一話
人類最大の王国の地──アストラリアの東にある広い草原の中に、レンガと木造で建てられた家。どこにでも見る典型的な構造で二階建ての一軒家だ。
アストラリアは巨大な円型の壁に囲われた国。国の端にある崖から流れ落ちていく大滝は、七色に輝きながら川となって王都の中心へとせせらぎを奏でて星形に分岐していく。そして水の恵みが集まって行く中心には、豪勢な王城がそびえ立っていた。
その家は草原の地にポツンと建てられており、側にはアストラリアを傍観できる崖がある。その下に流れる川がせせらぎを奏でていた。
澄み渡った普遍の蒼から、春の眩い日差しが大地を照らす。吹き抜けた風が、小鳥のさえずりと共に静謐を攫った。
光が差し込む大地で、家を背にして崖に向かってひたすらに剣を振り続ける少女が一人いた。
「ふっ……!」
腰まで伸びている純白の髪が、太陽の光に照らされて雪のようにキラキラと燐光を放つ。未だ僅かに子供っぽさを残した顔立ちは、それぞれのパーツが精緻に整っている。大ぶりの橄欖石を嵌め込んだような瞳は正面を真っ直ぐに見据えていた。
細長くスラリと伸びた肢体は一見すると非力に見えるが、無駄な肉が一切ない。それでいて女性的な起伏が存在しないという訳でもなく、彼女が着ている紺色のインナーで強調されてその膨らみが僅かに伺える。
剣を振る度に、銀白色の上着がなびき、首に掛けられた蒼い輝石のネックレスが宙を舞う。
「ふっ……!」
振り下ろした剣尖が風切り音を散らしながら、軌跡を描いて空を裂く。剣圧に押された空気が扇状に放射され、向かい来る風を切り裂いて草花を揺らした。
「198……っ!」
数を数えながら、少女は振り下ろした剣を振り上げる。呼吸を整え、額に滲んだ汗が頬を辿るが、それを意に介さず柄を握り直した。
力を込めて、再度その剣を振り下ろす。寸分の狂いもなく放たれた剣は、同じ軌跡を描きながら空を裂いた。
「199……っ!」
白を基調とした上着が剣を振り下ろすと同時に、風に吹かれてなびく。その女性らしい細長い肢体から繰り出される剣戟は、美しい軌道を描いた。
真剣な表情──その中にある翡翠の如き双眸は、ただただ眼前を見据えていた。
「200……っ!!」
脳裏に描いた魔物を切り裂く。最短で、最大限に発揮できる理想の剣戟を達成するがために。課せられた朝のノルマが終わり、自分の力量を実感しながら腰に携えた鞘に剣を納めて一息ついた。
「ふぅ……」
家の周りを囲っている柵に掛けていたタオルを手に取り、額に滲んだ汗を拭う。そして崖へと視線を向け、アストラリアを一望しながらソニア・セシリアはポツリと溢す。
「まだ、まだ……」
溜め息を溢して、ソニアは腰に携えた剣の柄に触れる。毎朝の鍛錬が一通り区切りを迎え、アストラリアにある時計塔に目を向ける──長針がちょうど7時に重なったのを確認して、ソニアは家の中へと足早に駆け込んだ。
「ほっ、ほっ、よっ、と──」
床が最も軋む場所を軽やかに躱し、二階へと伸びる階段の手すりに掴まる。十年もの間を通い続けたこの家のことは、家主の次に知り尽くしているつもりだった。
「おはようございます、ロビー」
そう挨拶の言葉をかけて、毛布の上でとぐろを巻いて丸くなっている蛇竜の頭をポンと撫でる。ロビーと呼ばれた蛇竜は首をくねらせ、大きな欠伸を漏らした。
二階に上がり、二つ目の扉を勢い良く開く。これといって目立つ物も置かれていない質素な部屋には、服の入ったタンスと勉強机──そこにはいくつかの資料本が立てられている。そして部屋の隅にはベッドが一つだけ。
