紅野明日香の章_2-1
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――夢を見た。
その世界は、暗くて、その暗さが、かえって彼女の白い肌を眩しく見せた。
揺れる視界。走っている。何度も振り返りながら。
俺の吐く息の音だけが、妙に大きな音で、他の音を全てかき消していた。
彼女が何か叫んでいる。
叫んでいる彼女を見たわけではないし、何も聴こえないけれど、そういう振動が……わけのわからないリアルな感覚を持って伝わってくる。
彼女は――誰?
誰だ……。
★
目が覚めたのは、午前五時半。早朝だった。
遅刻にならないギリギリの時間が八時半、学校までの所要時間が三十分。なので、これは超早起きだ。やはり、日が沈むのが早いと街が眠るのも早い。そうなると俺の寝る時間も早まるというものだ。
紅野明日香と別れた後に、部屋に戻って、娯楽品とか何も無いので、所在無くゴロゴロしているうちに意識を失っていた。
布団も出さずに眠ってしまったので、眠ったのは六畳敷かれた畳の上。そして起きて、今は部屋に備え付けられたバスルームでシャワーを浴びている。所謂お色気シーンというやつか。
俺は男だがな。
ところで、何か夢を見ていたような気がする。
どんな夢だったか思い出せない。
モヤモヤする。湯気並にモヤモヤだ。思いついたダジャレをメモする前に忘れてしまった時と同じくらいにモヤモヤする現象だが、どう頑張っても、俺が忘却した夢を思い出すことはない。何せ、自慢できるくらいの低スペック脳みそだからな。諦めるしかないだろう。
「よし」
俺はお湯を止めて、風呂場を後にする。
部屋に出て、開いていたカーテンから外を見る。
少し明るくなってきた世界。
風車の町。
坂を駆け上っていく風が、もう風車を回している。というか、一日中、風車が回っているんだったな。
一日一度きり、少しだけ風が弱まる時間帯があって、その時に飛行機が離着陸したり、船が停まったりして、人や物資が出入りするらしい。
俺も、一昨日の夜にその人や物の出入りに乗っかって、この街に来た。
この街と外を結ぶ唯一の公的な交通機関である船を利用した。
街の東側にある隙間の崖。
ランドルト環(視力検査とかでよく見るC字のアレ)みたいな地形の隙間に接岸して、すぐに下船。急かされながら街へと続く道を歩いた。この時、誰かが吹き飛ばされないように、下船した二十人くらいで手を繋ぎながら進むという、妙なシチュエーションがあったりする。
この時、妙な団結が生まれたり、生まれなかったり。
で、その街へと続く道は、両側の崖がどんどん迫ってくるみたいな感じで進むほど狭くなっていって、少し怖かった。
逆に言うと海側に向かって少しずつ道幅が広くなっている形ではあるのだが、ともかく、その街に入る者には圧倒的な圧迫感を与える仕様だ。
そして、圧迫感だけではない。
強風も襲ってきた。
船に同乗し、街の入口で別れた気の良さそうなおっちゃんの話だと、風が弱まった状態であの風らしい。それは、もう、何かに掴まっていないとあっさりと吹っ飛ばされそうなほどの風。
強い追い風でなびいた俺の短い髪でさえ、引っ張られた毛根が悲鳴を上げるくらいの風だった。あれで、まだ弱い方だというのだから、強い風が吹いている時にあの場所に行ったらどうなってしまうのだろうか。おそろしい場所である。
風速は、何メートルくらいだろ。
だいたい秒速三十メートルくらいだろうか。
よくわからんが、とにかく全く直立姿勢を保てないほどの風だった。
そうだな、紅野明日香と出会った時の屋上で吹いていた風よりも二割増しくらいの強さだ。
俺がウサギだったら、耳で羽ばたいて空を飛べそうな感じのな。
――って俺ウサギじゃねえし、つーかウサギでも飛べるかっ。
自分の心の中ででツッコミを入れて虚しくなった。