1日目-知る日-
テレビの画面が、突然切り替わった。
朝のニュース番組の明るいジングルが中断され、警告音が鳴る。
母が箸を止めた。湯気の立つ味噌汁の向こうで、アナウンサーの顔が青ざめていた。
『巨大隕石群の地球衝突を確認。衝突まで、およそ——六十時間』
その瞬間、部屋の空気が変わった。
母は俺の顔を見たまま、一言も発しなかった。ただ、その手が震えていた。
炊き立てのご飯の香りと、納豆の粘り気。いつもと何一つ変わらない朝のはずだった。
けれど、“あと三日で世界が終わる”という事実だけで、この日常がフィルム越しの風景のように感じられた。
その日、俺は学校に向かった。制服を着て、リュックを背負って、いつもの道を歩いた。
ただ、何もかもが“少しだけ”違っていた。
交差点で、車が衝突していた。フロントが潰れ、煙が上がる。
けれど誰も救急車を呼ばないし、近寄りもしない。
それがもう“どうでもいいこと”になってしまった世界。
駅前の歩道で、制服の男女がキスをしていた。いや、キスどころじゃなかった。明らかに“それ以上”の行為。
人目なんて気にしない。今しかないから、なのか。それとも、世界が壊れる前に“壊れて”しまったのか。
さらにその先、公園のフェンスの前で、二人の男が取っ組み合っていた。
血がにじむ拳と、うずくまる身体。罵声も怒声も、風の音に溶けていく。
俺はそれらを、ひとつひとつ、通り過ぎた。
何も感じないわけじゃない。ただ、受け止めきれなかっただけだ。
教室は、静かだった。
「……やっぱ来たか」
いつもの席から、アイツが声をかけてきた。
教室の最後列、窓側の席。そこに座っていたのは、誰よりもうるさくて、明るくて、俺とは真逆の人間。だけど、親友。
「マジで来るやつ、俺くらいかと思ってたわ。てか、制服まで着てきて、マジで律儀すぎ」
そう言ってアイツは、いつも通り茶化して笑った。
俺は肩をすくめながら、「お前もな」とだけ返した。
二人とも、教室にいて、制服を着ていて、そして静かに笑っていた。
この教室の空気が、どこよりも安心できるなんて、皮肉な話だ。
──思い出すのは、あの春の日。
家庭科の授業。パンケーキ作り。
「俺もやるー!」
手を挙げて、俺の隣に来たあの日。アイツは最初から明るくて、距離が近かった。
卵を割る手が震えて、中身が机にぶちまけられる。
ホットプレートに流し込んだ生地は膨らまず、ひっくり返すたびにバラバラに崩れていく。
周囲はもう片付け始めている中、俺たちは焦げた生地をこね回していた。
「時間内じゃないと、パンケーキ食べちゃダメだよ〜」
先生の声が遠くから響いた。
アイツが叫んだ。「急げ急げ!」
俺も焦りながら、「やばい、食べれなくなる!」と応えた。
最後に焼けたのは、どう見ても“今までで一番マシなやつ”。
二人で一気に口に入れて──
「ゲロマズじゃねーか!!」
先に吹き出したのは俺。
「お前、砂糖と塩、間違えただろ!」
すかさずアイツが突っ込んでくる。
「お前が焦がしたせいだろ!」
俺は思わず笑って返した。
爆笑して、涙が出た。
俺の人生で、あんなに素で笑えた瞬間は、あれが最初だった。