「出口ばかり気にする陰気な女は王妃に向かない」と婚約破棄されましたが、燃える舞踏会で最後の扉を開けたのは私です 〜壁ではなく、私を見て踊っていただけませんか〜
舞踏会場に入ると、私はまず出口を数える。
正面扉が二つ。北側に一つ。楽団席の裏に、使用人用のものが一つ。合わせて四つ。
次に、それぞれがどちらへ開くのかを確かめる。正面の二枚は内開き。手前へ引くかたちだ。北側と使用人用は外開き。
内開きの扉は、人が押し寄せると開かなくなる。把手を引く者の背中に、逃げようとする者の体重が乗るからだ。だから私は、正面扉を数には入れる。入れるが、あてにはしない。
最後に、自分の立っている場所から、いちばん近い扉までの歩数を数える。
今夜は、二十二歩だった。
「相変わらずですわね、ハーコート公爵令嬢は」
扇の陰で、どなたかが囁いた。
「あんなにお美しいのに、壁ばかり見ていらして」
否定はしない。私は壁を見ている。壁と、天井と、燭台と、床に垂れた布の裾を見ている。
笑っていないと言われるけれど、笑っていないのではない。笑っている間も、そちらを見ているだけだ。
建国祭の大広間は、今年、例年になく美しかった。
王太子殿下のご指示だという。天井から床まで届く深紅の薄絹が、壁という壁を覆っている。金糸の刺繍が蝋燭の火を吸って、広間全体がゆっくり呼吸しているように見えた。
招待客は三百二十八名。私を除けば、三百二十七名。私は入口に立って、その全員の顔を見た。数えるのは私の癖で、癖はもう、私の一部だった。
美しい広間だった。
だからこそ、私は四つ目の扉を探した。
楽団席の裏の壁。そこにあるはずの扉が、なかった。
代わりに、私の背丈より高い花台が据えられている。白薔薇を山のように盛った花台が、深紅の薄絹ごと、扉を覆い隠していた。
「ベルク副団長」
名を呼ぶと、その人はいつも二歩でこちらへ来る。
アルノー・ベルク。侯爵家の次男で、近衛副団長。今夜の警備責任者。
「はい、ハーコート公爵令嬢」
「四つ目の扉が消えています」
彼は私の視線をたどり、花台を見て、それから壁を見た。三秒だった。
「……花台の裏ですね」
「動かしていただけますか。外へ開くのは、北の扉とあれの二つだけです。しかもあれは先が厨房で、中庭へ抜けられます。正面が詰まれば、その二つしか残りません」
「承知しました。開宴前に済ませます」
言い終える前に、彼はもう手袋を外していた。花台の脚に手をかけて重さを測り、それから隙間へ身を入れて、蝶番に触れる。
「錆びています。油も切れている。押しただけでは動きません」
「油を」
「差します」
彼が指を鳴らすと、近衛兵が二人来て、花台を扉一枚ぶんだけ脇へずらした。白薔薇が揺れて、壁から白い木の扉が現れる。
私は右の手袋を外して把手へ触れ、その高さと位置を確かめた。腰より少し上。右手で押せば開く向き。
私はもう一つを指した。
壁の燭台と、その脇に垂れた薄絹の幕。
「あの距離を、測っていただけますか」
彼は歩いていって、腕を伸ばした。肘を曲げないまま、指先が幕に届いた。
「……腕一本ぶんもありません」
「この薄絹は、火を拾えば一気に上へ走ります。幕を吊るなら、燭台をガラス覆いの床置きに替えるか、幕を壁からもう一枚ぶん離すか、どちらかです」
「両方やります」
そこへ、声が降ってきた。
「エレノア。何をしている」
レオンハルト王太子殿下だった。
隣にはセシリア・リンドール侯爵令嬢。淡い金の髪に薔薇色のドレスで、殿下の腕に手を添えていらっしゃる。お似合いだ、と私は思った。皮肉ではなく、本当にそう思った。
「花台を動かしたな」
「はい。裏に扉がございます」
「知っている。私が塞がせた」
殿下は、心底ふしぎそうな顔をなさった。
「使用人の出入り口だぞ。あんな煤けた木の板がこの壁にあってみろ、せっかくの絹が台無しだ。今夜の広間は十年語り継がれる。……君はいつも、そういうところに水を差す」
