笠原みどりの章_5-3
暇潰しに選んだ場所は湖。
「さて、湖に来たはいいが、することがないな」
視界にあるのは、風を受けて時計回りに回転する風車の背中と、縦に伸びる大きな裂け目。その向こうの海と空。
まぁ、キレイといえばキレイだが、自然の風景っぽくはない。作られた風景って感じだ。自然が作った不自然な風景ってのも、存在することはあるだろうから何とも言えんが。
何だろうな、案外、質感としては似ても似つかないのだが、都会のビルの間を走る車道ってのが、この形に近いのかなって思う。
で、湖畔に目を落とすと、見覚えのある人の姿があった。
またしても釣りをしている。釣竿片手に振り返ったその男は言った。
「よう、アブラハムじゃねえか」
そして、釣竿を地面に置いた。
「戸部達矢ですよ」
いつまでそのネタを引っ張る気だ。トベタツヤで、ベタベタツヤツヤだから転じてアブラで、ちょっと変えてアブラハムということらしい。
「湖に来るなんて、珍しいな、アブラハム」
「昨日も会ったじゃないですか。あとアブラハムじゃないです」
「じゃあ、オイルハム」
「どんなハムだ」
「ハムが気に入らんか。じゃあオイル公」
「俺の名前の原型なくなってんじゃないっすか」
「うーん、そうだな。面倒だから達矢でいいか。そう呼ぶことにしよう。それでいいか? 達矢」
「そこに行き着くまでに随分かかりましたね……」
「まぁ、細かいことはどうでも良いんだ」
「はぁ」
「ところで、聞いてるか? 避難勧告の話」
「はい、街の中央部で空気汚染って話で……街全域に……」
「ほう、耳ざとい奴だ。で、どう思う?」
「どう思う……って言うと?」
「避難勧告だよ。明らかにおかしいだろうが」
志夏も同様のことを言っていたな。
「と、言いますと?」
「良いマスト? どこだ?」
若山は周囲をキョロキョロ見渡した。そして言うのだ。
「マストなんて何処にも無えじゃねえか」
この人と話してると、疲れるんだが。
「それで、おかしいって何がですか」
「そうだな。この街が汚染されているならば、誰かが体調を崩しても良いはずだ。しかし、この街の人々は皆健康だ。異臭等の騒ぎも何もない」
「そうですね」俺は頷いた。
「それに、本当に汚染されている、あるいは全域に避難命令を出すくらいに汚染拡大の恐れがあるならば、何故一週間後までの立ち退きなんだ?」
「どう考えても即刻立ち退かせるべきだろう。費用をいくら掛けてでも。もしモタモタしている間に誰かが病気になったら、政府はどう責任を取るんだ」
言われてみれば、そうかもしれない。
「まるで、そうだな。人質を取らずに自宅に立て篭もる武装犯に、自首をするための時間を与えているような……そんな感じだ」
例えがわかりにくい。俺が頭の悪いせいかもしれんが、言いたいことがよくわからない。でも政府の発表の何かがおかしいということは理解できた。
そして、政府や国ってのに対する不信感、というか違和感みたいなものが生まれた。
国、政府……現在、かつての民主主義政権が崩れてしまっていて、この国は、誰だかイマイチわからない臨時政府が治めている。
「どうして、そんなおかしな避難勧告が出たんですかね」
「さぁな。詳しい事はただの店長であるおれにはわからん」
ああ、そういえばこの人、店長だとか言ってたな。
「店長なのに、こんな所で油売ってて良いんですか?」
「アブラハムに油を売る……か」
「クソ意味わかんないっすけど」
思わず汚い言葉が出るほどに。
「ま、昨日も言ったが、おれはアイドルじゃないんでね。おれ一人が抜け出しても売り上げに影響は出ないさ」
若山は言うと、慣れない手つきでポケットから煙草とライターを取り出し、口にくわえて火を点けた。
大きく煙草の煙を吸って、
「がはっ、ごほっ、げほっ! けほ……」
咳き込んでいた。
「大丈夫ですか?」
「煙草も、けっこう強敵だぜ……」
「そうっすか」
「よし。じゃあ、おれはそろそろ店に戻るとするか」
言って、「よっこらしょ」と声を漏らした後、携帯灰皿で煙草の火を処理し、釣り道具を手に取った。
「若山さん」
「何だ」
「ここって、魚釣れるんですか?」
「たぶん、釣れないぜ」
「そうっすか……」
もし釣れるんだったら、暇潰しに釣りでもしようと思ったんだがな。
「それじゃあな」
「あ、はい」
「あ、それと達矢。言い忘れたが……」
「何すか」
「くれぐれも昨日教えたトンネルから抜け出そうとか考えるなよ。下手すれば、死ぬからな」
「はぁ。今のところそんな予定はないっすけど」
「なら良い」
頷きながら言った。
「ところでうちの店でバイトしない?」
「しません」
「まぁ、やる気になったらで良いからな。じゃあな」
昨日と同じようなことを言って、軽く手を振ると、南の方角へと歩き去った。
空を見上げると、昨日と違って晴天で、俺は大きく天に向かって伸びをした。
「さて、やることねえなぁ……」