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浜中紗夜子の章_7-2

 昇降口。


 俺は自分の靴を手に取ったが、紗夜子の靴のことをすっかり忘れていた。


 すると、そこへ、


「靴がないんでしょ」


 みどりが、目の前に現れた。


「ないです」


「そんなこったろうと思いました」


 言うと、みどりは地面に置かれた箱から運動靴を取り出して、紗夜子の両足に手際よく履かせた。紗夜子は起きなかった。


「ありがとな、みどり」


 準備が良いというか、何というか。本当にありがたかった。


「戸部くんのためじゃないから。マナカのためにやってるだけだから」


「そうか」


「よろしくね」


「おう」


 俺は強く、頷いた。


「すー、すー……」


 紗夜子は安眠している。俺は、校庭側の出口に向かう。


 いつも通る、門のある中庭とは反対側に校庭があるのだ。


 だから、実際中庭と呼ばれている場所は中庭よりかは裏庭と言った方が正しいのかもしれんが、みんなが中庭と呼んでいるのだから、そこは中庭なのだろう。


 校庭に出た。無人だった。


 なお校庭は、あまり風が強くない。それどころかほとんど無風と言っても良いくらいだ。坂を登って吹き上げる風が校舎によって遮られるためである。


 太陽は、ちょうど真上にまで昇っていて朗らかな陽光が心地よかった。


「んぅ…………」


 紗夜子は日光を浴びるや否や顔を歪ませ、薄目を開けた。


 日光を嫌がるとは、吸血鬼か何かか。


「よう、おはよう、紗夜子」


「…………!?」


 ぱっちりと目を開けた。


 そして、周囲の光景と自分の置かれた状況を理解して、珍しく慌てふためいていた。


「な、何これっ。外っ? 何で!」


「俺が連れて来た」


「やだっ! 何で抱っこされてんの!」


 じたばたしようとする。


「降ろすか?」


「降ろして! 降ろして!」


「おう……」


 俺は、紗夜子をゆっくりとグラウンドに下ろした。


 紗夜子はしばし無言で俺に不信の目を向けて考え込んだ後、


「どういうつもり?」


 と右手で自分の髪の毛を掴んで、訊いて来た。


 ジトッとした目をしてる。


 かなり怒ってるな、こりゃ。


 だが、俺はやらねばならない。


 キャッチボールを!


「見ろ、空を。青いぞ。アズーリだぞ!」


 アズーリって、たしかイタリアの言葉だったよな。青空とかそんな意味だったか。サッカーのイタリア代表の愛称でもあったか。イタリア大好きな紗夜子のことだ、イタリア関連の言葉を使えば何とかなるはず、とか思ったのだが、あまり効果は無かったようで、


「何のつもりで外に出したの? わたしが溶けて無くなったらどう責任とる気よ」


 怒りながら言った。


 ていうか、何言ってんの、この子。


「いいか紗夜子、人間はお日様の下に出ないとダメなんだ! ひきこもってるのは不健康だ!」


「へぇー…………」


 紗夜子は一瞬、納得したような声を出した後、


「てやっ――」


 そう言って、駆け出した。


「あっ! 待てっ」


 俺は咄嗟に、左腕を掴んだ。


 すると、


「痛いっ!」


 紗夜子は叫び、左肩を抑えてしゃがみ込んだ。


「逃げるなよ」


「いったぁい……」


 だが俺は、そんな紗夜子を気にするでもなく天を仰ぎ、両手を広げて言う。


「紗夜子、一緒に外を駆け回るぞ!」


「ねむいー。やだー。かえるー」


 予想通りの無気力さ。だが俺はそれを許さない。


「ダメだ。キャッチボールをするんだ」


「え……キャッチ……ボール?」


「そうだ」


「無理無理。グローブないもの」


「あるぞ。昨日買って来た」


「なっ」


 俺は肩から提げていたナイロン袋から俺が買った安物の方のグローブを取り出し、手渡した。


「これ安物だから嫌」


 うぇい、ワガママな子。しかし、よく安物だとわかったな。


「じゃあ高いやつなら良いんだな」


「まぁね」


「よっしゃ、言ったな」


 俺は、ナイロン袋をゴソゴソして、みどりから借りた高いグローブを取り出して、手渡す。


「大事に使えよ」


 ボロボロにしたらみどりに迷惑かかるからな。


「うぁ、うっそ……ミチローモデルの最新型二万円……っ? たっちー、これ、買ったの? わたしのために?」


「ま、まぁな」


 このくらいの嘘は許されるだろう。紗夜子のためだからな。


 しばし無言。後、紗夜子が言う。


「……でも嫌だ。グローブなんて触りたくもない」


 そう言う割には、やけにグローブに詳しそうだがな。


「何でそんなに嫌がるんだ」


「野球は嫌いって言ったでしょ!」


 怒ってきた。


 俺は「そうだっけ?」とか言って、とぼけてみせたが、紗夜子はどうあっても外で遊びたくないようで、「言った言った! 何回も言った!」とかって喚いていた。どうあってもあの不思議に落ち着いた雰囲気の理科室へ戻りたいらしい。