掛け布団に包まっている膨らみを睨み、ソニアは僅かな臭いに呆れを含んだ溜め息を漏らす。カーテンを勢い良く開き、煌々と輝く日差しが薄暗い部屋を照らす。そしてガッと布団を掴んだ瞬間、全力で引っぺがした。
「──師匠! 朝ですよっ!!」
布団を引っぺがし、師匠と呼ばれた男がベッドに転がる。太陽の輝きが男のまぶたを焼き、男はあまりの眩しさに耐え切れず唸り始めた。
「ほら! 師匠起きてください!」
「ん、んん……」
男は僅かにまぶたを開く。真紅に染まった瞳がソニアを見上げ、辺りを見渡し始める。眉間にシワを寄せて、しかめっ面を浮かべながら大きく唸った。
「あっ、あ〜ぁ゛ぁぁ……ソニア?」
「はい! ソニアです師匠! 起きましたか?」
ソニアの存在を確認した男は、何度かまばたきを繰り返してから彼女が奪い取った布団に視線を向ける。そして狙いを定めると即座に腕を伸ばした。
「返せ」
「あっ!」
ソニアから布団を奪い取った男は、再度布団の中で蹲って眠りにつく。予想外な男の行動にソニアはポカンと口を開けて硬直する。膨らんだ布団を見下ろし、パチクリと瞬きを繰り返してから、それを理解した。
「いい加減にしてください! ちょっと、ほら! 起〜き〜て〜、くださいっ!」
布団にしがみつく男から無理やり引き剥がすと、彼はベッドの上で丸まって太陽の光から顔を覆い隠す。意地でもそのまま眠りにつこうとしているようだ。
「強情な人ですね……!」
あまりにも諦めの悪い男の態度に、ソニアは溜め息を漏らしながら腕を組む。そして「しょうがないですね」と訥々と溢して、彼女は体内に巡るサンドラ粒子を魔力へと変換させ、ゆっくりと練り始めた。
体内に流れるサンドラ粒子が右の手のひらに集束していき、淡い蒼の輝きを宿す。周囲の空気が僅かに冷たくひんやりとしたものに変わっていき、ソニアはその手で男の頬に「食らって下さい」と触れた。
瞬間、男は飛び上がるように起きた。
「──冷たっ!!」
「やっと起きてくれましたね師匠」
満面の笑顔で手を合わせるソニアに対して、師匠と呼ばれた男は頬を抑えながら眉間にシワを寄せていた。
目つきはまるで憎悪に溢れているような眼光を滲ませている。真紅に染まっている瞳は、殺意を感じさせるほどの鋭さでソニアを見上げていた。
知らない人が見れば、あまりの恐ろしさに後退りしてしまうだろうが、今ではもうすっかり見慣れた光景だ。
表情こそ「殺すぞ」と言わんばかりの険しさだが、その実ただただ寝起きが悪いだけである。
「その顔、他の人が見たら逃げ出しますよ?」
「ああー、どうせソニアしかいないからいいよ」
「はいはい、取り敢えず起きてください」
ソニアに言われるがまま男はぬらりと起き上がる。立ち上がってようやく本来の視線の高さに戻り、ソニアは彼を見上げた。
彼はボサボサに寝癖の付いた漆黒の髪をくしゃくしゃに掻きながら、未だぼんやりとしている意識の中で顔を険しくしていた。
「クソったれ……頭痛ぇ」
「また寝る前にお酒飲んだんですか?」
酒による頭痛で頭を抑える男は、昨日の自分に向けて舌打ちを漏らしながら「飲まなきゃ寝らんないんだよ……」と苦しげに答えた。
そんな酒癖の悪い師匠に対して、ソニアは腕を組んで呆れの溜め息を漏らしていた。
「それで毎朝頭痛で嘆いてるじゃないですか……」
「しょうがないじゃん、か……」
