序章_1
耳の奥で鳴り続ける叫びのような火炎の音、誰かが手を叩いているようなパチパチという音、時折響く何か大きなものが倒れるような音。
明日香がゆっくりと目を開くと、燃えさかる炎が視界いっぱいに広がっていた。
ゆらゆらと揺れながら、全てを焼いたり溶かしたりしている。
樹木が燃えていた。土も燃えていた。坂を炎がのぼっていった。ひどい火事だった。火の海というのは、こういうことをいうのかと思った。
ただ、火炎の中に居るはずなのに、自分自身は熱さをまるで感じなかった。
夢だからかもしれない。でも、夢じゃないかもしれない。夢だという確証がない。
よくわからない紅蓮の世界に身を置きながら、強い風に吹かれていた。
見上げた視界。大きな白い三枚羽の風車は、熱風を浴びて火炎のオレンジに染められながら回転を続けていたが、やがて蝋燭でできているかのようにドロドロに溶け出した。中には倒れていく風車もあった。何かが倒れるような音の多くは、風車が倒れていく音だったようだ。
地獄に落ちたんだろうかと不安になった。
そんなに悪いことをしたわけではない。
せいぜい家出を繰り返したくらいだ。あとは遅刻を少々と、買い食いをしたくらいだ。真面目で正義感もあると自負していて、こんな火炎地獄に落とされるのは納得がいかない。
その時、すぐ近くで風車の根元が溶けて、折れた。
折れた風車の巨大な柱は、まっすぐ明日香の方へと向かってくる。
明日香は近付いてくる塊に恐怖し、目を閉じて腕で防御しようとした。
そこで目が覚めた。
★
夢だった。悪夢だった。六月の蒸し暑さも手伝って寝汗びっしょりだった。
紅野明日香はカーテンの赤色の影響を受けて赤みがかった朝日を浴びて、自室のベッドで目を開いた後、しばらく天井に視線を向けて固まっていた。
やがて額に手の甲を押し当て、天井に取り付けられた円い照明を見つめながら夢の内容を思い出す。
燃え盛る炎と、倒れてくる柱。夢の中の自分は、きっと下敷きになっただろう。
自分の体の上にあるのが、しわくちゃのタオルケット一枚であることに限りない安堵を抱きつつ、ようやく体を動かし、腹筋を使って起き上がり、周囲を見渡すと自分の部屋だった。
自分の部屋とはいっても、女子寮にある一室だが。
もう、この町に来てから一週間ほど経つというのに、まだ一箱しか荷を解いていなくて、残り四つのダンボール箱がガムテープで封印された状態で部屋の中央に積まれっ放しで、ほとんど何も無い殺風景な部屋だった。
床はフローリングの八畳間ワンルーム。大きな窓がありベランダつき。さらに風呂トイレ付き。家具はベッドと勉強道具が散乱した茶色い勉強机だけ。収納スペースも多くて使いやすく、広々としていた。
部屋だけ見れば環境は悪くないのだが、紅野明日香は、
「いやな夢だわ。これストレスかな。うん、やっぱストレスだ」
などと呟いた。ストレスを抱えている自覚があるらしい。
そして明日香はベッドのすぐ横に置いてある、開いたダンボールからはみ出たバスタオルとダンボール内にあった新品の白い下着を手に取ると、赤いカーテンの掛けられた大きな窓に背を向けて、歩き出す。
部屋を出て、右側にトイレがあり、左側に風呂場がある。正面に行けばすぐに玄関となる。
明日香が向かったのは、まずはトイレ。バスタオルおよび下着を抱えたまま用を足してから、すぐに向かいにある風呂へ。
バスタオルを金属製の網棚の上に置き、脱衣所で服を全て脱ぎ、風呂場に足を踏み入れ、曇りガラスの戸を閉めた。
シャワーを浴び始める。
なお、脱いだ服は真新しいピンク色のプラスチック籠に投入した。洗濯物はこの籠に入れて寮長に渡すと、洗濯と乾燥をして返してくれるのだが、明日香はまだ一度も洗濯物を渡したことが無かった。いつも裸で過ごしているというわけではなく、ちゃんと服着て生活しているのにだ。何故かと言えば、単純な話。
遠慮である。
この町に来るまでは、明日香の洗濯物は両親が全て洗って干して畳んでくれていたのだが、それは両親だから押し付けても平気だったわけで、よく知りもしない他人に洗濯物を洗ってもらって、乾かしてもらって、畳んでもらうことに対して抵抗があった。