「殿下。あの幕は、燭台に近すぎます」
「近い?」
「腕一本ぶんもございません。踊る方が袖を引っかければ、火は幕を伝って天井まで走ります。そうなれば、二分で広間の空気が変わります」
「二分」
殿下は笑われた。周りの方々も、少し遅れて笑った。
「建国祭の夜に、君は何の話をしている」
私は膝を折って、それでも言った。
「二分あれば、三百二十七名は出られません。北側の扉を一枚開けておくだけでも――」
「エレノア」
殿下は、私にではなく、広間に向かって声を張られた。
王太子妃教育で私が教わったのと同じ、腹から出す声だった。
「出口ばかり気にして、壁際をうろつく陰気な女は、王妃に向かない」
薄絹が、少しだけ揺れた。
弦を合わせていた楽団の音が止み、三百二十七の顔が、いっせいにこちらを向く。
「私は、セシリア嬢と婚約する」
セシリア様が、小さく殿下の袖を引かれた。殿下、こんなところで、と唇が動くのが見えた。声にはならなかった。
この方は、悪い方ではない。ただ、殿下の腕を取ってしまわれただけだ。
私は膝を折り直した。右の手袋は、さきほど外したままだった。婚約の指輪を抜いて、両手に載せて差し出す。
あっけないほど、指は軽くなった。
「承知いたしました。長らくのご指導、ありがとうございました」
殿下は指輪を受け取って、それで終わりのつもりだったのだと思う。背を向けかけたところへ、私はもう一度声をかけた。
「殿下。一つだけ、お願いがございます」
「まだ何かあるのか」
私は、白薔薇の山を見た。
「婚約はお返しいたします。ですが、あの扉だけは塞がないでください」
一拍おいて、広間が笑った。
「……最後まで、それか」
殿下は肩を揺らして笑い、セシリア様の手を取って歩き出された。
「花台は元へ戻せ。幕も燭台も動かすな。今夜は、誰も出ていかん」
幕も燭台も動かすな、と命じられた以上、アルノーにできるのは、蝶番へ油を差すことだけだった。
笑い声は、深紅の薄絹に吸い込まれて、すぐに消えた。
◇
「公爵令嬢」
人の輪が崩れたころ、アルノーが柱の陰から出てきた。手には、油を差した布をまだ持っている。花台は、脇へ寄せたままだった。
「馬車を回させます。……もう、ここに残る義理は、あなたにはない」
「いいえ。残ります」
「なぜです」
「今夜の招待客は、私を除いて三百二十七名です」
彼が、目を上げた。
「私は入口で、その全員の顔を見ました。三百二十七名が自分の足で帰るのを、見届けます。それが済むまでは、帰りません」
「……なぜ、数えるのですか」
誰にも訊かれたことのない問いだった。婚約者だった方にさえ。
「十二の年に、母と劇場へ参りました」
私は、燭台の火を見ながら答えた。
「三幕目で、袖の幕に火が移りました。客席の階段は、すぐに詰まりました。二階席には非常扉がありましたが、開きませんでした。鍵がかかっていたのです。舞台から見えると興が削がれる、見栄えが悪い、という理由で、上演中は施錠する決まりだったそうです」
「……」
「母は、私を窓から下ろしました。私は庇に落ちて、腕を折っただけで済みました。母は、下りてきませんでした」
アルノーは、お気の毒に、とは言わなかった。
しばらく黙って、それから、まるで職務報告のように言った。
「北回廊の扉を、三つ直しました」
「え」
「昨年あなたが出された報告書です。第七項。北回廊の扉は蝶番が錆びて片開きしかしない、避難のとき幅が半分になる、と。順に交換して、先月三つ目が終わりました。残りは二つです」
「……読んで、くださっていたのですか」
「十四通、全部です」
彼は、私の顔をまっすぐ見た。
「あなたが出口を数えることで、救われている者は、もういます。まだ火が出ていない、というだけです」
返す言葉を、私は持っていなかった。
陰気だ、と言われることには慣れていた。慣れていないのは、こちらのほうだった。
「……ほかの方は、お読みになりません」
