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 親が旅行から帰ってくる前に家の片付けをした。キッチンやリビングに散らかっていたものは元の場所に戻し、掃除機をかける。

 しばらくは没頭していたのだがふとリビングを見回す。この場で動いているのは、もちろんおれだけなのだが。


――この家、広いな……。


 さきほどまで猪熊くんがいたから気づかなかったのだ。


「掃除しよ」


 ひとりごとが空っぽの部屋に吸い込まれていく。

 最後、リビングの端に畳んであったふとんを片付けようと持ち上げた。

 空気を思い切り吸い込んだようなつくりの羽毛布団からは、動かした途端にふわりと猪熊くんの匂いがした。布団を抱える手に力が入る。

 ばふっとふとんに顔をうずめて、ため息。


――どうしよう。好きかもしれない、この匂い……。


 しばらくそうしていたけれど、親が帰ってくる時間が迫っていることに気づき、慌てて収納スペースへ持っていく。

 明日、干してしまえばきっと猪熊くんの匂いも消えてしまう。

 作業を終えたおれはベッドに寝転び、あらためてスマホの画面を眺めた。


『冷めきった餅を頬張る君との時間 真白にのびていついつまでも #恋するtanka #三夜目 #最後の夜』


 昨晩に食べた餅はまずくなかったけど、まったくのびなかった。べたべたにきな粉をかけて食べ切った。

 猪熊くんだって多少の気まずさはあったはずだ。それでも「いつまでも」と望んだ時間だったと短歌で言いたいのだろう。


――だよな。……おれに届けようとしているんだもんな。


 #恋するtankaシリーズはおおむね好評だ。リポストもいいねもたくさんつき、「きゅんきゅんしました」といったコメントもつく。

 おれも以前なら純粋に「胸きゅんですね!」とコメントしていたと思うが、いまは複雑だった。

 胸の中がつまって仕方がない。


――ちゃんと、考えないと……。


 ぼんやりとしながら休日がすぎていく。


 




 休み明けに、ひとりで登校した。

 猪熊くんは先に教室の席に座って、スマホを眺めている。肩肘をついたまま、たまに指が画面に伸びていた。

 迷ったが、おれは猪熊くんの前に立った。


「猪熊くん、おはよう」

「……おはよ」


 猪熊くんはちらりとおれを見たが、すぐに視線が手元に戻る。

 おれは元のように話しかけようとして、失敗した。


「猪熊くん、この間のことなんだけど……」

「水島……いいねも、くれなかった」


 非難の眼差しを送られ、おれは困惑した。

 呼び方も、「水島」に戻っている。

 

「え?」

「餅の短歌」


 猪熊くんが指しているのは、#恋するtankaシリーズの三夜目の短歌だった。

 たしかに、SNS上でおれは何の反応もしていなかった。いつもなら、していただろう。でも、いいねを押そうとしたら指が重くてできなかったのだ。

 画面の向こう側に、猪熊くんがいるのがわかっていたから。

 

