紅野明日香の章_2-5
全校、一時間目が中止された。三人で行う運動会が始まるらしい。
何でこんなことになってんだ。
「…………」
無言で準備運動を終わらせた選手三人……。
体育着に着替え済み。
まつりの左手にはグローブ。右手に軟球。
紅野は両手でバットを握っている。
……どうなの、これ。
風紀委員の上井草まつりは、普段どれだけヤンチャやってるんだ。普通に考えて、どうやれば授業中に私用で校庭を使用する許可が下りるんだろうか。普通じゃない。マトモじゃない。何者なんだ、上井草まつり!
「そろそろ始めるわよ」
まつりは半袖体育着の袖をまくりながら言った。引き締まった二の腕と肩が露出された。
ていうか、三人でどうやって野球するんだよ。
「ルールを説明するわね」
「おう、頼む」と俺。
「わかりやすくお願いね」と紅野。
上井草まつりは、「コホン」と一つ咳払いして、続けた。
「種目は野球。あたしがピッチャーで、二人には一打席ずつ打ってもらうわ。ヒット一本でも打てればキミたちの勝ちで良いわよ」
紅野明日香は、
「それで、こっちが勝ったら?」
すると上井草まつりは、
「あたしが負けるわけないわ。だから、何でも良いわよ。何でも、いくらでも言うこときくわ」
とか言った。自信があるようだ。
「手下になるってことね。燃えるじゃない」
「逆に、キミたちが負けたら、あたしの手下になってもらうけど」
「いいわよ」
紅野明日香も自信ありげに返した。
「自信ありって感じね。楽しみだわ」
二人の背景に、ゴォと炎が燃え上がった気がした。
そして、上井草まつりは、早歩きでマウンドに上がり、キャッチャーを座らせて投球練習を開始した。
ダイナミックなフォームから剛球が繰り出される。長身を生かしたオーバースローで、角度ある直球。というか、
ブビィェン!
なんか意味不明な擬音が聴こえてきた。
ボブゥシュレ!
球威が、半端ではないぞ……。
何者だ、上井草まつり!
「さぁ、もう肩はあったまったわ。敗北したい方からバッターボックスに入りなさい!」
すると、紅野明日香が命令してきた。
「達矢、あんたから行きなさいよ」
「うぇえ? 何で……」
「私が出るまでもないわ。あんなヘナチョコストレート、あっさり弾き返してやりなさい」
「はっ! 言ってくれるじゃない。ただ、勘違いしてもらっては困るわ。あたしが投球練習で本気を出すとでも?」
マウンドからそんな言葉を発していた。
「だそうです」
「いいから、さっさと行きなさいよ」
「はい……」
俺は手渡されたバットを握って、バッターボックスへと向かう。
マウンドには、上井草まつり。
他に、守備に就いているのはキャッチャーだけ。
まるで死刑台とかに向かっているような錯覚を感じるんだが、気のせいだろうか。
「直球三球で終わらせてあげるわ!」
上井草まつりは、俺にボールを握った右手を伸ばし、挑発的な姿勢。
俺も黙って右打席に入り、バットを持った左手で外野を指し示した。
ホームラン予告だ。
そして言うのだ。叫ぶように。自分を鼓舞するように。
「…………こいッ!」
上井草まつりは大きく振りかぶる。
そして、体を大きく捻って……。捻って、捻って……?
捻りすぎだろう……。
かつてメジャーで活躍した某日本人投手のようなフォーム。
所謂、トルネード投法!
「っはっ!」
息を吐いて、一気に溜め込んだパワーを開放し投球した。次の瞬間っ!
ひゅーん。
目の前を、何かが通り過ぎていった。そして、強風。後、轟音。
ビブュェン!
ボールがミットを叩く音である。
「は?」
思わずそんな声が漏れる。
何これ。打てるわけないんだけど。
ていうか、今、たぶん、目の前通り過ぎたよね。危険球だよね、これ。
「チィ、惜しい」
惜しいって、あれっすか。俺に当てる気でしたか?
