第3話:不器用な指先が紡ぐ赤
城の夜は、生きている者の体温をどこまでも奪い去っていく。
案内された客室のベッドの中で、私は震えていた。豪華な天蓋、絹のシーツ、厚手の毛布。村の家とは比べものにならないほど贅沢な設えなのに、ここには「生活」の匂いが一切ない。ただ、古びた石材と、冷え切った魔力の残滓が漂う、静かな墓標のようだった。
「……っ、……く……」
腹部の痛みが、波のように押し寄せてくる。 村を出る前に口にできなかった不安と、長旅の疲労、そして何より、ここ数日まともな栄養を摂っていない空腹。
それらが混ざり合い、胃の底で毒を煮詰めたような鈍痛となって私を苛んでいた。 丸くなって痛みに耐えていると、コン、コン、と控えめながらも確かな力強さを持ったノックの音が響いた。
「アリア様、失礼いたします」
扉を開けて入ってきたのは、従者のセバスチャンだった。彼は銀のトレイを恭しく捧げ持っている。その上には、湯気を立てる一皿の料理が乗っていた。
「主様より、貴方の食事を用意するようにとの仰せです。……『死なれては後味が悪い』とのことですので」
差し出されたのは、厚切りのローストビーフと、たっぷりのクリームが添えられた温野菜だった。村では一生に一度拝めるかどうかの御馳走だ。芳醇な肉の香りが部屋に広がり、本来なら歓喜すべき場面。けれど、それを見た瞬間、私の顔から血の気が引いた。
「……あ……、……ごめんなさい……」
「お口に合いませんか?」
セバスチャンの声音は変わらないが、眼鏡の奥の瞳が冷徹に私を観察しているのが分かった。
「いえ、そうではなくて……。私、……油の強いものや、重たいものを食べると、お腹を壊してしまうんです。せっかく用意していただいたのに、本当に、申し訳ありません……」
私は布団を握りしめ、顔を伏せた。 まただ。また、誰かの厚意(あるいは義務)を無下にしてしまう。村で母を苛立たせたあの光景が、この城でも繰り返される。吸血鬼の主を怒らせれば、今度こそ殺されるだろう。
「左様でございますか。……主様には、そのようにお伝えしておきましょう」
セバスチャンは表情一つ変えず、手付かずのトレイを下げて部屋を去っていった。 静寂が戻った部屋で、私は自分の情けなさに涙がこぼれた。 死にに来たはずなのに、死ぬことすら満足にできない。怪物の「餌」にすらなれない欠陥品。私は暗闇の中で、再び腹痛に耐えながら意識を沈めていった。
——その頃。 城の最上階にあるテオドールの執務室では、主人が不機嫌そうに暖炉の火を見つめていた。
「……戻してこいと言ったはずだ、セバス。なぜその皿がまだ満ちている」
戻ってきたセバスチャンが持つトレイを一瞥し、テオドールは低く、地鳴りのような声を出した。 「アリア様は、これをお召し上がりになれません。油分が強く、お体に障るとのことです」
「……何だと?」
テオドールは椅子から立ち上がった。彼の周囲の空気が、怒りに触れてピリピリと震え出す。
「生贄の分際で、吸血鬼(俺)の用意した食事に難癖をつけるというのか。飢えて死にたいのなら、今すぐ首を撥ねて庭に放り出してやってもいいのだぞ」
「……ですが、主様。彼女のあの痩せ細った体を見れば、単なる我儘ではないことくらい、貴方様にもお分かりでしょう」
セバスチャンの冷静な指摘に、テオドールは舌打ちをした。 彼は乱暴にマントを翻すと、執務室を飛び出した。向かう先は、アリアの部屋だ。恐怖を植え付け、無理にでも食わせる。それが、彼がこれまで貫いてきた「力」による支配だった。
バタン、と乱暴に扉が開かれる。 ベッドの上で飛び起きたアリアは、月光に照らされたテオドールの姿を見て、幽霊でも見たかのように震え上がった。
「……おい。貴様、食えと言ったはずだ」
「テオドール様……っ、申し訳、ありません……っ」
アリアはベッドから転げ落ちるようにして床に跪いた。彼女の体は、枯れ枝のように細く、今にも折れてしまいそうだった。 テオドールは彼女の細い首を掴もうと手を伸ばしたが——。 その指先が触れる直前、アリアが小さく、けれど切実な声を漏らした。
「……痛い……お腹が、痛いんです……。食べたいのに、食べるともっと……痛くなるから……。ごめんなさい、私……本当に、ダメな生贄で……っ」
彼女の瞳から溢れた涙が、テオドールの指先に落ちた。 吸血鬼の肌にとって、人間の涙は不快なほどに熱い。 テオドールは、はっとしたように手を止めた。 目の前の娘は、自分を恐れているのではない。自分自身の不甲斐なさと、抗えない病の痛みに絶望しているのだ。
(……この俺に、謝っているのか? 殺されるかもしれないというのに)
村から送られてくるこれまでの「生贄」たちは、皆、命乞いをするか、発狂するか、あるいは無気力に横たわるかだった。 けれど、この娘は違う。 自分の死よりも、相手の用意を無駄にしたことを悔やんでいる。その歪なまでの純粋さが、テオドールの冷え切った胸の奥を、不快なほどにざわつかせた。
「……ちっ。面倒なゴミだ」
テオドールは乱暴に彼女の手を振り払うと、何も言わずに部屋を出て行った。 廊下で待機していたセバスチャンに、彼は吐き捨てるように命じた。
「セバス。厨房を開けろ」
「……おや、主様。夜食でも召し上がりますか?」
「黙れ。……あの娘が食えそうなものを、俺が選ぶ」
テオドールは厨房に立つと、戸棚を乱暴に漁り始めた。 彼は料理などしたことがない。吸血鬼にとっての食事は「摂取」であって「調理」ではないからだ。 だが、彼は記憶の隅にある「人間だった頃」の風景を必死に手繰り寄せた。 病弱だった妹に、かつて母が作っていた、あの白いスープ。 何を入れればいい? 何を入れれば、あの脆い胃袋は受け入れてくれる?
「……セバス、これは何だ。カブか? 皮を剥け」
「主様、それは玉ねぎでございます」
不器用な指先が、包丁を握る。 本来、獲物を引き裂くための爪が、慣れない作業に震える。 テオドールは苛立ちから自分の指先を微かに切り、銀色のトレイに赤い血が一滴、滴り落ちた。
「……俺の血(魔力)など混ざれば、あの娘はそれこそ死ぬな」
彼は忌々しそうに傷を塞ぐと、再び野菜と格闘を始めた。 不老不死の怪物が、一人の少女の「お腹の痛み」を鎮めるために、深夜の厨房で戦っている。 その滑稽で、けれど何よりも切実な献身が始まったのは、雪が深く降り積もる、静かな夜のことだった。
アリアはまだ知らない。 自分が流した涙が、怪物の冷たい指先に「熱」を灯したことを。 そして、次に届けられる一杯のスープには、この世で最も不器用な愛が込められていることを。
ありがとうございました。