「え、えっと、それは」

「……ちょっと傷ついた。いつも、『りく』さんは真っ先に反応してくれていたから」


 『りく』はおれがSNSで使っているハンドルネームだ。隠していたわけではないからren_tankaさんの短歌を見せるとき、おれのハンドルネームも見えていたはずだ。


「……ごめん」


 おれはそれしか言えなくなった。

 猪熊くんは、何か言いたいことをこらえるようにぎゅっと口元を真一文字に結ぶ。


「……オレこそ。余裕、ぜんぜんない。反応なんて……本人の勝手なのにな」


 前髪をかきあげる。そうすることで心の平穏を保っているみたいだった。

 そうするうちに、佐野くんたちが教室の入口から入ってくるが見えた。こんな深刻な話はだれにも聞かれたくない。おれは猪熊くんの席を離れようとした。


「いいよ。……じゃ」


 軽く挙げた手は、思いもよらないところで掴まれた。

 がたっ、と椅子が動く派手な音。教室中に響く。視線が集まってくる。

 おれの手を掴んだ猪熊くんはその音すら聞こえていないみたいに眉根を寄せておれを見つめていた。……懇願するように。


「返事、くれるよな……? オレは、なかったことに、したくない」


 振り絞られるような声は小さく、震えていた。

 おれ以外にはっきり聞き取れた人もいなかっただろう。

 おれも猪熊くんも男同士。同性同士の恋愛は、マイノリティだ。

 それでも猪熊くんはおれに気持ちを伝えてきた。

 猪熊くんの中で、葛藤がなかったはずがない。おれ以上に、猪熊くんが不安なのかもしれなかった。

 

「考えてるから、ちゃんと」


 はっきりと答えた。

 手首をつかんでいた力が緩む。猪熊くんが息を吐いて、机に突っ伏したのだ。


「オレ……かっこわりぃな。ネットではできるのに……目の前にすると、口説くのがむずい……」


 不満げな声をあらわにしつつ、猪熊くんはおれの指を両手で触ってくる。親指、人差し指、中指……一本一本丹念になぞられると、肌がそわそわと落ち着かなくなってくる。


「ちょっ……! 猪熊くん、朝からやりすぎ!」

 

 思わず手を引っ込めた。おれの顔は真っ赤になっているに違いない。

 叱られた猪熊くんは「ハイ」と言ってから立ち上がり、こちらをうかがっている佐野くんたちに近づいていく。

 すれ違いざまに猪熊くんは告げた。


「近くにいると触りたくなるから、今は距離を取るよ」

「えっ」


 猪熊くんは苦笑いを閃かせた。

 

「オレ、こらえ性がなくてさ。次に話すときは、返事もらう時にする」


 そう言って、佐野くんたちに話しかけにいく。

 自分の席に行くと、すかさず柿本が心配そうな顔でやってきた。


「おい、猪熊と何かあったか? 喧嘩した?」

「……何かあったことはあった」

「なにが」

「言えないんだよなぁ、これが」


 おれは顔から机に突っ伏して、意味もなく「あ〜」と濁った唸り声をあげた。手足も無駄にばたばたさせてみる。


「ご乱心じゃん」


 柿本がおれの頭の上で呆れたように笑っている気配がした。

 おれはむくりと頭をあげた。

 猪熊くんたちは何事もなかったかのように楽しそうに話している。おれたちとの間には距離があり、見えない壁が存在しているようだった。

 今、おれは彼らからは見えていないのだろう。

 あの中にいる猪熊くんは、ほんの二日前までおれとずっと一緒にいたのに。

 今は、ひとりきりのようで……。


――さびしい。


 そんな気持ちが水滴のように胸の中に落ちてきた。

 猪熊くんとしゃべっていたい。

 猪熊くんの隣にいたい。

 猪熊くんと笑ったりしたい。

 猪熊くんの……一番になって、おれだけを見ていてくれたら……。


――幸せなんだろうな、きっと。


 熱い息を吐いたおれは、柿本が席に戻っていったのさえ、しばらく気づかなかった。

 それから、おれは授業中の合間や昼休みも、スマホを開いて、ren_tankaさんのこれまでの短歌を読み返した。

 #恋するtankaシリーズを、何度も、何度も。

 ただのファンではなく、猪熊廉の想い人として、ただしく恋文《短歌》を受け取らなければいけない、と思ったからだった。


 放課後になる。おれはずっと頭の中に#恋するtankaシリーズをぐるぐると巡らせながら、そのまま駅への道を歩く。

 駅のホームで電車を待つ。

 社会人の退勤ラッシュよりは少し早いが、それでも人が次の電車を待っている。話し声と他のホームに滑り込む電車の音がする。

 日が暮れてきて、ホームの屋根の隙間から日差しが差し込み、長い影が伸びていた。

 おれは列に並んでなにげなくスマホを取り出すと、ちょうどその時に通知がきた。


――ren_tankaさん……?


