朽ちる床
冷蔵庫の中を漁ると、早織が買っておいてくれたのだろう、いなり寿司と河童巻きのパックがあった。
地元のスーパーの商品なのだろう、見慣れない店名にリンゴの形をしたロゴマークがシールで貼られている。
緑茶も飲みたくなって、一人暮らしにしては立派な食器棚の前に屈み、扉を開けてスチールの茶筒を取り出した。しゃがんだ視線の右先の床には、板材が伏せられ、ガムテープで隙間が塞がれている。
「踏まないでよ。そこ、穴が空いてるから」
昨夜、鍋の支度をしていた時に早織がそう言っていたのを思い出す。板張りの床は体重をかけるとぶよぶよと沈み、かなり傷んでいることが分かった。そばにこんなに重い食器棚を置いて大丈夫なのかな、と少し心配になる。山の中は湿度が高く、微生物の活動も盛んで、木材の分解が早い。自然の力の中で、この家もゆっくりと還元されつつあった。
簡単な昼食を済ませると、鞄から今回の休暇中に片づけようと思っていた書類を取り出した。
仕事に取りかかってみるが、始めのうちはオフィスとあまりに離れた環境に気が散る。しかし、しばらく文字を追っているうちに、手の動きや思考の調子がいつもの感覚を取り戻していった。
きりのいいところまで進み、カラスの鳴き声に顔を上げると、窓の外にはもう夕闇の気配が漂っていた。
やがて坂の下から車の音が近づき、家の前で止まる。案の定、早織が帰ってきたのだった。
その夜は近くの温泉に出かけ、帰りには湖畔の鄙びた民家を改装した郷土料理の店に寄った。
囲炉裏端でヤマメの塩焼きと野沢菜のおやきを食べながら、早織が言った。
「昔は、集落がもっと下にあってね。ダムをつくる時にみんな山の斜面に移ったらしいの。ここは昔、一番高いお屋敷だったんだけど、今は一番低い家になったってこと。だから学校も山の上にあるんだよ」
――
こうして久しぶりに過ごした早織との時間は、今にして思えば夢のように過ぎた。
しかし数十年たった今もなお、あの霧の立ちのぼる湖と、傾いた家の静けさが、ありありと目の前に浮かんでくるのである。




