笠原みどりの章_プラネタリウム-3
そして、その時が来た。
『では、プラネタリウム計画、はじめます』
町内放送によって響き渡った伊勢崎志夏の声。
夜だった。
一日に一度の、風が弱まる時間帯。昼に弱まることもあれば、真夜中に弱まることもある。
今日はそれが夜だった。
薄暗い世界で、風に揺れる布が、街の西側から東側に向かって、皆の手で布が送られていく。
つぎはぎだらけの、お世辞にも素敵とか言えないような、風を止めるための幕。
まるで、町を塗り替えるように、少しずつ進む。ゆらゆらと揺れながら進む。
坂を滑り降りていくように。
時折、弱い風を受けて捲れ上がることもあった。
建物や風車に引っ掛かって、全体が止まることもあった。
でも破けずに、奇跡的に破けずに白い家が並ぶ住宅街をも包み込み、湖まで到達した。そして、湖の上を通り、風が弾き出される裂け目まで来た。そこがゴールだった。
この裂け目から吹く風が、あっという間に街の中に入り込み、坂を駆け上がって空間を満たし、ドームにする。風が弱まっているとは言っても、この場所は普段の屋上くらいの強い風が吹いている。
『皆さん。所定の位置について下さい』
町中に志夏の声が響いて、人々は近くにある土のうと自分の体重で広げられた布の端を押さえる形で座った。それが、所定の位置。
強い風が次々に入り込み、つぎはぎだらけの天井を揺らしていた。
ああ、昔幼稚園でこういうのやったな。
広場で、ばっさーってやって皆で中に入るっていう、意味のわからない運動。楽しかったけどな。
あれと似てる。
たしか、バルーン遊びって言ったかな……。
見上げた天井は、あの頃見たバルーンの天井よりもずっと遠く。はるか手の届かない位置にあって、風を受けてさざなみのように揺れていた。
「もうそろそろ、良いかな」
「ああ」
俺とみどりは、二人で協力して、風の通り道を、ほぼ塞いだ。かなり強い風圧に押されたが、崖の両側の強固な岩盤に金属製の器具を引っ掛ける形で固定して、俺たちの仕事は終わった。
そして、見上げる。
つぎはぎだらけの、ドームの天井。
何基も並んだ風車が、止まっていく。
湖の反時計回りの風車が止まって、住宅街の風車が止まる。
笠原商店の裏にある風車も止まった。
急な坂道に並べられた風車並木も停止した。
学校にある、一番大きな風車も止まった。
俺が窓際からいつも見ていた風車が、一番大きな風車が止まった。
風が、止んだのだ。
少しずつ、街の灯が落ちていく。
風車が止まれば電気の供給も止まり、明かりも消えていくのだ。
湖、住宅街、商店街、学校。
手前から、俺たちを中心にして、放射状に光が消えていく。
扇状に広がっていた明かりが、手前から消えていく。
街が眠る。
さわさわと、街サイズの巨大バルーンの端を押さえる人の囁き声がする。
やがて、世界は真っ暗闇になった。
この街も、夜は静かだし、それなりに暗い。
でも、街灯があって、完全な「真っ暗」ではなかった。
「こんなに暗いの、初めて」
「こわいか?」
「少し……。でも平気」
「そうか」
「級長、ちゃんとやってくれるかな」
「大丈夫だろ、責任あるポジションに就くような奴だぞ」
暗闇になったら、志夏が校庭に置かれた「機械」を動かして、ほんの数分。数分だけの星空が、お粗末なドームの天井に映し出される予定だった。
その「機械」ってのは、みどりが作ったんだそうだ。
まつり様にこきつかわれていた俺は見ることができなかったのだが、まぁ正直、大した機械ではないだろう。
数秒すると、ゆらゆらと波打つ天井に光が差した。
志夏が機械を動かしたようだ。
星空…………。
星空?
