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吸血鬼の花嫁 ——怪物の城に春は来ない——  作者: 胡蝶
第一章:生贄の少女と孤独な怪物
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第5話:怪物の献立(メニュー)、あるいは不器用な指先

よろしくお願いします!

深い眠りの中から私を揺り起こしたのは、どこか懐かしい、けれど今の私にとっては未知の「香り」だった。 鼻腔をくすぐるのは、土の匂いを湛えたカブの甘みと、ほんの少しの乳製品の柔らかな香り。村で食べさせられていた、あの鼻を突くような羊の脂の臭いとは正反対の、淡くて、慈しみ深い香りだ。


「……ん……」


ゆっくりと目を開けると、視界の端で銀色の髪が揺れた。


「……目覚めたか。……図々しいゴミだ。主をこれほど待たせるとは」


低い、けれどどこか苛立ちを隠しきれない声。 枕元には、不機嫌を絵に描いたような顔で椅子に座るテオドール様がいた。その手には、湯気を立てる白い陶器の器が握られている。


「テオドール、様……。ごめんなさい、私、いつの間にか……」


慌てて起き上がろうとすると、私の腹部で丸まっていたユンが「グルル……」と不満げに鳴き、どっしりとした重みで私をベッドに押し止めた。


「動くな。ユンがその場所を気に入っている。……それに、貴様のその貧相な体で無闇に動けば、今度こそ骨が折れるだろう」


テオドール様は鼻を鳴らすと、乱暴にスプーンを器に差し込み、私の口元へと差し出した。


「……飲め」


「え……? これ、は……」


「耳まで悪いのか。飲めと言っている。……セバスに作らせたのではない。俺が、俺の時間を割いて、余計な手間をかけて用意したものだ。一口でも残せば、その首を撥ねるぞ」


彼の言葉は相変わらず鋭い刃物のようだった。けれど、差し出されたスプーンを持つ彼の指先を見て、私は息を呑んだ。 白磁のように美しい彼の指に、いくつか、赤い傷跡が残っていたのだ。 不老不死の吸血鬼の治癒能力をもってしても、まだ完全に消えていない傷。


(……もしかして、本当に、テオドール様が……?)


私は震える唇を開き、差し出されたスープを一口、含んだ。


「…………っ!」


その瞬間、体中に衝撃が走った。 熱すぎず、ぬるすぎず。計算し尽くされたような温度。 舌の上で踊るのは、じっくりと時間をかけて煮込まれたカブの、とろけるような甘み。そこに、胃を荒らさない程度に調整された、ほんの少しの生クリームのコク。塩分は極限まで控えられているのに、素材の旨みが凝縮されていて、驚くほど深い味わいだった。


「……美味しい……」


自然と、涙が溢れた。


「……おい。なぜ泣く。毒など入れていないぞ。……貴様のそのひ弱な胃袋でも受け付けられるよう、繊維の一本まで裏漉ししてやったのだ」


テオドール様は気まずそうに視線を逸らした。 村での食事は、常に「苦痛」との戦いだった。食べれば食べるほど腹が痛み、周りからは「我儘だ」となじられる。食事とは、生きるための義務であり、自分を傷つける儀式に過ぎなかった。 けれど、このスープは違う。 一口飲み込むごとに、荒れ果てた私の内臓が、優しく、優しく撫でられているような感覚。溜まっていたガスが静かに溶けていくような、これまでに感じたことのない解放感。


「……こんなに、優しい味のものを食べたのは……初めてです……。お腹が、痛くない……。温かいんです……」


「……当たり前だ。吸血鬼の俺が、人間の料理本を数冊、灰にするまで読み込んで作ったのだからな」


テオドール様は、ぶつぶつと文句を言いながらも、次のスプーンを私の口に運ぶ。 その仕草は酷く不器用で、時折スープが私の口端からこぼれそうになる。すると彼は、高価な絹のハンカチを惜しげもなく使い、私の汚れを拭った。


「テオドール様。……どうして、私なんかに、ここまでしてくださるんですか? 私はただの生贄で……『ゴミ』だって、仰ったのに」


私の問いに、テオドール様のスプーンを持つ手が止まった。 暖炉の火に照らされた彼の赤い瞳が、微かに揺れる。


「……貴様が、泣いたからだ」


「え……?」


「……村から来る連中は、皆、俺を見て命乞いをする。恐怖に震え、醜く喚き散らす。だが、貴様は違った。……貴様は、食事を残したことを俺に謝った。殺されるかもしれないその時に、他人の手間を案じて泣いた」


彼は自嘲気味に笑い、器をテーブルに置いた。


「数百年。……この城で、俺を『怪物』としてではなく、一人の『相手』として気遣った者は、貴様が初めてだ。……だから、興味が湧いた。この壊れかけのゴミが、もし腹を満たして笑ったなら、一体どんな顔をするのかとな」


テオドール様の手が、私の頬に触れた。 雪のような冷たさ。けれど、その奥に潜む「熱」を、今の私は感じ取ることができた。


「……アリア。死にたければ勝手に死ね。だが、俺の城にいるうちは、俺のルールに従ってもらう。俺が作ったものを食い、俺が許すまで生きろ。……いいな?」


「……はい。……はい、テオドール様」


私は、空になった器を見つめながら、心から答えた。 お腹が痛くないことが、これほど幸せなことだなんて。 誰かに「生きろ」と言われることが、これほど心強いことだなんて。


足元では、ユンが満足げに「クルル」と喉を鳴らしている。 セバスチャンが扉の影で、音もなく会釈しているのが見えた。


この夜、私は初めて「生贄」であることをやめた。 私は、この不器用で、誰よりも孤独な吸血鬼の花嫁として、生きていくことを決めたのだ。


窓の外では相変わらず吹雪が吹き荒れていたけれど、私の胃の腑も、心も、生まれて初めて本当の「満腹」を知った。

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