 おれはすぐにスマホをタップして、SNSの画面を確認した。

 新しい短歌が投稿されていた。夕焼けを思わせる淡いオレンジの画像に載せていたものは。


『駅ホーム 発車のベルが鳴り終わる 横顔へ祈り「まだ行かないで」 #恋するtanka #告白』


 ……おれは、左右を見回した。

 駅ホームには、おれたちみたいな学生もたくさんいたし、社会人や親子づれも同じように列で待っている。


――気のせい、かな……。

 

 電車が来て、一層、人の出入りが激しくなる。

 扉が開く。人が車両に吸い込まれていく。

 電車に乗らなければいけないだろう。普段通りに。

 そうすれば、この短歌は短歌のままで、何事もなかったかのように日常は流れていくのではないか。猪熊くんとはこれまで通り表面上は仲のいい友達でいて、普通の学生生活を送る。ただ、いつのまにか距離が離れていって……いなくなる。

 そんな夢想をした。

 おれはスマホを握りしめた。


――おれは、すごく感傷的なことをしようとしている。


 おれは猪熊くんから問いかけられている気がした。

 『まだ行かないで』。それがなんだか猪熊くんからの精一杯の……最後の、告白のように思えてならない。


『近くにいると触りたくなるから、今は距離を取るよ』

『オレ、こらえ性がなくてさ。次に話すときは、返事もらう時にする』


 そんな言葉が出てくるぐらいに、猪熊くんは覚悟を決めているのだ。

 おれは、踏み出しかけた足を――止めた。

 後ろにいた人が戸惑ったようにおれを避けて中に入っていく。

 シューっと音を立てて車両の扉が閉まる。

 周辺の人はほとんどがいなくなった。

 おれは、背後から近づく気配に気づいて、振り返る。

 ……猪熊くんが、ホームの片隅に立っていた。

 困ったようにおれを見ている。口元が話したそうにしていたけれど、それよりも早く、発車ベルが鳴り響く。

 おれは不安に揺らす目を見つめ続けていた。


――ああ、好きだな。


 やっと自分の中でしっくりとくる気持ちが降りてきた。


――おれ、この人のことが好きなんだな……。


 ホームが静かになった。

 おれは猪熊くんに触れる距離に行こうと歩いていく。

 何度も読み返して、体にまで染み付いてしまった短歌たちが頭の中でフラッシュバックしていく――。


心臓を他人に譲る気持ちとはこんなものかと 君は知らない


――そうだ、おれは何も知らなかった。猪熊くんがそんな気持ちでいたなんて。


傍にいて まだ足りなくて 波寄せて 逢瀬の島を待ちわびている


――水族館も楽しかった。泊まりの話が出たのもこの時だった。おれが思う以上に猪熊くんは楽しみにしていたってことだよな。


「夢か……夢。それでよかった」――「好きだ……好き」 まどろむうちに染み込めばいい


――寝込みを襲うのはよくない。でも好きな気持ちが溢れちゃったんだよな。……まぁ、許そう。


唇は夜に沈んでなお慕わしく 「実は獣だ」そう言えたなら


――猪熊くんの「好き」はだいぶ重いのがわかった。……おでこにちゅーで済んでまだよかった。


ほとばしる水の流れにせきはなく 忍べずあらわに落ちていく恋


――ぶっちゃけ、ときめいた。間違いない。猪熊くんの囁きは心臓に悪い。詐欺だ。


冷めきった餅を頬張る君との時間 真白にのびていついつまでも


――三日夜の餅や後朝の文。猪熊くんひとりだけで見立てた儀式だった。それってさ、おれにフラれたとしても自分の中で満足したかったってこと? 不器用すぎるよね。おれも人のこと言えないけど。


そして――さきほどもらった短歌。

 

駅ホーム 発車のベルが鳴り終わる 横顔へ祈り「まだ行かないで」


――「行かないよ」。猪熊くんが待ってるということなら。

 