だが寮長が毎日やっていることなのだから、洗濯物を溜め込むのはより迷惑だと思われる。思われるというのに、明日香はどうも太陽光線を過信しているようで、洗わずとも干しとけば大丈夫などと考えて窓際に洗っていない服を干して満足気な顔をしたりする。季節は梅雨であり、前日も干しっぱなしだったものだから、明日香と同じくらいの年齢の若い女寮長はそろそろ服がカビるんじゃないかと心配していた。
ちなみに、決して明日香が汚い女というわけではない。本質的にはキレイ好きである。ただ洗濯をやったことが無いだけであり、親にまかせっきりのそれをしなかった時にどうなるか、というのが想像できないのだ。要は経験値が足りないのでレベルが上がらないのである。
と、その時だった。
明日香は誰かに見られているような気がして、風呂の換気扇を見上げた後、背後を振り返る。
誰かにじっと見つめられている気がして、気持ちの悪さを感じて顔をしかめるが、それらしい人物は見当たらなかった。
「この町に来てから、何だか妙な視線を感じるのよね。これもストレスかしら」
呟いて、シャワーを止め、シャワーヘッドを頭上に置く。
何でもかんでもストレスのせいにしたい明日香は水滴のついた鏡を見つめて無理矢理笑うと、
「よし、学校だ!」
元気良く叫んで拳を突き上げたところ、シャワーヘッドを殴ってしまった。「ふぁああっ」と思わず声を漏らすほどに痛かった。
しばらくその場にしゃがみこみ、ぶつけた右手をさすっていたが、やがて痛みが引くと脱衣所へ出てバスタオルで体を拭く。
白の下着を上、下の順に装着して、そのままの姿で廊下に出る。寝ていた部屋に戻り、壁際ハンガーに掛けられた長袖セーラー服に手を伸ばした。
★
風車並木が力強く回転を繰り返す風景が広がる街に来た明日香は、町に入ってすぐに誰かから監視されている嫌な視線を感じ取った。
つい前日まで居た町でも同様の視線のようなものを感じていたが、町に入った途端にそれまでよりも強く、しつこくなっている気がした。
――どうして私は、こんな所に居るんだろう。普通に暮らしたいだけ。父親がいて、母親がいて、普通の女の子の暮らしがしたいだけ。
――どうして私は監視されているの?
そう思った明日香は視線からひたすら逃げた。逃げても逃げても嫌な視線はなくならなかった。
そして何日か過ぎ、いよいよ転校初日となった日のことである。
紅野明日香は、屋上に居た。あろうことか、HR開始のチャイムを無視し、職員室にも行かずに強風ふきすさぶ屋上の給水塔のある一段高い場所に寝転がって、高速に流れる雲を見つめていた。
明日香は憂鬱の極みに居た。透明な巨人の手に鷲づかみされているような、圧迫感のある嫌な視線はもとより、自分がこの町で過ごすことに納得がいかなかったからである。
視線から逃れるように坂を駆け上がり、学校に着いた。まずは一番高いところに登りたくて屋上まで駆けた。更に、上へ登れるハシゴのようなものがあったので、それに掴まって、給水塔等のある屋根の上に登った。屋上よりも高い場所。
山の上に居るみたいな強い風が、心中のモヤモヤを吹き飛ばしてくれる気がして、それは爽快だった。
明日香は、パタリと仰向けに寝転がって、青い青い空を見た。
雲が高速で流れていく。
綺麗だと思った。でも、また誰かから見られている気配がした。
――どうして私は、誰かに追われているんだろう。この高速流動する白い雲たちのように、駆け逃げ続けなくてはならないんじゃないか。一体誰なんだろう。でも、このじっとりとした視線は。この街に来てから、少し視線の質が変わったような気がする。
その時である。紅野明日香は、校内放送で呼び出された。
『本日転入予定の紅野明日香さん。職員室に来てください』
逃げたいと思った。逃げようと思った。
起き上がった。
目の前に、見覚えのある女が居た。それは、前日にこの町へ入ってすぐに出会った女。町の入り口である裂けた崖のあたりで、『紅野明日香さん』という文字が刻まれた白い立て札を持って手を振っていた女であり、女子寮に案内してくれた寮長であった。短い髪をした美人さんで、明日香と同じくらいの背丈の女子。名前を伊勢崎志夏といった。
志夏とは裂けた崖から寮までを並んで歩きながら少しだけ話したのだが、軽く自己紹介を済ませた後に「どこから来たの?」と訊かれて「都会」と返したくらいで、その他の会話といったら寮で暮らす上でのルールが主で、特に「朝ごはんは絶対に寮の食堂で食べないと退寮になる」というのを何回か念押しされた。
