第2話:胃の腑(ふ)に沈む石、あるいは家族という名の冬
2話です。
よろしくお願いします
村の朝は、常に冷たい霧と共にやってくる。 私がまだ「生贄」になる前のこと。村での日々を思い出すとき、私の鼻腔をくすぐるのは、香ばしいパンの匂いでも、朝露の清々しさでもない。それは、自分の体の中から絶えず湧き上がる、あの鈍い腐敗の気配だった。
「……う、うう……」
夜明け前、私は寝床の中で、自分の腹を抱えて丸まっていた。 昨夜、母が無理に食べさせた羊の脂身。それが、今になって胃の腑で暴れている。 私の体は、幼い頃から欠陥品だった。普通の人間が「滋養」として取り込むはずの脂や、硬い穀物が、私の体内では毒に変わる。消化されなかった食べ物は、腹の中で重たい石となって居座り、ガスを溜め、内臓を内側から圧迫していく。
「アリア! いつまで寝ているの。早く起きなさい!」
階下から母の鋭い声が響く。私は震える手でシーツを掴み、必死に立ち上がろうとしたが、腹部の張りが酷すぎて腰を伸ばすことすらできない。冷や汗が額を伝い、視界がチカチカと明滅する。
「お母様、……すみません、少し気分が……」
「またなの? 本当に、お前という子は……」
部屋に踏み込んできた母の顔には、心配の色など微塵もなかった。そこにあるのは、ただ隠しきれない「嫌悪」と「疲労」だ。
母にとって、私は手のかかる壊れた道具に過ぎなかった。村の配給は限られている。その貴重な食料を、食べても吐き戻し、食べても寝込むだけの娘に与えなければならない。その理不尽さが、母の心を凍らせていったのだろう。
食卓に向かうと、双子の妹であるセレナが、私を嘲るような目で見つめていた。
「お姉様、またお腹が痛いの? 昨日のスープ、あんなに美味しかったのに。私なんておかわりしたいくらいだったわ」
セレナは、私とは対照的に健康そのものだった。彼女の頬は常に赤らみ、どんなに硬い黒パンも元気に咀嚼した。彼女にとって、私の食事制限は「自分を特別に見せるための演技」にしか見えていなかった。
「セレナ、やめなさい。……アリア、これをお食べ。今日の分はこれだけだよ」
目の前に置かれたのは、昨日と同じ羊のスープと、見るからに重たい黒パンの欠片だった。スープの表面には、黄色い脂の膜がべったりと浮いている。それを見ただけで、私の胃が悲鳴を上げた。
「……お母様、せめて、この脂だけでも掬っていただけませんか」
「何を言っているの。それが一番の栄養じゃない。我慢して食べなさい。村の娘が、好き嫌いなんて許されると思っているの?」
母の言葉は、正論だった。この飢えた冬の村で、食事を選り好みするなど死に等しい。 私は震える手でスプーンを取り、一口、脂の浮いた液体を口に含んだ。 その瞬間、焼けるような不快感が喉を通り、胃へと滑り落ちる。
(……痛い。痛い、痛い、痛い……)
一滴飲み込むごとに、私の寿命が削られていくような感覚。
けれど、食べなければ「働かない穀潰し」として、さらに居場所を失う。私は涙を堪えながら、毒を飲むようにしてそのスープを飲み干した。
「お姉様はいいよね。そうやって病弱なふりをしていれば、重い水汲みも、極寒の雪かきもしなくていいんだもん。私とお母様がどれだけ外で苦労してるか、少しは考えたことある?」
セレナの言葉は、鋭い針となって私の胸を刺した。
違う。私も働きたい。皆と同じように笑って、同じものを食べて、家族のために力になりたい。けれど、私が一歩外に出れば、冷気で腹痛が悪化し、かえって皆の足を引っ張る結果になる。
私は、自分の存在そのものが、この家にとっての「呪い」なのだと自覚せずにはいられなかった。
村の大人たちの視線も同じだった。 井戸端で私の姿を見かけると、彼らは露骨に眉をひそめ、声を潜めた。
「あの子、また顔色が真っ白だわ。不吉ね」
「呪われているのよ、きっと。あの体質は、神様に見放された証拠だ」
私はいつしか、村の道を歩くとき、常に俯くようになっていた。 誰とも目を合わせず、ただ自分の足元だけを見て、一刻も早く、あの冷え切った家という名の檻へ戻ることだけを考えていた。
そんなある日、村を揺るがす知らせが届いた。 数百年の契約。吸血鬼の主へ捧げる「生贄」の期限。
村長が家々を回り、娘たちの名を確認していく。生贄を出した家には、村全体を養えるほどの莫大な支度金と、その後の安泰が約束される。つまり、誰か一人が死ねば、他の全員が救われるのだ。
「……アリア。お前が行くんだ」
その言葉を口にしたのは、父ではなかった。 母だった。 彼女は、数年ぶりに私の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、かつてないほどの決意と、そして「救われた」という解放感が宿っていた。
「お前は、この村にいても、ただ苦しんで死ぬだけでしょう? それなら、最後に家族を救っておくれ。それが、お前がこの家に生まれてきた唯一の、そして最大の義務よ」
母の言葉に、私は反論する言葉を持たなかった。 隣で、セレナが顔を輝かせていた。
「お姉様! これで私も、新しい靴が買えるわ! お姉様がいなくなれば、家の中も少しは明るくなるしね」
彼女たちの笑顔を見たとき、私の中で、細い糸がぷつりと切れる音がした。
(……ああ、そうか。私は、愛されていなかったわけじゃない。最初から、家族ですらなかったんだ)
生贄の儀式の当日。 私は村人たちによって、白いドレスに着替えさせられた。
「聖女様」「救世主様」 昨日まで私を呪いの子と呼んでいた者たちが、手のひらを返したように私を崇める。その欺瞞に満ちた声を聞きながら、私の腹の中では、またあの石のような痛みが渦巻いていた。
最後に食べた村の食事は、やはり脂っこい肉料理だった。
「最後なんだから、精をつけなさい」と言って笑う村長の顔が、酷く歪んで見えた。 私はそれを一口も食べることができず、ただ、空腹のまま馬車に乗り込んだ。
馬車が動き出す。 窓から見えたのは、支度金の入った袋を抱え、涙一つ流さずに手を振る母とセレナの姿だった。
(……さようなら、私の地獄)
私は、膝の上でノートを握りしめた。 これから向かう先には、血に飢えた怪物が待っているという。 けれど、愛する者に「死んでくれ」と願われながら生きるこの村に比べれば、吸血鬼の牙に貫かれる痛みなど、どれほど優しいだろうか。
私は、冷たくなっていく指先で、ノートの最初のページにこう記した。 『今日、私は死にに行きます。 でも、不思議と怖くはありません。 お腹の痛みも、心の痛みも、すべて雪の中に置いていけるのだから。』
馬車は、白銀の絶望へと向かって、速度を上げていった。 この時の私は、まだ知らない。 この先に待つ怪物が、村の誰よりも繊細な手つきで、私のためにスープを煮込む日が来ることを。 そして、その怪物の手によって、私の絶望が「愛」へと書き換えられる日が来ることを——。