 猪熊くんは気づいていなかったかもしれないけれど、おれはとうに口説かれている――。

 #恋するtanka――猪熊廉から水島陸斗に送られた恋のうたで。

 それらをぜんぶ抱きしめて、おれは猪熊くんの前に立つ。


「猪熊くんが『まだ行かないで』って言ったから、残ったよ」


 猪熊くんの目が大きく揺れたが、感情の波を押し殺すように伏せられる。肩掛けのバッグを握る手は震えているように見えた。


「ん……。返事を、聞けるってことでいい?」

「うん」


 猪熊くんは静かにおれの返答を待っていた。おれは汗ばむ手を握ったり開いたりしながら告げた。


「その前に、ひとつ……。あの#恋するtankaシリーズは……おれのことを詠んだんだよな?」

「……そ。気づいたらそうなってた」


 猪熊くんはぽつぽつと話してくれた。


「短歌は自分のためのものだった。自分の心を吐き出すための……。学校では言えなかった。みんな、オレらしくないって思うだろうから。そういうのがめんどくてさ」


 でも、と猪熊くんがおれを見る。


「……はじめて、オレの短歌で喜んでくれるひとを目にした。楽しそうに、ren_tankaのことを話してた」

「うん」

「だれかに届けるために詠みたいとはじめておもった……#恋するtankaは、陸斗へ届けたくて詠んだんだ」

「そっか……光栄だな、すごく。ありがとう」


 おれはファンとして心から礼を言った。応援の気持ちが伝わっていたことがわかったのだ。とてもうれしかった。

 猪熊くんはちいさく息を吐き、そして告げた。


「オレは陸斗に恋してる。付き合いたい……陸斗の気持ちを聞きたいんだ」


 猪熊くんのまっすぐな気持ちが胸に響いた。

 おれは恥ずかしさを押し隠して俯きがちになる。


「うん……わかったよ」


 発車ベルがまた鳴った。隣のホームに停まっていた列車が滑らかに動き出す。

 轟音。

 おれは猪熊くんの耳元に自分の唇を近づけて、囁く。


「考えたんだけどさ……おれも同じ気持ちだ。廉、のこと、好きだよ」


 列車がホームから出ていき、また静寂。


「……聞こえた?」


 おれが猪熊くんにそっと囁くと、小さな頷きがあった。


「聞こえた」


 猪熊くんは両手で顔を覆い、手の隙間からおれを見た。

 手をどけた猪熊くんが、徐々に泣き笑いのような顔になっていく。


「……ほっとした。だめかと思った」


 猪熊くんが正面からおれの手を握る。祈るようにその手を額に押し当て「よかった……」とつぶやいた。

 おれは、ここまで喜ぶとは思わず、おもはゆい。

 逃げようと手を滑らせたのに、猪熊くんはまだ離してくれない。

 おれの目を優しく見つめ、猪熊くんは告げた――。


「オレたち、付き合おう」


 こうして、おれたちは恋人同士になった。






 年末近くになった。

 おれは猪熊くんの家に泊まりに行っていた。

 猪熊くんの一家は毎年ご両親の実家に帰省しているのだが、猪熊くんは高校生になった去年から免除されているらしい。去年はひとりで年越しして、初詣だけ誘われて出かけていったそうだ。

 おれが猪熊くんの家についた時、すでにご家族は出かけた後、気兼ねなくお邪魔させてもらった。

 猪熊くんの家は、おれの家よりちょっと広めだ。しっかりしたベランダがついていて、住宅街にあるわりに開けた景色が見えた。


「いい家だね」

「……そうだな」


 ついて早々、しっかりとお土産を渡し、猪熊くんの弟さんが持っていたというゲームをやってみる。


「あれ……これ、キャラがぜんぜん動かないんだけど! 操作方法これで合ってるっ!? あ、やられちゃった……」

「んー? オレもあんまやったことがなくて……よし、ネット見るか」

「ネタバレは踏まないように!」

「わかってる」


 おれがゲームで苦戦する一幕がありつつも、だんだんと夜も更けていく。

 猪熊くんは、たまに真剣な顔でスマホをのぞいていた。顔つきでわかる――今は短歌を考え中なのだと。


――この人が、ren_tankaさんだもんな。


 ren_tankaは今もネットで投稿をつづけている。#恋するtankaシリーズは一段落し、日常の短歌を詠むことが多くなっていた。……が、たまに甘い恋の短歌も投稿している。

 人気は相変わらず高いが、おれは今もひっそりとren_tankaさん応援隊としての活動を続けている。


――おれの、恋人、なんだよな……?