「読みますよ。私の仕事は、この建物の中で人を死なせないことです。あなたの報告書は、そのために書かれた唯一の文書だ」
彼は少し考えて、付け足した。
「それに、文がいい。無駄がありません」
そういう理由で褒められたのは、生まれて初めてだった。
そこへ、侍従が小走りにやってきた。
「ベルク副団長。殿下より、花台を元へ戻すようにと」
「……理由は」
「扉から風が入る、と。ご令嬢方の髪が乱れる、幕がはためいて見苦しい、とのことです」
「戻せません」
アルノーは、間も置かずに答えた。
「警備責任者として、避難口を塞ぐ命令には従えません。殿下には、私から申し上げます」
侍従の顔が強張った。何か言いかけて、それから廊下のほうへ目をやる。間を置かず、別の兵が駆けてきた。北門で酔った客がもめている、殿下のご下命で副団長を、と。
彼は花台を見て、扉を見て、それから私を見た。
「三十分で戻ります。鍵は開けてあります。それだけは、誰にも閉めさせないでください」
「はい」
「それと」
行きかけて、彼は振り返った。
「北の小扉の先に、王族用の通路があります。殿下とごく近しいご身分の方は、そこからも出られる。鍵は殿下の侍従が持っています」
「覚えておきます」
彼は近くの近衛兵を一人呼び、この扉から離れるなと命じて、北門へ向かった。
その兵も、四半刻とたたずに応援へ呼ばれていった。呼びに来たのは、同じ侍従だった。
楽団が弓を上げた。
殿下とセシリア様が、広間の中央へ出る。拍手が起きて、蝋燭の火が、いっせいに同じ方向へ傾いだ。
白薔薇の花台が、四つ目の扉の前へ戻されていった。
押しているのは近衛ではない。侍従が呼び集めた使用人が四人がかりで押して、床に細い擦り傷が残った。私は止めようとした。殿下のご命令です、と言われれば、婚約者でなくなった私に止める資格はなかった。
鍵だけは、開いたままだった。
私は壁際へ寄った。
中央では、殿下がセシリア様の手を取って回っていらした。薔薇色の裾が翻るたび、いちばん近い燭台の火が揺れる。
私はその裾と燭台のあいだを目で測った。三歩。二歩。一歩半。
燭台と薄絹の距離は、やはり、腕一本ぶんも離れていなかった。
◇
最初の火は、拍手より小さかった。
三曲目の途中だった。中央で回った男性の袖が、壁の燭台を叩いた。蝋燭が一本、床へ落ちる。それだけなら、誰かが踏み消して終わっていた。
落ちた先が、薄絹の裾だった。
火は、下から上へ走った。
私が目で追えたのは、そこまでだ。幕の裾に触れた炎は、指二本ほどの幅に広がったかと思った次の瞬間には人の背丈になり、その次には天井の高さになっていた。深紅の幕が金糸の刺繍ごと燃え上がり、梁に沿って、隣の幕へ、そのまた隣の幕へと、横に走っていく。
悲鳴が上がったのは、そのあとだった。
人は、火よりも煙よりも、他人の悲鳴で走り出す。
三百人近い人々が、いっせいに正面扉へ向かった。
正面扉は、内開きだ。
最初にたどり着いた数人が把手を引いた。引くには、扉の手前に立つ場所がいる。その場所を、後から来た者の体が埋めた。二枚の大扉は、指の幅ほど開いて、そこで止まった。
押している人々は、自分が押しているせいで扉が開かないことを、知らない。だから、もっと押す。
女性の悲鳴の質が変わった。恐怖の声から、息の声に変わった。あれは、胸が潰れる音だ。
私の目の前で、年配のご婦人が人の壁に押しつけられ、扇を落とした。拾おうと伸びた手が、そのまま見えなくなった。背中と背中のあいだへ沈んだのだ。
劇場の階段も、こうだった。
あのとき私は、母の腕の中にいた。今夜は、誰の腕の中にもいない。
「落ち着け! 落ち着くのだ!」
殿下の声が、シャンデリアの下から聞こえた。
それだけだった。どこへ行けとも、何をしろとも、殿下はおっしゃらなかった。
言えなかったのだと思う。ご存じなかったのだ。この広間に出口がいくつあって、それぞれがどちらへ開くのかを。
私は、壁際にいた。
