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吸血鬼の花嫁 ——怪物の城に春は来ない——  作者: 胡蝶
第一章:生贄の少女と孤独な怪物
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第1話:白銀の城と不機嫌な主

よろしくお願いします。

雪は、すべてを拒絶するように降り続いていた。


馬車の車輪が軋む音さえ、分厚い雪の層に吸い込まれていく。

村の境界線を越えてから、世界から色が消えた。視界を埋め尽くすのは、目に痛いほどの白と、時折混じる凍てついた岩肌の灰色だけだ。窓の隙間から入り込む冷気は、まるで鋭い刃物のように私の肌を削り、体温を奪っていく。


(……ああ、本当に、私は捨てられたんだわ)


私は馬車の座面にしがみつき、遠ざかる故郷の森を見つめていた。

そこには、暖かい暖炉も、夕食の匂いも、私を呼ぶ家族の声もない。あるのは、一人の娘を「生贄」として差し出し、平穏を買った村人たちの、安堵と罪悪感が入り混じった冷たい視線の記憶だけだった。


思い出すのは、発つ直前の母の顔だ。彼女は私の目を見ようとはしなかった。

ただ、私の荷物をまとめた古びた布袋を押し付け、「これで村が助かるのよ」と、自分に言い聞かせるように繰り返していた。

隣で双子のセレナは、まるで厄介払いが済んだと言わんばかりに、鏡の前で自分の髪を整えていた。


私は、膝の上に置いた小さなノートを、壊れ物を扱うように強く抱きしめた。 寒さで指先の感覚はとうに消えていた。けれど、それ以上に胃の腑を締め付けるのは、幼い頃から私を苦しめてきた、あの鈍い痛みだった。


「……う、っ……」


不意に馬車が大きく揺れ、内臓をかき回されるような不快感がこみ上げる。 私は口元を押さえ、必死に吐き気を堪えた。ガスが溜まり、腹部がパンパンに張るような独特の苦しさ。食事制限のある私にとって、数日間、まともな食事も摂らずに揺られるこの旅は、文字通りの拷問だった。


村では「我慢が足りない」と切り捨てられたこの痛みも、この雪山では私を死へと誘う確かな足音に聞こえた。


やがて、馬車が止まった。 目の前に現れたのは、崖にそり立つ漆黒の城だ。 雪に閉ざされたその姿は、まるで侵入者を拒む巨大な牙のように、あるいは獲物を待ち構える怪物の口のように見えた。


「降りなさい、アリア。……ここがお前の『家』だ」


村の使いの男の声には、慈悲の欠片もなかった。彼は私の腕を掴むと、投げ捨てるように外へ押し出した。 雪の上に転び、冷たい結晶が頬を刺す。振り返った時には、馬車の轍さえも新しい雪に埋もれ始め、男たちは逃げるように去っていった。


たった一人。 私は、怪物と称される吸血鬼の住処の前に、薄いドレス一枚で残された。


「……どなたか、いらっしゃいませんか……」


震える声で呼びかけたが、返ってくるのは風の咆哮だけだ。肺の奥まで凍りつくような空気を吸い込むたび、咳き込みそうになる。 凍死が先か、喰い殺されるのが先か。あるいは、この腹の痛みが限界を迎えて、ここでひっそりと息絶えるのか。そんな絶望的な思考が頭をよぎった時——。


ギィ……と。 数百年、動いたことのないような重厚な鉄の扉が、音もなく開いた。


溢れ出したのは、外気よりもさらに冷たく、けれど驚くほど澄んだ魔力の香気。 そこには、一人の男が立っていた。


銀糸のような長い髪が、暗いホールの中で月の光を反射して輝いている。 吸血鬼、テオドール。 彼は、跪いたまま震えている私を一瞥すると、三日月のように鋭い瞳を細めた。その瞳の奥には、血のような赤が鈍く揺らめいている。


「……また、村からゴミが届いたのか。今度は一段と薄汚く、脆そうなゴミだな」


その声は、心臓を直接凍らせるほどに低く、冷淡だった。彼はゆっくりと階段を降り、私の前で足を止めた。上質な革ブーツが雪を踏みしめる音が、私の鼓動と重なる。


「……私の名は、アリアです。村の、生贄として……参りました」


「名前など聞いていない。どうせ、数日も持たずに壊れる玩具だ。吸血鬼(俺)が、人間の個体を識別するとでも思っているのか?」


テオドールは私に近づくと、乱暴に私の顎を掬い上げた。 彼の指は、外の雪よりもさらに冷たい。けれど、その指先から流れてくる圧倒的な威圧感に、私は呼吸を忘れた。近距離で見る彼の顔は、この世のものとは思えないほど美しく、それゆえに酷く残酷だった。


「……痩せすぎだ。これでは血の味も薄そうだな。満足に食事も与えられていなかったのか? 貧相な娘だ」


彼は私の腹部が微かに震えているのを見逃さなかった。それが寒さのせいか、あるいは持病の痛みのせいかを知る由もないだろうが、彼は忌々しそうに鼻を鳴らした。


「セバス。このゴミを適当な部屋へ放り込んでおけ。死なれると、死体の処理が面倒だ。血が腐る前に、少しはマシな状態にしろ」


テオドールの背後から、影のように一人の男が現れた。 隙のない黒服に身を包んだ従者、セバスチャン。彼は恭しく頭を下げたが、その瞳には感情の色が一切ない。


「承知いたしました、主様。……アリア様、こちらへ。案内いたしましょう」


テオドールは私に興味を失ったように、マントを翻して奥へと消えていった。その背中は、寄せ付けない拒絶のオーラを放っている。


私は、セバスチャンに支えられるようにして立ち上がったが、足に力が入らない。


「……死ぬのは、痛いでしょうか」


ふと漏らした私の言葉に、セバスチャンは表情を変えずに答えた。


「それは貴方次第でございます。この城では、死よりも辛い生もございますゆえ。……さあ、あまり立ち止まると、本当に凍ってしまいますよ」


案内された城の内部は、外観以上に広大で、静まり返っていた。壁に飾られた肖像画の視線が、新参者の私をあざ笑っているように感じる。 豪華な絨毯が敷かれているが、そこには温もりなど微塵もない。


「こちらが貴方のお部屋です。主様の許可が出るまでは、勝手に歩き回らぬよう。……ああ、それから。夜中に悲鳴を上げるのはお控えください。主様は、騒がしいのを何より嫌われますから」


セバスチャンはそれだけ言い残すと、音もなく部屋を出て行った。 残されたのは、天蓋付きの大きなベッドと、冷え切った暖炉がある部屋。 私はベッドの端に腰掛け、再びノートを抱きしめた。


(……この人が、私の……主人……)


雪の城の夜が、静かに、そして残酷に幕を開けた。 私の体は限界を迎えていた。腹の底で渦巻く痛みと、耐え難い孤独。私は意識を失うように、冷たいベッドへと倒れ込んだ。 テオドールが去り際に一度だけ振り返り、忌々しそうに、けれど何かを確認するように私を見つめたその瞳の色。


それが、私の運命を大きく変えることになるなど、この時の私はまだ知る由もなかった。

ありがとうございます♪

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