 しかしだ、俺も引き下がるわけにはいかない。


「これからやるのは野球ではない。キャッチボールだ」


「屁理屈……」


「屁理屈ではない。野球はもっと大勢でやるもんだ。二人だからキャッチボールだ」


 押し黙ってしまったぞ。


 どうするかな。まぁ、とにかく、何とかして説得しよう。どの道、最初からイチかバチかの賭けみたいなもんなのだ。強引にやれるだけのことをやるしかない。


「そうだな、じゃあ、あれだ。紗夜子が俺の安物のグローブをダメにするくらいの球を投げれたら、理科室に帰ることを許してやろう」


「何それ。わたしを挑発してるの? そんなのにわたしが乗るとでも思ってるの? この冷静なわたしが!」


 結構乗り気じゃねえか。もう一押しだとみた。


「どうせひょろひょろの球しか投げられないんだろ?」


「言ったなぁ!」


 紗夜子は、高いグローブを左手にはめると、俺の手からボールを奪い取ってグラウンドの真ん中に向かってその細い体に似合わないようなドシドシ歩きで出て行った。


 めちゃくちゃ単純なヤツだな、おい……。


「お、やる気になったな」


「構えろ、たっちー!」


 俺は紗夜子を追ってグラウンドに駆け出て、紗夜子に言われた通りに構える。


「ココだぞ。ココ」


 胸の辺りに構えた安モノグローブを右手で指差す俺。


 紗夜子は小さく振りかぶって、投げた。


「おあっ」


 俺は思わず声を漏らす。


 大暴投だった。


 俺が走って拾いに行く。


「…………」


 紗夜子は自分の右手を見つめていた。


 俺は、ボールを拾い上げ、遠くから紗夜子に向かってボールを投げた。


 ボールはグラウンドを二度ほど跳ねて、紗夜子の左手のグローブに収まった。


「今のナシ」


 ナシって……。


「よし、次こそ来い」


「うん」


 紗夜子は大きくこくりと頷いて、再び小さく振りかぶった。


「こい、二球目っ」


「違うっ、一球目っ」


 本気でさっきのナシにしたいようだ。


 まぁ、野球をやってなかった期間の、ブランクっていうのかな、そういうのがあるだろうから、感覚を取り戻すまでは何球かかかりそうだな。


「じゃあ一球目」


 そして紗夜子は、オーバースローで腕を振り切った。


 そこそこに速い球だったが、手前でワンバウンド。


 俺は何とかキャッチした。


「今のもナシ!」


 子供か、お前は。


「もう何球目でもいいから、さっさと投げろ」


 俺は言いながら、ボールを投げ返す。


 少し高めに抜けてしまい、紗夜子頭上二十センチの辺りを通り過ぎて行った。


「ちょっと、ちゃんと胸に投げなさいよね」


「お前なぁ……」


 今のは、ちょっと手を伸ばせば捕れただろ……。


「拾いに行きなさい!」


「しようがねぇな」


 俺は紗夜子の言うとおりに拾いに行った。


 無理にキャッチボールに誘ったのは俺だしな。


 で、さっきまで居た辺りに立ったのだが、


「たっちー、さっきの位置とズレてる。もちょい左」


 細かいなぁとは思いながらも、俺は言われるがままに移動する。


「そこっ! よっし、いくよっ」


 ノッて来たようだ。野球大好きオーラがほとばしってるぞ。


「インハイっ!」


 内角高めを狙って投げたのだろうが、ボールはワンバウンドした。


「…………」


 何やら絶望的な色の目をする紗夜子。


「惜しいっ」


 俺は言ったが、


「惜しくない……」と紗夜子は呟く。


 納得していないようだ。


「次だ次」


 言って、ボールを投げ返す。


 腰の高さで紗夜子は捕った。そして、すぐに小さく振りかぶる。


「……っ!」


 投げた。


 ボールは俺の遥か頭上を飛んで行った。


 おーい、わざとやってんじゃないだろうなぁ……。


 で、拾いに行って、戻ると、紗夜子は右手の動きを真剣に確認しながら何度か首を捻っていた。やはり自分の投球に納得いかないらしい。


「いくぞー」


 と俺。


「あ、うん」


 頷く紗夜子。


 俺がボールを拾い上げ、ふわりとしたボールを投げると、グローブを付けてない右手で捕ろうとした。


 バチッ。


 手にぶつかって、地面を弾む。


 二回ほど跳ねたところで、グローブで捕り直した。


「あ、お、おい、大丈夫か?」


「あ、ついクセで」


 どんなクセだ。


 だがまぁ、突き指とかしなくてよかった。


 紗夜子は、細いし、外に出てないから骨も弱いだろうしな。


 ボール投げてたらいつの間にか骨折してました、なんてことになったら、みどりに引っ叩かれるな。それどころか命すら危ういかもしれん。みどりは、まつりとも幼馴染なわけだから、そんな時に不良のまつりが出て来たらなんか絶対にヤバイ気がする。