逃げたい。恐ろしい。
「ワンボール」
捕手の男がカウントをコールする。
「…………」
言葉が出ない俺。
おそろしくって、おそろしくって……言葉に、できなぁい。
「ラーラーラー、ラァラーラー♪」
調子外れに歌った。
するとマウンド上のまつりは、顔をしかめた。
「……何よ? 大丈夫? 頭」
ダメかもしんない。
で、二球目、三球目。
バシュウェン!
「ストラーイク」
ドビュッシィ!
「ワンボール、ツーストラーイク」
あっさりと追い込まれてしまった。ど真ん中のストレート二球で。
「こらぁ、達矢! 振らないとあたんないわよ!」
んなこと言ったって、コイツの球やべえぞ。
体に当たったら骨折れるレベルだ!
マンガみたいな直球持ってやがる!
「行くわよ、最後の一球!」
ダメだ。俺ダメだ。完全に呑まれている。振らなきゃ。とにかく振らなきゃ、このままじゃ最悪の見逃し三振だ。
まつりは、思い切り腕を振って投球。
投球後、体が一塁側にフラッと流れた。
「てやぁ!」
そして俺は、外角クソボールを腰の引けた情けないスイングで振って三振した。
「最っ低……」
紅野の怒りの色を帯びた呟きが、耳に届いた。
「ふん、百年早いのよ、雑魚が!」
上機嫌に言い放つ上井草まつり。
悔しい。だが悔しいが、確かに百年くらいは早かった。
あんなボール打てるものか。俺は、野球なんてやったことないもの。せいぜい友人とキャッチボールしたことがあるくらいのものだもの。
紅野明日香は、かわいそうなものを見るような目を向けている。
「いや、お前もバッターボックスに入ってみればわかるぞ。あれは泣きたくなるほどに剛球だ」
「ちなみに達矢、野球の経験は?」
「ほとんど無いです。プロ野球中継とかは見たことあるけど」
「じゃあ、無理ないわね」
「お前は、あるのか? 経験」
「元・女子ソフトボール部よ」
「それは、期待して良いんだな?」
「当然。子分の尻拭いくらいしてあげるわ」
いや、あの、子分になった記憶は無いんだが。
紅野明日香は俺からバットを取り上げると、それを肩に担ぎ、右打席へと向かった。
そして、バッターボックスをならした後、まつりに向けてバットの先を向けた。
「上井草まつり!」
「何よ。早く構えて。肩が冷めちゃうじゃないのよ」
「あんたの投球フォームには、致命的な欠陥があるわ! それをこれから教えてあげる!」
「どうせ、ブラフなんでしょ。そんなもので、あたしがフォームを乱すとでも? それとも、あたしの肩を冷やしてコントロールを乱させる気? 卑怯だわ」
「卑怯なことなんてしないわ。与えられたルールの中で、戦う!」
紅野明日香は隙の無さそうな構えを取った。いかにも打ちそうだ。
上井草まつりは、ふっと息を吐き、振りかぶり、体を大きく捻る。そして、
「ふっ、それじゃあ、行くわよっ。打てるものなら、打ってみなさいっ!」
投げたッ!
ヒュン!
「ひぃ」
何故か俺がびびっていた。
バジュォン!
軟球がミットに収まる音である。紅野の顔面スレスレを通るビーンボール。
しかし紅野は臆してはいなかった。避けようとする素振りも見せなかった。
俺の場合は、ボールの軌道が見えなかったからだったが、紅野の場合はどうだろうか。
「ボール」
カウントをコールする捕手の男。
「ふんっ、この程度のピッチャーなんて、プロに行けば大勢いるわ」
いや、紅野。お前プロじゃねえだろ。つーかプロの球打てるのかよ。
「減らず口を……」
そしてまつりは、次の一球を、投げるため、体を大きく捻り、打者に背中を向ける形に。で、溜め込んだ回転力を一気に解放、腰、腕、肘を回転させ、手首、指と力を伝える。
そうして放たれたスピンの掛かった剛速球を、紅野明日香はバットに当てた!
コツン。
というかバントした。打球は三塁線を転々とする。フェアゾーンを転がる。
その手があったか!