壁際は、いつも私の場所だった。だから私だけが、まだ走っていなかった。
逃げなさい、と誰かが言った気がした。
十二の年に、母が私に言った言葉だ。あなたは逃げなさい、と。
私はあのとき、言われたとおりにした。窓から下ろされて、庇に落ちて、腕を折って、生き延びた。その代わり、母は開かない扉の前で死んだ。
私は、壁から離れた。
今夜、開かない扉の前で誰かを死なせるつもりは、ない。
楽団席へ上がった。三段の階段はドレスの裾には高すぎたので、裾をつかんで膝から乗り上げた。弦を放り出して逃げようとしていた楽団長の腕を捕まえ、ティンパニの撥を取る。
一発、叩いた。
広間が、半分だけ静かになった。
半分でいい。
息を吸う。腹から、天井へ向けて、言葉の端を落とさずに。
三年かけて叩き込まれた王太子妃の声を、私はこの夜、初めて自分のために使った。
「正面へ走らないでください!」
顔が、いくつもこちらを向いた。
「正面の扉は手前へ開きます! 押している限り、絶対に開きません! 押すのをやめて、三歩下がってください! 三歩です!」
「北側の方は、そのまま右へ! 北の扉は向こうへ開きます! そちらは押して構いません!」
「姿勢を低く! 煙は天井から降りてきます! 膝を折って、頭を下げて進んでください!」
「給仕の方は、転んだ方を起こして! 踏まれた方から順に、北へ運んでください!」
北の扉が、外から開いた。
アルノーが飛び込んできた。
彼は、燃える天井を見なかった。崩れかけた人の波も見なかった。まっすぐ楽団席を見上げて、それから、何ひとつ訊かなかった。
誰が指示を出しているのか。なぜ婚約を破棄された令嬢が壇上にいるのか。今それを訊く時間はないと、彼は判断したのだと思う。
「ご指示を」
近衛副団長が、壇上の女に向かって、そう言った。
彼の部下たちが、それを見ていた。
「なぜ、その女の言うことを聞く!」
誰かが叫んだ。ほんの半刻前、私を笑った顔の一つだったかもしれない。
「この人数がどう動くかまで考えているのは、その方だけです」
アルノーは、振り向きもせずに答えた。
「ご異論のある方は、正面扉でお待ちください」
「北の扉に四人! 外から引いて、二列で通してください! 一列にすると詰まります!」
「正面扉の人だかりは、後ろから剥がしてください! 前から引いても抜けません!」
「使用人は、お子さまと年配の方を人波から外して、北の扉へ! 姿勢を低くさせて、先に通してください!」
「聞いたな! 動け!」
彼が号令をかけた瞬間、広間の中に、初めて流れができた。
人の波は、押し合うのをやめると、水のように動く。近衛兵が正面扉の人だかりの外側から順に肩をつかんで引き剥がし、使用人が北の扉へ列を作った。悲鳴が、命令に置き換わっていく。
「どこへ行けばいいの」
白髪のご婦人が、壇の下から私の裾をつかんだ。何も見ていない目だった。
「右です」私は、その方の肩を右へ向けた。「右の壁に手をついて、壁から手を離さずに歩いてください。二十歩で扉です」
ご婦人は歩き出した。壁に手をつけば、人は歩ける。行き先が分からなくても、壁だけは分かる。
――十二の年から、私はずっと壁を見て生きてきた。今夜だけは、それが役に立った。
それでも、正面扉の前だけは戻らなかった。倒れた人と人の圧がそのまま残って、把手を引くための空間がどうしても空かない。近衛兵が三人がかりで剥がしても、剥がした端から埋まった。
だが、足りない。
北の扉は一枚きりだ。三百人が二列で抜けるには、時間が要る。時間がない。煙は、もう私の頭の高さまで降りていた。
「副団長! 四つ目を開けます!」
「行きます!」
楽団席の裏へ回った。
白薔薇の花台の上に、燃え落ちた飾り柱が斜めに倒れかかっていた。薔薇は焦げ、水が床を流れて、そこだけ煙が白く渦を巻いている。