「絶対ムリするなよ。なんか痛みとか感じたらすぐ言えよ」


 紗夜子はこくりと頷いた。


「じゃあ行くよ、一球目!」


 まだ一球目のつもりなのかよ。


 紗夜子は小さく振りかぶって、


「……っ!」


 投げる。

 暴投。


 投げる。

 暴投。


 投げる。

 ワンバウンド。


 投げる。

 暴投。


 投げる。

 暴投。


 天を仰ぐ紗夜子。


 投げる。

 暴投。


 投げる。

 すっぽ抜けて自分の後ろに転々とする。


 投げる。

 暴投。


「…………」


 なかなかストライクが入らない。


 走らされる俺の身にもなってほしいぜ。


「あのな、紗夜子。速い球いらないから、ちゃんとコントロールして投げろ」


「ふんっ。わかったわよ」


 紗夜子は言ってボールを受け取り、小さく振りかぶった。そして投げたが、またワンバウンド。難しいバウンドだったが、何とか体で止めた。


「ヘタクソ!」


 思わず、俺は言った。


 そしてボールを投げ返す。


 紗夜子はそれを胸の辺りで捕った。


「……ヘタクソですって?」


 げぇっ。紗夜子が燃えている。あの冷静な子が背中に炎を(まと)っているように見えるぞ。


「じゃあ見せてあげるわよ! わたしの本当の球を!」


 言いながら、紗夜子は左手にはめていたグローブを外して地面にそっと置き、ボールを左手に持ち替えた。


 そして、少し顔を歪ませながら、大きく振りかぶった。


 ダイナミックに右足を振り上げ、着地する。


 横手投げで左手を振り切った。


「あ……」


 紗夜子の声。小さな呟きは、ボールよりも先に風に乗って俺の耳に入った。


 ふわりとした球が、紗夜子の手を離れ、山なりの軌道を描いて俺の構えていたグローブの中に収まった。


 ストライクだった。


「何だ、やればできるじゃ――」


 俺が言い掛け、顔を上げた時、紗夜子は左肩を抑えて呆然としていた。


「紗夜子……?」


 そして、ガクンと力なく崩れ落ちるように膝をついた。


 左肩から右手を離し、グラウンドに右手をついた。四つんばいみたいな形になる。


「紗夜子っ!」


 俺は名を呼んで、近付こうとしたが、


「来ないでっ!」


 悲痛な声で叫んだ。


 グラウンドに雫が落ちる。


 ポタ、ポタと。いくつも。


 何が何だか、わからない。


「わたし……こんなにボール遅くなっちゃった」


 何がどうなって泣いているのか……。


 しばらく考えて、何度も理由を想像して、気付く。


 左腕を肩より上に上げたことが無かったことに。わざわざ右手を使うことが、多かったことに。


 ああ、そうか、紗夜子は元々左利きだから。だから、ブランク以前に、右手でボール投げた事ないから、うまくいくはずがないのか。それは、みどりが言っていたから知っている。


 知っていたはずだったが、忘れていた。


 けっこう良い球投げてるもんだから、治ったんだとばかり。でも、考えてみたら今までは右で投げてて、痛めてるのは左で……。


 ああもう、何やってんだ、俺のバカ。


「……ぅっ、うっ……肩がね……上がらないの……っ……」


 また、泣かせてしまった。


「紗夜子」


 俺は紗夜子の肩に触れる。


「触らないで!」


 振り払われてしまった。


 そして、また、泣いている。小さくなって、泣いている。震えながら。


 抱きしめてあげたい。でも、その前にやることがある。まだ、抱きしめてやる時じゃない。


 俺は心を鬼にすることにした。


 俺はきく。


「速い球、投げたいか?」


「え?」


「速い球を投げたいのかと訊いてるんだ」


「そ、そりゃ……」


「俺は、利き腕じゃない右手でコントロールの良い速い球を投げる方法を知ってる」


「本当?」


 涙を溜めた潤んだ瞳で、俺を見ていた。


 そう、方法はある。


 それは、ソフトボールのウインドミル投法だ。


 あくまで投げられる可能性がある、というだけの話だから確実に投げられるわけじゃない。それでも、オーバースローで投げるよりは紗夜子に合ってると思う。


 紗夜子は体が細いし、長年のひきこもり生活のせいで筋力も無い。足腰なんてひどく弱ってるだろうし、まして利き腕が使えない。


 上から投げるよりも下からの方がコントロールがつくと思う。


 そして投球の力を遠心力に大きく依存するソフトボール投法の方が球速も出るんじゃないだろうか。


「やる気はあるか?」


「…………」


 大きくて黒い瞳に、俺の顔が映った。


 そして、勢いよく閉じた目から、涙が弾けた。


「やる!」


 強く、熱く、紗夜子は言った。


「よし、やるぞ。紗夜子。ウインドミルだ!」


 紗夜子が寝ている間にネットを駆使して調べておいたんだ。あらゆる投法を。


 そして、紗夜子のような細い体なら、ウインドミルが一番速い球を投げられるんじゃないかと思って目を付けていた!


 実際はやってみなければわからないが、やってみないことには何も始まらないし、何も始まらなければハッピーな終わりもないのだ。


「まあ、その前に、まずハンカチを貸してやるから涙を拭け」


「うん」


 俺の手渡したハンカチを受け取り、涙を拭いた。




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