「え……」
そして、一塁へ全力の猛ダッシュを見せる紅野。
守備に就いているのはピッチャーと捕手のみ。
まつりは慌てて捕球して、一塁に投げる素振りを見せたものの、送球する先には無人。ボールを持った右手を力なく垂らした。
ベース上を駆け抜けた紅野明日香は、一塁ベース上に戻り、その上に乗っかった。そして、まつりを指差して、
「私の勝ちねっ!」
大きな声で言った。さらに続けて、
「あんたのフォームには致命的な欠陥がある! それは投球後、体が一塁側に完全に流れてしまう事。剛球は投げられるけど、守備への反応が遅れる! だから、三塁よりにボールを転がせば、この通り。つまり、そのフォームで投げ切るには下半身の力が弱すぎるのよっ!」
とか言いたい放題。
体をわなわなと震わせる上井草まつり。そして、
「卑怯よ!」
叫んだ。
「何が卑怯なの?」
「バントでヒットなんて!」
「バントヒットを狙うのだって立派な戦術でしょ? 寝ぼけた事言わないで」
「なっ……ず、ずるいっ……」
「ルールを提示してきたのは、風紀委員の方でしょ? それを卑怯? ずるい? 自分で決めた事を守れないような人間に、風紀を守る資格は無いわ! 今日から私が風紀委員になってあげる!」
一瞬、場が静まり返り、直後ざわざわした。
男子生徒の一人がこう言った。
「おい、風紀委員が負けたぞ。ってことは、新しい風紀委員は、あの紅野とかいう転校生?」
ちょっと待て。あれか、風紀委員は国王みたいな立場なのか?
それとも学内最強が風紀委員になるみたいなバトル漫画みたいな伝統でもあるのか。
別の男子生徒も呟く。
「さすが転校初日に呼び出しくらっただけのことはある。こいつらやっぱり、ただものじゃねえ」
もしかして今、俺も周囲をビビらせているのだろうか。
俺は何もしてないんだが。三振しただけなんだが。
「こんな負け、認めない!」
「見苦しいわよ! 上井草まつり! いえ、元風紀委員!」
もう風紀委員になったつもりでいやがる。
「くっ、そ、そうだ、そうよ。同じ条件で、勝負。もう一度やるんじゃなくて、今度はあたしが打って……そう、まだ勝負は終わっていないわ!」
「そんな、ジャンケンに負けて『今の練習ね』みたいな小学生的展開が許されると思ってるの?」
「こ、今度は立場を逆転して、あたしがバッターボックスに立つわ!」
「余程悔しかったのね……可哀想に」
「くっ」
屈辱だ、とでも言うように歯を食いしばる。
そして、
「お願い、します……勝負して下さい……」
小さな声で、目を逸らしながら言った。
「だってさ。どうする? 達矢」
ここで良い笑顔をしながら俺に意見を求めて、再戦を渋るところとか……紅野さんの場面展開力が明らかにいじめっこのソレなんだが、どうしてくれよう。
俺としては、もう紅野のおかげで靴を捨てられたことの仕返しは済んだと思うが、まつりが戦いたいと言っているわけで。
それに、俺に断る権利は無い。
個人的な一打席勝負ではボロ負けの情けない三振だったしな。
「やればいいと思うぜ」
他人事みたいにして言ってみた。
「ありがとう!」
上井草まつりは言って、再び半袖体育着の腕をまくると、
バットを握って素振りを始めた。
「二打席勝負でお願い! 公平にね」
「だそうだ」
俺は紅野に言った。
「そうね、良いんじゃない?」
紅野は他人事みたいにして言った。
「ちなみに、紅野ってピッチャーできるの?」
「嫌よ、ピッチャーなんて。達矢がやるべき」
「え」
「私はピッチャーなんて出来ないから、だから達矢に訊いたのよ? どうするかって」
「まじ?」
「そりゃそうでしょ。ピッチャーだけはね、選ばれた人にしかできないポジションなのよ。私なんて本職セカンドだし、ピッチャーやってみたことあるけどストライク入んなかったし」
「いやいや、だったらそもそも俺野球未経験だし」
「とにかく期待してるわ。てか大丈夫でしょ、タツヤって名前だもの」
「どういう理屈だ」
「速い球期待してるからね」
紅野は言って、ドン、と強く俺の背中を押した。
あいにく、速球への期待には応えられそうにないぜ。