アルノーが柱の下へ肩を入れた。首の筋が浮いて、それでも柱は指の幅しか動かない。私は反対側の脚を両手で押した。二人の力を足して、柱がずれた。花台が横倒しになり、白薔薇が床いっぱいに散った。
壁が、出てきた。
けれど、扉が見えない。壁と同じ色に塗られた木の板と、煤と、煙。目が痛くて、開けていられない。
アルノーが手のひらで壁を叩いて回った。板の音と、石の音の違いを探している。けれど、そこまでの余裕はもうなかった。彼が三度叩くあいだに、煙は肩の高さまで下りてきた。
私は膝をついて、床を這った。
床から三十センチのところだけ、まだ空気があった。この高さは、母が教えてくれた。這いなさい、と母は言った。這って、壁に手をつけて進みなさい、と。
開宴前に、私はこの扉に触れている。
把手の高さも、位置も、この手が覚えている。
一度、指が滑った。煤で、金具と壁の継ぎ目が同じ手触りになっている。私は左の手袋も歯で引き抜いた。指輪とともに返して、むき出しのままだった右手で壁を撫でる。熱い。それでも、素手のほうが分かる。
指が、冷たい金具に触れた。
「ここです!」
私は把手を押した。その上から、アルノーが扉へ体重をかけた。
重い扉が、油の匂いをさせて、外へ開いた。
廊下の空気が、白い塊になって流れ込んできた。
誰かが、声にならない声を上げた。人は、助かると分かった瞬間に、いちばん子どもらしい声を出すものらしい。
あとは、速かった。
二つの出口が同時に働きはじめると、三百人は驚くほど早く減っていく。使用人が厨房の通路を先導し、近衛兵が壁際に等間隔で立って、声で列を送った。
二つの出口から出た列は、中庭へ出る手前で一つになった。私はその合流点に立ち、給仕と近衛を除いて、招待客の顔だけを数えた。
五十。百。二百。三百。
数えているのは、扉を出た人数ではない。顔だ。火の中を通ってきた顔は、入場のときと同じには見えない。それでも一人ずつ、頭の中の名簿と照合していく。三百人の顔と名前を覚えるのは、妃教育の最初の半年で終わる課程だった。あんなに退屈な課程はなかった。
最後の一人が私の前を過ぎたとき、廊下の向こうでアルノーが叫んだ。
「広間、見える範囲は空です!」
楽団長が楽団の、給仕頭が給仕と使用人の、近衛の伍長が兵の点呼を済ませて、順に報告してきた。働いていた者は、全員出ている。
残るは招待客だ。北の扉の兵と、四つ目の扉の兵。二人が数えた頭数を足して、私が合流点で数えた顔の数と照らす。二つは、一致した。
「三百二十五」
私は言った。
「二人、足りません」
彼が振り返った。
私は、頭の中の三百二十七の顔をめくった。焦げた髪、破れた袖、汗で崩れた化粧。めくって、めくって、そこにない顔が二つ。
「殿下と、セシリア様です」
アルノーの喉が動いた。
「殿下は……王族用の通路から、庭へ出られました。侍従が鍵を開けて。……お一人で」
「セシリア様は」
彼は答えなかった。それが答えだった。
「最後にお見かけしたのは、中央の柱のあたりです。私なら、歩数で行けます」
私は四つ目の扉へ引き返した。アルノーの手が私の腕をつかみ、それから、離した。止めても無駄だと分かったのだと思う。
彼は自分の上着を脱いで廊下の水桶に沈め、絞りもせずに私の頭からかけた。
「濡れているうちに戻って、乾いたら出ます。それ以上は駄目です」
「はい」
「返事が早すぎます」
「……はい」
「私が前です。あなたは私の後ろを、私の踵だけ見て来てください」
私たちは、扉をくぐり返した。
広間は、赤かった。
床に散った白薔薇が燃えていた。花びらが一枚ずつ縮れて、赤い点になって、消えていく。十年語り継がれるはずの広間だった。
天井の飾り梁は表面を黒く焦がし、火をまとったまま垂れ下がっている。空気が熱くて、吸うと喉の奥が縮む。私たちは床を這った。這いながら、私は数えた。四つ目の扉から壇の裏まで十二歩。壇の脇を回って十八歩。中央の柱まで二十六歩。
数え続けている限り、私は自分がどこにいるか分からなくならない。
