して体育倉庫の壁に向かってボールを投げている紗夜子の姿があった。
体育着姿で、真剣にボールを投げている。
「……っ!」
バコン。
投げて、壁に当たって、戻ってきたボールを拾って。
「……っ!」
また投げて、壁に当たって、首を捻りながら戻ってきたボールを拾った。
そしてまた風車のごとく腕を回し、ボールを投げる。
カベに書かれた的に見事当たって、転がって紗夜子の足元に戻る。拾う。
「紗夜子ー」
俺は歩み寄りながら彼女の名を呼んだが、無反応で、また投球動作に入る。
ブォン!
風を切る音がして、またボールが放たれた。壁に当たって、また音を立てた。
「紗夜子っ!」
しかし反応が無い。集中しているらしい。
「おーい」
「うるさい」
張りつめていた。
「お前な、投げすぎて怪我したらどうするんだ」
「…………」
紗夜子は無言で、また、ボールを投げた。
俺は転がってくるボールを拾い上げる。紗夜子には渡さないように。
「返してっ!」
キッ、と鋭い視線が俺を射抜いた。
だが、返さない。
「少し休め」
無言を返してきた。
嫌だ、とのことらしい。不満そうにしている。
「早起きってのは健康的で良いことだが、今まで運動してなかったのに急に体動かしたりして、体ぶっ壊れたらどうすんだ」
そんなことになったら、みどりに顔向けできない!
それに、折角ボールを投げられるようになったのに、また大きな怪我をして二度と投げられなくなったりしたら、そんな紗夜子を見るのが辛い。
「どうしても、今、やらなきゃいけないの!」
「何でだ」
「やりたいからっ!」
「それじゃ『今』やる理由にならねぇだろ。あのな、もっとゆっくりとやらないと……」
「今じゃなきゃダメなの!」
「だから、何で!」
すると、紗夜子は言った。
「勝負したい奴がいるの」
「勝負。誰とだ?」
だいたいの、察しはつくが。
「上井草まつり」
やっぱりか。そんな気はしてた。まつりの名前出したら過剰に反応したし、みどりの話じゃ肩怪我させた張本人って話だからな。決着をつけたいのだろう。
「だが、そんなに焦って勝負しても……」
「やるのっ! やっと、やっとマウンドに立つ資格を手に入れたんだから」
資格、ねぇ……。
「いつ、やる気なんだ……」
すると紗夜子はこう言った。
「明日」
「明日ァ?」
そんな、昨日投げられるようになったばかりなのに、あの上井草まつりと勝負だと。それ勝負になるのか?
いや待てよ。紗夜子の速球は確かに一定のレベルを超えたマンガ速球だ。やってみたら案外勝てるかもしれん。それに、一度勝負してしまえば、紗夜子がこんな無理なトレーニングをすることもないだろう。何よりも俺は、紗夜子の体が心配なのだ。
「わかったでしょ? 今、やらなきゃいけないの! ボール返して!」
瞳を輝かせて言う。
こうなると、俺もついつい紗夜子の言う事を叶えてあげたくなってしまう。
「本当に、まつりと勝負するんだな? 明日」
訊くと、紗夜子はこくりと大きく頷いた。
「じゃあ、俺が勝負を申し込んできてやる。その代わり、練習は休みながらやれよ」
言って、ボールを手渡す。
「休みながらだぞ」
念を押した。
「うん!」
強い決意を持った双眸は、数日前からは考えられないくらいに輝いていた。
「休みながらだからな!」
「うん!」
「休めよ?」
「わかったってば!」