浜中紗夜子の章_2-2
『理科室』
頭上のプレートには、そう書いてある。
確かに匂いはこの扉の向こうからだ。
でも、理科室……?
そんなイタリアンな匂いがするような場所だろうか。薬品のにおいがするイメージしかない。この扉の向こうに何があるのか、気になる。
俺は思い切って扉を開けた。
するとどうだろう、謎の光景が広がっていた。
理科室のはずのその場所は、イタリアンな匂いに包まれていて、その上、床には緑のカーペット。窓には赤のカーテン。白いクロスが掛けられたテーブルがいくつも並んでいた。
赤、白、緑。なんかどっかの国旗みてーな色だな。
あるテーブルにはノートパソコンが置いてある。またあるテーブルには漫画が数冊散乱していた。またまたあるテーブルには洋服が散乱。そして保健室にあるようなベッドが置かれていた。しかも天蓋つき。
オシャレな生活感のある部屋。
理科室にあるまじき光景だった。
「あっ……」
んで、扉の向こうには、人が居た。
真っ白な肌をして、短めの髪に、広いおでこ。背は小さく細身の体で、すばらしい鎖骨をしている。女子の制服を着た、細っこい子だ。
制服の右腕には、上から緑、白、赤の三色ラインが横に入っていた。
何だろう……これも、どっかの国旗みたいだ。
その子と目が合った。
感情の色が無いような瞳で見据えられる。
「入って、いいか?」
訊くと、
「うん」
こくりと大きく頷いた。
俺は何だか不思議な異世界感を抱えつつ上履きのまま理科室に入る。
「誰?」
その子は、右手に持ったパスタ料理が載った皿をコトリと台の上に置きながら言った。
そこで俺は、
「戸部……達矢」
名乗った。
「わたしは、紗夜子」
平たい胸に左手を当てて名乗り返してきた。
「さよこか、どういう漢字だ?」
「糸へんに少ない。夜の子供」
紗夜子……か。可愛い名前だ。
「トベタツヤって……どっかで、聞いたことあるね」
「昨日、呼び出しくらったからな」
「ああ、転校初日に呼び出しされた不良だね」
「まぁな。プチ不良だ」
「これから朝ごはんなんだけど、食べる?」
紗夜子は、自分で作ったらしいパスタを指差しながら言った。
見たところ、トマトソースのスパゲッティ。
美味しそうだが、今は別に腹減ってないしな。
「いや、朝メシ食ったばっかりなんだけど」
「そうなんだ」
少し残念そうな顔をしたような気がした。
あまり表情が無い感じだから、わからないけれど、何となくそう感じた。そこで、優しい俺は、
「少しなら味見してやってもいいぞ」
と偉そうに言った。
「えー、わたしがいっぱい食べられなくなるジャン」
非難の目を向けられた。
「あ、じゃあいらないです」
「よかった」
言って、ほんの少し、ほんの少しだけ笑うと、背もたれのない椅子に座って、
「いただきまっす」
言って、パスタを左手に持ったフォークで食べ始めた。
「……もぐもぐ」
「うまそうだな」
「超うまい……もぐもぐ」
俺も味見したくなってきた。
「なぁ、紗夜子……だっけ?」
「うん、紗夜子」
「少し、分けてくれないか?」
「何を? やばいクスリ?」
「うお、そんな商売してんのかお前……」
「冗談」
無表情でシャレにならない冗談を飛ばすなよ。
俺は明らかに通じるのに身振り手振りを大きくして、
「俺が分けて欲しいのは、お前の作った料理」
「これは、わたしの朝ごはんだから、分けない。お昼なら、作るよ?」
「ほう」
「ていうか、たっちー」
たっちー?
「それは、もしや、俺の愛称か?」
すると紗夜子は、「うん」と言いながら、また、こくりと頷いた。
「恥ずかしいな、なんか。あ、それで、何か用か?」
「そろそろ授業開始の時間だけど?」
「ふっ、なんだ。そんなことか。俺は、転校二日目にして不登校になることを決めた。もうあの教室には行かない!」
紗夜子は「ふーん」とかって興味なさそうに言って、再びパスタを食べ始めた。口元がトマトソースで赤く染まっている。
「お前、吸血鬼みたいになってるぞ」
「む? 失礼だぞ、たっちー。初対面の女の子に向かって吸血鬼なんて」
「そうだな。ごめん」
「ま、いいけど」
その時だ、授業開始を告げるチャイムが鳴ってしまった。
しかし、目の前の紗夜子は慌てる様子も無い。
もしやと思い、きいてみる。
「紗夜子、お前もサボりなのか?」
「当り前じゃん」
当り前なのか。
「だって、どうせ自習ばっかだし、わたしもね、教室ってのは嫌い」
「何かトラウマでもあるのか? ギャグが滑ったとか」
「んー。トラウマね。あるかも。頭では、クラスの教室に行きたいって思ってるんだけどね、それは、やっぱり無理なのよ」
「そうなのか」
「教室に行かないことには、わたしの時間は動き出さないような気もしてる。だけど、教室に行くと、心が痛くて、涙が、止まらないのよ」
「……そうなのか……」
何やら心に傷を負っているらしい。
まぁ、ここは『かざぐるまシティ』だからな。傷を持った人間、不良、病を抱えた人間。そういう人が集められる。だからそれ程驚かないぜ。
「でも、学校に来ないでいると、ひとりぼっちになっちゃうの。そうなると、寂しくて、涙が止まらないの」
「大変だな」
「大変なの」
カチャン、と紗夜子が左手で持っていたフォークを皿に置いた。
「ごちそうさま」
綺麗に平らげていた。けっこう量あったように見えたけど、細い体してる割にはよく食べるなぁ。太らない体質なのだろうか。まぁ、会ったばかりで紗夜子の食事シーン見たのコレが初めてだけど。
「なぁ、紗夜子」
「何?」
「お前もそうだと思うが、実は俺も、寂しいと死んでしまうタイプの人間なんだ」
「ふーん」
「俺も、紗夜子のクラスに編入していいか?」
「どういう意味それ」
「見たところ、お前、理科室に住み着いてるんだろ?」
すると紗夜子がわずかに驚愕の表情を浮かべた。
「な、何でバレたの?」
驚いていた。表情はあまり変わらなかったけど、これは驚きの顔だ。
「バレバレだろうが!」
俺は言ってやった。
理科室に勝手にカーペット敷いてカーテンつけて、テーブルを勝手に多目的に使ってベッド運び込んでたら誰だってそう確信するわ。
「うゅぅ……」
よくわからん声を出した。全くもってよくわからんが、不満そうな感じだ。
「で、だな。俺もここに通いつめていいかって訊いてるんだが」
「まぁ、別にいいけど」
「本当かっ?」
「うん。皆、ここには近付かないから、寂しかったけど、そんなこと言ってもらえて、感動」
無表情で言われても全然感動しているようには見えないが。
「でも、言ったからには、毎日来てよ?」
「ああ。毎日来る。約束するぜ」
「そう、嬉しい」
嬉しく無さそうに、冷たく言い放つように、紗夜子は言った。
喜怒哀楽が、あまり無いように見えた。