セシリア様を見つけたのは、三十四歩目だった。
倒れた飾り衝立の下にいた。薔薇色のドレスが煤で灰色になり、髪が片側だけ焦げて、靴が片方ない。逃げる人の波に押されて転んだところへ、衝立が倒れたのだ。裾が下敷きになって、抜けない。
「持ち上げます。三つで引いてください」
アルノーが衝立の縁に指をかけた。一、二、三。私は彼女の両脇に手を入れて引いた。裾が裂ける音がして、彼女の体が出てきた。
セシリア様の目が、私を見た。
煙で潰れた声が、耳元で言った。
「……どうして」
「立ってください」
「私は、あなたから殿下を奪ったのに」
私は、彼女の腕を自分の肩にかけた。
「火は、そのような事情を選んではくれません」
彼女の喉が鳴った。泣いたのか、煙にむせたのか、分からなかった。
「三十四歩です。数えながら行きましょう。数えていれば、着きます」
「……一、二」
セシリア様が、数えはじめた。
「三、四、五」
十九のあたりで、その声が途切れた。
「二十、二十……」
「二十一」
私が継いだ。
「……二十一」
彼女が繰り返した。それから、二十二、二十三、と、また自分で数えた。
三十四歩は、思ったよりずっと長かった。
扉の外に、アルノーが立っていた。
彼はセシリア様を受け取って、廊下の兵に渡した。それから振り返って、私の手首をつかんだ。
「全員、出ました」
「いいえ。まだ私が――」
まだ私が数えていません、と言おうとした。
そこまでで、遮られた。
「ですから、今度はあなたの番です」
十二の年から、私はずっと数える側だった。
誰かに数えられたのは、初めてだった。
彼の手が引いて、私の体は扉の外へ出た。
背中で、飾り梁の一部が落ちる音がした。
中庭の噴水のふちに座らされて、私はようやく、自分の手が震えていることに気がついた。
広間の窓という窓から炎が噴き出して、中庭は昼のように明るかった。その明かりの下で、近衛兵が名簿を読み上げていく。名を呼ばれるたび、庭のどこかから返事が上がった。
三百二十八の名が呼ばれて、三百二十八の返事が返った。
楽団も、給仕も、使用人も、近衛も、欠けた者はいなかった。
そして三百二十八のうちの一つは、私の名だった。
◇
死者は、一人も出なかった。
重傷者が七名、煙を吸って倒れた方が三十名あまり。それだけで済んだのは奇跡ではなく、扉が外へ開いたからだ、と調査委員会の報告書には書かれた。
私も、三日のあいだ声が出なかった。あの声で三百人を動かした代償としては、安いほうだ。
声が戻るまでの三日間、アルノーは毎朝、返事のいらない短い報告書を届けてくれた。
あの夜、中庭で最後に見た殿下の姿を、招待客はみな覚えている。
あの広間にいた者が残らず煤にまみれ、髪を焦がし、噴水の水で顔を洗っているなかで、殿下だけが白かった。上着に染み一つなく、髪が一筋も乱れていなかった。
殿下は周りを見回して、こうおっしゃった。
「……セシリアは?」
誰も答えなかった。
意地悪でも怒りでもない。みな、答えを知らなかったのだ。知っていたのは、その場にいない二人だけだった。
火災そのものは、事故と結論された。踊る客の袖が燭台を叩いた。それだけのことだ。
けれど報告書には、事故ではないものが四つ並んだ。
一、燭台と薄絹の幕を、腕一本ぶんも離さず配置させたこと。
二、当時の婚約者による事前の警告を、複数の証人の前で退けたこと。
三、避難用の扉を装飾で塞ぎ、警備責任者が明確に拒否したのちも、侍従を通じて再び塞がせたこと。
四、セシリア侯爵令嬢と招待客を広間に残したまま、王族用通路から単身で退避したこと。
四つ目が、決定的だった。
誰も庇わなかったからだ。侍従も、鍵を開けたのは自分だと認めたうえで、あの通路を通ったのは殿下お一人だったと証言した。
レオンハルト殿下の王位継承権は、停止された。
廃嫡ではない。停止だ。陛下は最後まで「停止」という言葉を選ばれた。ただし、期限は定められなかった。