いいや、それは星空とは呼べないものだろう。
水玉模様と言った方が良い。
特別キレイとも言えないような、ボタボタした光たち。しかも完全な円ではなくてギザギザしてたりする。
つぎはぎだらけの布のバルーン。所々、糸のほつれた揺れる天井にハッキリしない光が浮かんでいた。
街中を巻き込んだ割には、あまりにもお粗末な内容。
だけど……だけど、これは……。
その時、震えた声がした。
「だ…………」
みどりが肩を震わせながら泣いていた。
「ださいよね。こんなの、ださいよね」
涙声。
申し訳なさそうに泣いていた。
広がる星空、揺れるカーテンにあわせて揺れる星空。リアリティの無い、空。
でもそれは、星空。
星空だ。
誰が何て言おうと星空だ。
俺が認める。星空だ。
完成度なんてとても低くて、中学生以下レベルにも思えるようなダメな内容で、街を巻き込んでまで行うようなイベントじゃなかったかもしれない。でも、俺にとってそれは何よりも美しく、彼女は誰よりも素晴らしく、声が震えて出せなくなるほどの感動を与えるものだった。
「…………」
抱き寄せた。温かい。
――満天の星空を見せたい。
――町を守りたい。
彼女のその想いは、俺に満天の星空よりも美しい何かを見せてくれていた。元気を与えてくれた。
「あたし、星って、星空の作り方、よくわかんなくて……ごめん……達矢。ひどい、これひどいね……。ごめん、ごめんね」
「バ……バカ野郎、大きい星が浮かんでんだろ」
俺は言った。
そうだ、あれは、一等星よりも明るい、特等星だ。
「本当の星空よりずっとずっと、キレイだぞ」
本当に、そう思った。
「お世辞じゃないからな」
「でも……」
震えて、弱々しい声。まるで、罪を背負ったみたいに。
「でもじゃねえんだよ。俺が、俺が見て感動したんだよ……」
片腕で彼女を抱き、強い風に揺れる、ださい星空に手をかざしながら、俺は叫んだ。
「俺は、みどりが、好きです」
「…………」
その時、突風が吹いた。
「きゃぁっ」
風で飛ばされそうになったみどりを強く抱きしめる。
あんまし鍛えていない両腕で。
バチン、と音がして、裂け目から吹いた強風が、塞いでいた風の通り道をこじ開けた。
つまり、布を押さえていた器具が外れて、風に弾き飛ばされて、空が……空が見えた。
唖然とした。
急に強い風が吹いたからじゃない。
光ない街。暗い世界。星明りだけ。
見上げた空には、星がいくつもあった。
流れ星が、いくつも流れていた。
知らなかった。こんな空が、あるなんて。
星が降って、降って、願い事がいくつも言えちゃうくらいに……。
前言を撤回したいと思う。みどりの負けだ。完敗だ。本物の満天の星空に勝てるわけがなかった。
だけど、でも、そうだ。これは、この景色を見ることができたのは、みどりのおかげじゃないか。
みどりが何もしなかったら、いくつも零れ落ちて来そうな満天の星を見ることもできなかった。
町を星々から隠していた幕は取り払われ、湖の風車に引っかかり、微かな星明りの下でバタバタと風にはためいていたが、やがて強い風によってあおられ、ビリビリと引き裂かれ、町の北側と南側に分かれ、まるで紙細工のように盛大に飛ばされていった。
みどりと俺は、強い強い風に吹かれながら、空を見上げてしばらく黙っていた。
と、星降る静寂を切り裂いたのは、俺の胸の辺りから響いたみどりの声。
「ねぇ、達矢」
「何だ、みどり」
いつの間にか、みどりは泣きやんでいた。
「流れ星って、何で流れるの?」
「風でも吹いてんだろ」
そして、風車が回り出してしばらく経ったようで、星空はボンヤリとしたいつもの濁った空に戻った。
「……みどり」
「何?」
「前にも言ったけどな……」
「…………」
「いつか、一緒に、この街を出ような」
すると、心地悪くない沈黙の後、
「うんっ!」
彼女は大きく頷いた。
少しずつ光を取り戻していく街を背景に、彼女は、笑っていた。
今まで一度も見たことのない、最高の笑顔で。