明日香は、自分をストーカーしていたのはこの伊勢崎志夏かな、などと思ったけれど、何だか違うような気がした。
志夏は明日香の横に座りながら優しい口調で語りかける。
「紅野明日香さん、呼び出しだよ」
すると明日香は厳しい口調で、
「何よ、わざわざ迎えに来てくれたわけ?」
「まぁ、そんなところかしら」
「てか、あんた何者よ。どうして私がここに居るってわかったの?」
「だってほら、私さ、神だし」
嗚呼やっぱりこんな町は最悪だ、と明日香は絶望する。
自らを神と呼称する頭のおかしな人が寮長をやってるような、はきだめの町で暮らすなんて。ここで異常な人たちと一緒に過ごすことになるなんて。
「紅野さん、一つだけ、忘れないで欲しいことがあるんだけど」
「何よ」
「そんな険しい顔してないで、真面目に聞いてよ」
真面目に聞けるわけがないと思う。だって、そのくらい頭のおかしい言動しているから。
紅野明日香は後頭部を手に乗せて、もう一度仰向けに寝転がり、青い空を眺め出す。まともに取り合っていられないと思ったからだ。
しかし志夏は構わず続けた。
「私はね、あなたの味方よ。何があってもね。それは絶対だから、どうか、忘れないで欲しい」
「ん? 何よ、そんなにヤバイ子がいるわけ? 私があんたを頼んなくちゃならないくらいに」
しかし、既にその場に伊勢崎志夏は居なかった。忽然と姿を消していた。
「味方……か」
言葉に出したら何だか恥ずかしくなって、ほころぶ顔を誤魔化すように強い風の中、三メートル下へと飛び降りた。
明日香は見事に軽い着地を決めて、体を天空に伸ばすストレッチをしてから、言う。
「ふぅ、行くか、職員室」
職員室で担任教師と合流した明日香は、そのまま教師と一緒にこれから過ごすことになる教室へと向かう。先に教師が教室に入っていって、後から、「紅野さん、入ってきて」という声が引き戸の向こうから響いた。
明日香は頷き、引き戸を開け、室内に足を踏み入れる。戸を開け放ったまま教卓の横へと俯き加減で歩を進める。
教室は、とても静かだった。まるで怯えているように静まり返っている。
「えー、本日転校してきた、紅野明日香さんです。では、自己紹介を」
教師は目配せすると、それに気付いた明日香が小さくお辞儀をして、顔を上げる。
明日香は、男子生徒たちの好奇な目とか、一部の生徒の怯えた挙動とか、ぱらぱらとある空席とかが気になった。見た感じでは、さほど荒れているようにも思えなかったが、この場に居ない連中がヤバイ奴らなのかもしれない。ここは不良や落ちこぼれが集まる学校なのだから。
とにかく、挨拶する。
「紅野明日香です。よろしくお願いします」
控えめな拍手が響く。
大人しいクラスメイトたちは特に何の質問をすることなく、明日香から視線を逸らしている。
何となく居心地が悪いと感じた。
ふと明日香の目が、教室中央あたりの席に座る伊勢崎志夏の姿をとらえた。
――同じクラスだったのか。
そう思い視線を送ると、志夏はまるで心を読んだかのように頷いてみせる。それで明日香は少し安心した。
教師は窓際の空席二つを指差し、「紅野の席は、あの窓際の好きな方を使うといい」と指示したので、明日香は指示に従い、窓際の席に就く。
窓の外では、大きな風車が回転を続けていて、その向こうには風車並木と呼んでもいい坂と、商店街と、湖があって、さらに遠く霞んで見えるのは裂けた崖とその隙間から覗く海。
その景色をしばらく眺めているうちに、教師は朝のHRを終えて、「紅野明日香と仲良くするように」と言い残して去っていった。
そこで明日香は立ち上がる。
と、明日香が立ちあがった途端に教室がざわめき、そして静かになる。静まり返った世界に首を傾げながらも、明日香は教室中央の志夏の席へと向かった。
背後から話しかける。
「あの、伊勢崎、さん」
振り返りつつ立ち上がった志夏は、明日香をより安心させるように笑顔を見せながら、
「志夏で良いわよ、紅野さん」
「あ、うん」
「それで、何か用?」
「いや、用ってほどでも無いんだけど、同じクラスだったんだねって」
「そうね、何か困ったことがあったら、何でも相談してちょうだい。私は寮長でもあるけど級長でもあるし、この町のほぼ全てのことを知ってると言っても過言ではないから」
「ええっ? 級長までやってたの?」