 整った顔立ちには少しの繊細さもうかがわせる。

 猪熊くんとおれはいたって清い交際関係である。まあ、おいおい……そういうこともしていくのであろうが、そこは猪熊くんがおれの心の準備を待っていてくれる。

 とはいえ、スキンシップが激しい時もあるのだが。

 気づけば、猪熊くんは熟考をやめていた。


「なーに、オレのほうを見てるの」

「あはは、ごめん」


 画面を見ていた視線がおれの視線に絡む。……おれの体温が上がった。

 ソファにいた猪熊くんが立ち上がって絨毯に座ったおれの横にべったりとくっつく。


「あのさ……今日、泊まりじゃん」


 猪熊くんがぐいぐいと肩でおれに体重をかけてくる。甘えたように言いながらやっていることは割と遠慮がない。


「やめてって、おれが潰れちゃう」

「これでも加減してる……でさ、実はさ、買ってきてるんだけど……餅」

「もち。……「もち」って、あの「餅」? 前泊まった時の」

「……ん、そう」


 猪熊くんが上目遣いでおれを見てくる。

 餅。おそらく猪熊くんがおれに食べさせ、勝手に成立させようとした「三日夜の餅」……つまり「結婚」である。


――今から考えても、猪熊くんの発想がよくわからないよな……。


 だが猪熊くんなりに必死だったのはたしかだ。

 たまたま国語の授業で先生の話に出た時、猪熊くんは内心焦っていたらしいし。


「猪熊くん。あらためて聞くんだけどさ……おれと餅を食べたいってさ、つまり、それって、さ……結婚、したいってこと?」


 猪熊くんが目に見えて固まった。


「え、ちがう? そういうことじゃないの」

「いや……ちがわない、けど。……オレは、その、つもり、だし」


 猪熊くんは耳元のピアスに触れながらこくりと頷く。


「たしかに……重いね」


 付き合うかどうかの段階をすっとばしての「結婚」である。しかも当の本人に知らせず仕掛け人自身の中で勝手に完結。やっていることが重すぎる。

 

「わかってる」


 猪熊くんは目線を逸らして同意していた。


「でも……そのぐらい好きになったし……陸斗を見ていると『愛おしい』という言葉がぴったりくる」


 はぁ、と猪熊くんは大きく息を吐いた。


「好きすぎて、つらい……」

「そっかあ……」


 今度はおれのほうから猪熊くんに体重をかけた。しばらくお互いにえいやえいやと押し合いっこをする。

 その合間にぽそりとつぶやく。


「……いいよ。餅、食べてあげよう」

「まじ?」


 猪熊くんが背筋を伸ばし、まじまじとおれを見てきた。小さく頷く。


「どうせ食うなら、冷め切る前のあつあつのほうがいいだろ……?」


 言いながらまた恥ずかしくなってきた。顔を逸らす。

 ふたりきりの恋人モードはまだ苦手なのだ。

 猪熊くんがふと沈黙した。


「……陸斗、こっち見て」

「なんだよ」


 そろそろと向けようとした視線が固定された。

 猪熊くんが、おれの両頬に手を当てていた。真正面から見つめられていた。

 こそばゆいぐらいの甘い空気が流れていた。

 猪熊くんのつやつやとした薄い唇が、動く。


「名前、呼んでよ」

「……廉?」


 名前を呼んだ途端、唇で紡いだ言葉ごと、もうひとつの唇で封じ込められたのだった。


 

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