湖の家
まだ雪には早い季節だったけれど、山裾にかかる風は冷たかった。
駅前のロータリーで待っていると、早織の白い小型のオフロードカーが滑り込んできた。窓を開けて笑う彼女の頬は、つややかに赤みを帯び、柔らかいベージュのニットによく映えていた。
「ごめん待った? 寒いし早く乗って」
相変わらず直球というかせっかちだ。助手席に乗り込むと、車内には早織の匂いがした。後部座席には茶色の紙袋が積んであって、中から柿がいくつも覗いていた。「職場でもらったの。甘いよ」。
進むにつれて人家はまばらになり、左手には河が車の進行方向とは逆に流れ、反対側には山裾の藪が近づいてきた。
「学校、こんなところにあるんだね」と言うと、早織はハンドルを回しながら頷いた。
「こっからだとちょうどダム湖の向こう側に丘が見えるでしょ。あのてっぺん。朝は霧が出るけど、子どもたちは元気だよ」
夕闇に暗い水を湛えた湖を左にまわり込みながらきびきびと走ると、短いトンネルを抜けた。T字路で右折し、細い登り道に入った。
夜の気配が早く、山影の中に入ると、ヘッドライトが葉を落とし始めた木々の幹を淡く照らした。
しばらく無言で走ったあと、不意に、彼女が笑って言った。
「こうして迎えに来るの、なんだか学生のころみたいだね」
「相変わらず走らせるよな」
早織は前を見たまま笑みを返す。窓の外には、ゆるやかに沈んでいく光の帯。
エンジンの音を除けば、他に音を出すものもいない静かな夕暮れに、湖面が月を映し始めていた。
坂の中腹、木々の間に小さな三角の屋根が見えてきた。空色の塗装が少し剥げたトタン張りの平屋で、シンプルな切妻屋根の下は腰高のガラス窓が一つと、アルミの格子戸がついており、正面はそれで全部だった。子供の頃、近所にこういった家が何軒かあったな。玄関前の砂利がタイヤの下でかすかに鳴る。
車を降りると、冷たく清澄な空気に思わず深く呼吸をした。早織の借家は、不思議に落ち着いた雰囲気を醸していて、ここにあるのが当然といったような安定感があった。
「ここがわたしの家」
彼女は鍵をがたがた開けながら言った。
「ちょっと古いし、実はかなり傷んでいるんだけど、割と好きなの。安いしさ」
小さな炬燵テーブルの上に吊り下がった蛍光灯の紐を引っ張って明かりを付けると、炬燵布団の赤い絵柄が浮かび上がった。車内と同じ匂いに、少し畳と灯油の匂いも入り混じっている。
寄せ木の床の台所、低い天井、古く狭い家。けれど、そこにある静けさは都会にはない種類の温もりだった。
その夜は、石油ストーブを付けて、二人で炬燵に入って鍋をつついた。白菜に豚バラ肉、鱈の切り身、しめじ、椎茸、榎茸、しらたき。ポン酢をかけて、ふうふう息を吹き付けて食べる。冷えた缶ビールで喉を冷やす。
身体が温まり、どちらからともなく手を絡める。
「お風呂入ってくるね」
風呂を済ませ、湖を渡ってくる風の音を聞きながら布団に入ると、一年ぶりの相手の体を確かめ合う。抱き合う素肌の温もりに、深い驚きと歓びの溜息をついた。
朝は澄んだような冷え方をしていた。
窓の外では、湖から上がるのだろう、霧がかかり、木々の輪郭をぼんやり幻想的にさせている。山の端から朝日が射すと、霧は茜色に輝き、鳥達の鳴き声が近く、あるいは遠くから響いた。
朝食はトーストにバターを乗せ、ベーコンと目玉焼きにレタスとミニトマトだ。
「今日は校庭で持久走の練習。終わる頃はきっとぐったりだな」
湯気を立てるコーヒーをブラックで飲みながら、早織は笑った。彼女の頬に、朝の光が柔らかく当たっている。
一緒に食事を終えて片づけを手伝うと、彼女はジャージにウインドブレーカーを羽織りながら言う。
「昼は冷蔵庫のもの適当に食べて。テレビでも見ててね。夕方には戻るから。」
玄関の戸が閉まると、家の中はすぐに静まり返った。
表の道を下る車の音が、徐々に遠ざかっていく。
外の風が木々を揺らし、落ち葉が地面を転がる音だけが残る。
炬燵に入り、座布団を枕に横寝してテレビをつけると、地方ニュースが淡々と映っている。
記者の声や電子音が小さく流れているが、内容はうまく耳に届かない。
どこか現実から半歩ずれたような、そのちぐはぐさが心地よかった。
窓から射し込む光は淡く、目を閉じるとそのまま水の底にいるような静けさが広がる。
意識が浮いたり沈んだりするうちに、ふとガスの元栓を締め忘れたことに気づいた。目を開けるまでもなく、とっさに右手を枕がわりの座布団に突いて、体を起こそうとした。すると信じられないことに手は座布団を突き抜け、さらにその下にある畳も突き抜けてしまったのだ。いま、私の右腕は肩の辺りから座布団に埋まり、床下の空間を探っている。上腕の辺りには座布団の綿のもぞっとした感覚と、その少し手先側には畳のイグサのざらざらした繊維の感触があった。
思わず息を呑んで目を開けると、右腕は元通りに戻っていた。けれどほんの一瞬――確かに、向こう側へ手がすり抜けた感覚があったのだ。
テレビの音も、外の風も変わらずそこにある。
なのに、世界の奥にうっすらと沈黙の層が横たわっている気がした。