セシリア様は、療養の床から婚約辞退の書状を出された。
噂によれば、書かれていたのは一行だけだったという。
――私を置いて逃げた方とは、結婚できません。
半月ほどして、私のところにも短い手紙が届いた。
『あの夜から、私も数えています。実家の屋敷は、出口が三つでした。うち二つは、家具で塞がっていました。父を説き伏せて、どけさせました。
三十四歩を、まだ覚えています』
私はその手紙を、机の引き出しにしまった。今も入っている。
殿下が私を訪ねてこられたのは、その少しあとだった。
離宮の応接間で、殿下は痩せておられた。声も、あの夜の半分も出ていなかった。
「エレノア。私が間違っていた」
「はい」
「君が正しかった。あの晩、君の言うとおりにしていれば――」
殿下はそこで顔を上げ、私の手を取ろうとなさった。
「やはり、私には君のような妃が必要だ」
私は、扉のほうを見た。
この部屋の扉は一つきりで、外開きで、鍵はかかっていない。私はそれを、部屋に入った瞬間に確かめている。
「殿下に必要なのは、妃ではなく、忠告を聞く耳です」
私は膝を折って、それきり顔を上げなかった。
殿下は、何もおっしゃらなかった。
部屋を出るとき、私は扉を開けたままにしておいた。
閉め忘れたのではない。あの応接間には、出口が一つしかなかったからだ。
春に、私は王宮施設の安全管理を任された。
新しく作られた役目で、前例がないので、名前ばかり長い。陛下は辞令をお渡しになるとき、こうおっしゃった。
「君の報告書は、これから余が読む」
私の報告書を読んでくださる方は、この国に二人になった。
半年かけて、あの広間を直した。
正面扉は、二枚とも外開きに付け替えた。壁の幕は、燃えにくく織った厚地の壁掛けに替えた。燭台は壁から下ろし、ガラス覆いのついた床置きの灯りにした。
四つ目の扉は、隠すのをやめた。壁と同じ白に塗り直して、扉の上に金文字で「非常口」と入れた。金文字なら装飾になる、と押し切ったのは私だ。
使用人には、月に一度、避難の稽古をしてもらった。号令は私が出した。三百人の頭越しに声を届ける方法は、もう知っている。
その半年、アルノーとは、ほとんど毎日、同じ図面の前にいた。
図面の上で、私たちはよく揉めた。
彼は「扉の幅は人の肩で決めるものだ」と言い、私は「決めるのは扉の前に立てる人数です」と言った。どちらも譲らないので、結局、大工に実寸の枠を作らせ、近衛兵を並べて何十回も通した。そういう決着のつけ方をする人と仕事をするのは、初めてだった。
彼は私の癖を覚えた。
私が部屋に入って、わずかに顔を上げると、先に言うようになった。
「ここからだと、十四歩です」
最初は驚いた。二度目は少し笑った。三度目からは、確かめる前に彼を見るようになった。
それが、どういう順番の変化なのか、私にもよく分かっていた。
完成披露の舞踏会は、火事からちょうど半年後の、よく晴れた夜だった。
私は広間に入って、いつものように顔を上げた。
正面扉が二つ。北側に一つ。楽団席の裏に――
「出口は四つ」
声のほうが、先だった。
振り向くと、アルノーが立っていた。近衛の正装で、髪を撫でつけて、そのくせ耳が赤かった。
「鍵も、すべて開いています。今朝、私が一つずつ確かめました。蝶番の油も差してあります」
「……ありがとうございます」
「ですから、今夜は」
彼が、手を差し出した。
「壁ではなく、私を見て踊っていただけませんか」
殿下は私を、陰気な女だとおっしゃった。壁際をうろつく女だと。
そのとおりだった。私は十二の年からずっと、壁と天井と扉を見て生きてきた。それを恥じたことはないし、これからも直すつもりはない。
ただ、今夜だけは。
「喜んで」
楽団が弓を上げる。
彼の肩に手を置いて、私はほんの一度だけ天井を見た。癖は直らない。たぶん、一生直らない。
それでいい。
出口は四つ。
そして、その場所を知っているのは、もう私一人ではなかった。




