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吸血鬼の花嫁 ——怪物の城に春は来ない——  作者: 胡蝶
第一章:生贄の少女と孤独な怪物
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第4話:銀灰色の守護獣と饒舌な影

テオドール様が部屋を飛び出していってから、どれほどの時間が経っただろう。 私は冷たい床に膝をついたまま、しばらく動くことができなかった。 怒らせてしまった。間違いなく、あの恐ろしい城の主を激昂させてしまった。


(……きっと、明日の朝には、私は裏庭の雪の下に埋められているんだわ)


そう思うと、不思議と恐怖よりも、どこか晴れやかな諦めが胸をよぎった。村で疎まれ続け、最後は生贄として売られた人生。その終着駅が、こんなにも美しい吸血鬼の手によるものなら、それはそれで悪くないのかもしれない。


けれど、私の胃の腑は、そんな感傷に浸る余裕さえ与えてはくれない。


「……っ、……つ……」


空腹とストレスのせいで、腹部の張りは限界に達していた。ガスが溜まり、内臓がねじ切れるような痛みが波のように押し寄せる。私は這うようにしてベッドにしがみつき、シーツを噛み締めて痛みを堪えた。


その時だった。 閉め切ったはずの扉が、音もなく、けれど確かな重みを持って開いた。


(……来た。殺しに来たんだわ)


私は目を固く閉じた。けれど、聞こえてきたのはテオドール様の冷たい足音ではなく、「クルル……」という、低く喉を鳴らすような不思議な音だった。


顔を上げると、そこには巨大な「影」が立っていた。 月の光を浴びて銀灰色に輝く、見たこともないほど大きな獣。


「……あ……」


それは、一見すると猫のようだったが、そのサイズは豹か小さな虎ほどもある。ふさふさとした長い毛、耳の先にピンと立った飾り毛、そして知性を湛えた金色の瞳。メインクーンという種の猫を、さらに魔力で巨大化させたような、圧倒的な存在感を持つ守護獣だった。


「クルルゥ……」


その獣は、怯える私を値踏みするように見つめると、迷いなくベッドの上へと飛び乗ってきた。


「きゃっ……!」


シーツが沈み、私の体にその巨大な獣の重みがのしかかる。殺される、と思った。けれど、次に感じたのは、鋭い牙でも爪でもなく、驚くほど豊かで、そして暴力的なまでの「熱」だった。


「……あたたかい……」


獣は、痛みに震える私の腹部に、その大きな体をぐいぐいと押し付けてきた。まるで、そこが痛むことを知っているかのように。ふかふかの毛並みが私の冷え切った指先を包み込み、生き物の力強い鼓動が伝わってくる。


「……ユン。あまりアリア様を驚かせてはいけませんよ」


入り口に立っていたのは、セバスチャンだった。彼はいつものように隙のない身のこなしで部屋に入ると、手際よく暖炉に火を灯した。


「セバスチャンさん……。この子は……?」


「主様の守護獣、ユンでございます。非常に気まぐれな性格ですが……どうやら、貴方のことを『温めるべき対象』だと認識したようですね」


セバスチャンは、私のベッドサイドにある小さなテーブルに、新しく淹れられたハーブティーのカップを置いた。その香りは、今まで嗅いだどんなお茶よりも優しく、荒れ狂っていた私の神経をゆっくりと解きほぐしていく。


「ユンは魔力を糧とする獣。冷え切った主様の側にいる反動で、常に温もりを求めているのです。……アリア様、貴方の体は今、酷く冷え切っている。ユンを湯たんぽ代わりに使うのが、今の貴方には一番の薬でしょう」


セバスチャンは、私の腹部を気遣うように丸まっているユンを見て、微かに口角を上げた。


 「主様は……あのような性格です。不器用で、言葉の選び方を数百年前に忘れてしまったような御方。……先ほど、貴方を怒鳴りつけたことを、今頃厨房で悔やんでいらっしゃるはずですよ」


「えっ? テオドール様が、悔やんでいる……?」


信じられなかった。あんなに冷たい目で私を「ゴミ」と呼んだ人が。


「ええ。主様は今、生まれて初めて包丁を握り、カブと格闘しておられます。……吸血鬼が人間のために料理を作るなど、前代未聞です。もし他の吸血鬼に知られれば、末代までの恥と言われるでしょうな」


セバスチャンは、まるで愉快な冗談を楽しむように、スラスラと「主の失態」を語り始めた。


「カブを呪いで溶かそうとしたり、皮を剥くのに指を切ったり……。全く、見ていて飽きない御方です。……アリア様、貴方がこの城に来たことで、停滞していたあの方の時間が、再び動き始めました。それは我々従者にとっても、非常に喜ばしい変化なのです」


「……セバスチャンさん。私は、生贄なのに……。こんなに優しくしていただいて、いいんでしょうか」


私の問いに、セバスチャンは眼鏡を押し上げ、真剣な眼差しを向けた。


「アリア様。主様が貴方を『ゴミ』と呼ぶのは、そう呼ばなければ、自分の中に芽生えた『興味』を認められないからです。貴方は生贄ではなく、この城に春を呼ぶ、小さなしずくなのかもしれません」


セバスチャンが語るテオドール様の姿は、私が想像していた「冷酷な王」とは正反対の、あまりにも不器用で、人間臭いものだった。 その話を聞いているうちに、不思議と腹部の痛みが和らいでいくのが分かった。ユンの放つ「魔力の熱」が、私の凝り固まった内臓を優しく解かしてくれているのだ。


「……クルル……」


ユンが私の喉元に頭を擦り寄せてくる。その喉鳴りの振動が、子守唄のように心地よい。 私は、ユンの銀灰色の毛並みに指を沈めた。 村では、誰も私を温めてはくれなかった。母も、セレナも、私が痛みに震えていると、汚いものを見るような目で遠ざかっていった。 なのに、この「怪物の城」では、恐ろしいはずの魔獣が、私を必死に温めてくれている。


「……さあ、アリア様。主様が『渾身の一杯』を持って来られる前に、少しお休みください。……そのスープを一口飲めば、貴方の長い冬も、少しずつ明けていくことでしょう」


セバスチャンは深く一礼し、音もなく部屋を退室していった。 暖炉の火がパチパチとはぜる音。 ユンの力強い鼓動と、溢れんばかりの熱。 私は、久しぶりに訪れた「安心感」に包まれながら、重い瞼を閉じた。


暗闇の中で、厨房から微かに聞こえるガタゴトという物音。 それは、私を殺すための武器を作る音ではなく、私の命を繋ぐための、不器用な愛の音だった。 私はその音を子守唄に、深い、深い眠りへと落ちていった。


明日、目が覚めたとき。 あの不機嫌な王様が、どんな顔をして私の前に現れるのか。 それを想像すると、恐怖よりも、ほんの少しの「楽しみ」が、私の胸を温めていた。

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