15)
リディはびくりと身を震わせた。
声が届かない。また二コラがやってきたというわけではなさそうだ。では、さっき下がった使用人だろうか。正直、今は放っておいてほしかったが、彼らにも仕事があるのだ。それもリディのために尽くしてくれることなのだ。
億劫な気持ちを打払い、リディは「どうぞ」と返事をした。
ところが、しばらく待っても一向に入ってくる気配がない。なんだろうと不思議に思ったリディは自分からドアを開いた。
その判断が誤っていたことに気付いたときにはもう既に遅かった。
「……残念ね。あなたは、なにもかも、間違っているわ」
冷ややかな殺意を込められたその声と共にリディは衝撃を受ける。
腹に受けた熱いその感触には覚えがあった。
「ぁあっ……!」
憎悪を込めて抉るように差し込まれたナイフをさらに勢いよく引き抜かれ、血がどくどくと溢れ出すのを感じた。立っているのもままならずがくりと崩れ落ちていく。
一体、誰――せめて相手の顔を見ようとしたが、またしてもそれは叶わないまま、リディの意識は黒に染まった。
はっと覚醒したとき、リディの鼓動はどくどくと激しく音を奏でていた。しかし咄嗟に押さえた腹部に幻痛のようなものを覚えつつも傷口はどこにも触れられない。そして大広間の扉が今まさに開かれようとしている時だった。
つまり――。
(また、元に戻っている?)
やっぱり時が戻っている。もう、本当にそうとしか思えない。
「そうだとしたら、これは三回目の舞踏会……?」
リディがぶつぶつと呟くと、隣にいた令嬢が訝しげな視線をちらりとよこしたが、それでも人々が動きはじめるとリディの些末な様子など誰も気にしなくなっていく。
リディはよろめきながらも人の波の流れに身を委ねて大広間へと移動する。もし時間が本当に戻っているのならば、このあとに起きることは決まっている。
最初にダンスに誘ってくれる紳士は誰になるのだろうかと緊張していたところ、ジェイドに誘われたのだ。その通りに、彼はリディの前に現れた。
「お初にお目にかかります。ご令嬢。我が名は、ジェイド・リスター・カイザック。オニキス王国より王の名代で貴国の祝祭に馳せ参じました」
リディは息を呑んでジェイドを見つめた。やはりここだけは変わりがなかった。
「……初めてですって? 私をからかっているの?」
リディは前回と同じように問いかけた。そうしてなぞったら何か違いが現れるのではないかと様子を窺いながら。
もうジェイドと顔を合わせるのはあの間者のときに出会った時を含めれば四度目ということになる。一方、時間が戻されていることを知らない彼にとっては二度目になるわけだが。
――その後の会話ははっきりと覚えている。
『リディよ。リディ・ヴァレス』
『……リディ。今夜の宴が終わっても覚えておこう。どこか懐かしいような、いい響きの名だ』
『懐かしい? きっと前にも同じこと言っていたからだわ。リリーでもリディでも名前なんてなんでもいいんでしょう? そんな適当なことをいうあなたに私は縁なんてないと思うの』
『だが、ここで二度会ったことは事実。運命が許せば、また会うことになるだろう』
――全く同じように挨拶を交わした。
それから一曲踊ってほしいというジェイドの誘いに乗って踊りはじめたが、リディはうまく笑顔を作れなかった。
前の時間に戻ったときにジェイドが部屋に送ってくれたことはなかったことになってしまっている。それが、ひどく寂しく感じていた。
自分の気持ちは変わっていくのに、周りは変わらないでやり直していく。それが続いたらどうなってしまうのだろう。
この世界に独り取り残されていくような、そんな心細さに身体が震える。じわりと視界が涙で揺らいだ気がした。
そのとき、ぐっと手を引き寄せられた拍子に、ジェイドが耳の側で囁いてきた。
「一旦、輪から抜けるぞ」
「……え?」
リディが戸惑っていると、ジェイドがやや強引にリディの肩を抱いて輪から抜けて近くのバルコニーへと連れ出した。
二人してバルコニーに躍り出れば、爽やかな風が頬をするりと撫でて、息苦しさから解放された気がした。
「少し休んだ方がいいと思ったんだ。顔色が悪かったからな」
「それで連れ出してくれたのね。ありがとう」
素直に礼を言うと、ジェイドは微かに目元を細めた。そんな仕草にうっかり魅入られてから、リディは視線をぱっと逸らす。
鼓動がとくりと音を立てたのを知らないふりをして、それからリディは今まで体験したことを頭の中で整理していた。
時間が戻っているのはたしかだ、と自分では思う。ただ、そのたびに同じことが起きるだけではなく、変わることと変わらないことがあるようだ。
実際、ジェイドとのやりとりは同じのはずなのに、彼との接触の仕方には少しずつ変化がある。一回目の舞踏会、二回目の舞踏会……そして今、三回目の舞踏会。共通している部分では、彼がリディのために助けてくれるという部分だけ。
でも、他のことは何もわからない。花嫁候補の順番が少しずつ上がっていくのが不気味だ。二コラは憑かれたような顔をして不正をしていることを堂々とリディに話した。けれど、それはあくまで二コラが起こしている行動というだけで、時間を巻き戻すなんてことをしているわけではないのだろう。
じゃあ、一体、リディの身に何が起こっているのだろうか。なんのために時間が戻されているのだろうか。延々とこれからも続いてしまうのだろうか。どうしたら止めることができるのかわからない。
ふと、リディはクロノス神のことを思い浮かべた。時といえば、この国の中央にある神聖マグタ教国が崇拝している時間を司る神様のことだ。
(神様が……何かを伝えたがっているの?)
神様へ祈りや誓いを捧げることはあっても、それは一般的な習慣で、神とは偶像のもの。そう考えるリディは敬虔な信仰者とはいえない。けれど、進んで神様を侮蔑するようなことや罰が当たるようなことをした覚えもない。
ジェイドだったら話を聞いてくれるだろうか。そんなふうに喉の奥にこみ上げてくるものがあった。
(けれど――彼はこの国の人ではない)
まして間者のような真似をしていたのは事実。完全に信用していいかどうかといったらまた話は別だった。
迷ったまま必死に言葉を呑み込もうとしていると、ジェイドがぽつりと言った。
「言いたくなったら話せ。俺は無粋なことはしない主義だ」
「……っ」
リディは思わず顔を上げた。ジェイドが見つめる眼差しには慈愛のようなものが滲んでいた。それは……どんな言葉よりも信用できるような気がした。
もういっそ全て打ち明けてしまいたいと思ったが、リディはかぶりを振った。こういう時こそ安易に流されず、慎重に動くべきかもしれないと感じたのだ。