「そうよ。ついでに生徒会長でもあるから、だいたいのことはどうにかできる権力があるわ」
「そうなんだ、すごい」
このとき、明日香は失礼なことを自覚しつつも、自分のことを「神」だなんて称しちゃう人が生徒会長になってるなんて、やっぱりこの町おかしいわ。と思っていた。
この町は、掃き溜めである。都会の学校で普通の枠からはみ出してしまった生徒を更生させるために生まれた学校。言ってしまえば牢獄みたいなものだ。
電車なども走っておらず、町の外に出る公的交通手段としては船と飛行機しか無い上に、この学校に飛ばされてきた学生には何か特別な事情で許可されたり、更生が認められない限り、その船や飛行機に乗る権利が無い。
この町に来る生徒なんてのは、だいたいの場合、何かとんでもないことをやらかしている生徒である。言ってしまえば、不良の更生施設とは名ばかりの、収容施設である。だから、掃き溜め。
いつも強い風が吹いている過酷な環境、すり鉢状の地形の中に町があり、周囲を囲む絶壁の山々は脱走を許さない。
更生が認められれば元の町に帰れるとはいえ、それを誰が決めるんだかも明日香にとっては不明であるし、明日香としてはこんな町で過ごすことに対しては不安しか無かった。
そんな明日香の心を見透かしたように、志夏は言う。
「まぁ、この学校はおかしな生徒が多いからね、本当に何かあったら言って欲しいわ」
「うん、ありがとう志夏」
すると志夏は、廊下側の空席をチラ見しつつ、
「特に、風紀委員を名乗る人に注意してね」
そう言うと、微笑を浮かべて明日香に手を振り、「それじゃあね」と教室の外へと歩き出す。どうやら多忙の身らしい。
神を自称するわけのわからなさはあるけれど、頼もしくて優しくてマトモな人が味方になってくれたと感じ、明日香は嬉しかった。
授業中のことである。
紅野明日香は、困っていた。
教師は授業を進めているが、全く何をやっているかチンプンカンプンなのだ。頭が悪いわけではない。教師が渡し忘れたため、教科書が無いのである。
変な目立ち方をしたくない明日香は、教科書が無いことを言い出せない。何とも言えない寂しさを感じた。
――遠くへ行きたいって思ってた。でも、こんなところには、来たくなかった。
目に涙が溜まってしまって、急いで拭う。両腕でゴシゴシと。
と、その時であった。
ガララッと引き戸が開き、背の高い女が入ってきた。身長百七十以上はあるんじゃないだろうか。女子としては高い方だ。
女は息を切らしながら、
「はぁ、はぁっ、えっと、ギリギリセーフだよな?」
などと男っぽくて不良っぽい口調で近くに居た女子に訊いた。
「いや、まつりさん。もう授業中」
というわけで、まったく間に合っておらず、教師は呆れつつも怯えながら、
「また遅刻か上井草。いい加減にしろ」
「ちぃ、間に合わずか。あたしの体力無駄になっちまったじゃねぇか」
教師は、「いいからさっさと着席しろ」と言い、上井草と呼ばれた女は、「へいへい」と軽い返事をしながら廊下側の空席のうちの一つに座ろうとカバンを置く。
遅刻しておいて悪びれる様子もなかったので、明日香は関わりたくないと心底思ったが、その時、まつりは明日香の姿に気付き、授業中にも関わらずツカツカと明日香に歩み寄ると、座る明日香の目の前でほの寂しい胸を張り、なんとなーく偉そうに腕組をしながら、こう言った。
「新しく入ってきた子よね。あたしは、風紀委員の上井草まつり。よろしく!」
いい笑顔だったが、この時、明日香の脳裏には志夏の言葉が再生されていた。
『特に、風紀委員を名乗る人に注意してね』
まさに目の前で偉そうにしている女が、風紀委員を名乗る女だった。
それでも、こんな掃き溜めの学園のことである。ナメられてしまったらイジメの対象になるのではないかと危惧した明日香は立ち上がり、
「紅野明日香です」
と勇気を出して堂々と名乗った。
「ほうほう、明日香ね。よろしく!」
差し出された手は、女性としては大きなものだった。掴む。
そこでようやく教師が、
「こら、上井草。授業中だと何度言えばわかる」
若干の怯えを混ぜつつそう言った。
上井草まつりは小さく舌打ちした後、自分の席へと戻っていく。
結局、明日香は教科書が手元に無いことを言い出せなかった。何でも相談してくれと志夏に言われたものの、新しい環境に心を許せず、遠慮しっ放しだったのである。