朧気な足取りで男が向かった先はトイレだ。便器を抑えて、上下に大きく頭を振り始める。吐き気を誘発して少しでも体調を取り戻そうとしているのだが、ソニアにとってはこの景色も既に見慣れてしまっていた。
どうせ、今日も吐くことはできない。それは彼の特異な体質の所為なのかは分からないが、毎朝それで自分の身体に呪いの言葉を吐くのもお馴染みだ。
「だぁぁ! クソっくらえクレイヴ!!」
他人に対して恨み言を吐いてるかのように叫んでいるが、クレイヴとは──クレイヴ・ダンヴァースで、ソニアの師匠で男のことだ。
《 呆れたヤツだな。これで英雄の弟とは思えん。 》
「あはは……」
起きてきたロビーが蛇のような身体をくねらせながら、鼻で笑う。
毎度毎度なぜ懲りないのか。クレイヴは便器に向かって怒りの言葉を投げ続ける。だが、いくら怒りを吐き続けたところで頭痛が襲い来る現状が変わることはなく、やがては諦めてソニアに頼み込むのだ。
「水いりますか? それとも黄連湯を作りますか?」
「うん……ごめん、両方お願い……」
今にも嘔吐しそうな青い表情で、目を白くしながら便器に顔を突っ込んでいる。そんな彼の絶望的な願いに答えて、ソニアは「分かりました」と呆れながら溜め息をついた。
「取り敢えず一階に行きましょう」
「キツイ、無理、イヤだ……」
「行かないと便器に頭を突っ込んだまま寝るじゃないですか」
便器に頭を突っ込んでいたクレイヴの腕を取って、ソニアは男を支えながら朧気なな足取りで一歩を踏み出す。ふらふらと左右を行ったり来たり繰り返し、階段をゆっくりと一段降りた瞬間──階段を踏み外したクレイヴがバランスを崩して、盛大に転げ落ちていった。
「──師匠!?」
床に倒れ伏せるクレイヴの安否を気にして、ソニアは慌てて駆け下りる。あわあわと目を丸くするソニアだったが、クレイヴは何事も無かったかのようにゆっくりと起き上がった。
二日酔いで頭を抑えながら、階段から落ちたことなど微塵も気にしていない様子でクレイヴは「あー、今ので目が回ったわ……」と顔を青褪めていた。
「あれ、もう一階にいる……俺また寝たのか、黄連湯はまだ?」
「あはは……師匠の頑丈さにはつくづく目を見張るものがありますね……」
ロビーが寝惚けているクレイヴに向かって突進していく。
《 おい、さっさと、起きろ! 》
ロビーの頭突きを軽く手で受け止めながら、ぬらりと立ち上がって歩き出したクレイヴは、居間のソファーに倒れるように寝転がる。ソニアから渡された濡れタオルを目元に当て、ソニアは慣れた手つきで黄連湯を作った。
「どうぞ」
「ありがとう」
受け取った黄連湯を飲み干して、クレイヴはまるでおっさんかの如く「あ゛ぁ゛」と息を吐き出す。そしてソニアが持って来たお盆にコップを置き、改めて寝転がりながら額に濡れタオルを掛けた。
「師匠、ロビーのご飯をお願いします」
「えー、寝転がる前に言ってよ」
「またロビーに噛まれますよ」
クレイヴは面倒くさげに「はいはい」と起き上がり、冷凍された生肉を皿に乗せてロビーの前に置く。それを見ていたロビーは目を眇め、クレイヴは「なんだよ」と見下ろした。
瞬間、ロビーはクレイヴの腕に噛み付いた。
「痛たたたたたたた! なんだよ飯貰えるだけありがたいと思え! この乞食ドラゴン!」
《 オレ様が生で食うわけないだろ! 》
「ギャーギャー言いやがって、炎吐けるんだから自分で焼いて食えよ!」
ようやく腕から離れたロビーは、凍った生肉を口から吐いた炎で焼き始める。その様子を眺めていたクレイヴは噛まれた腕を擦りながら「次やったら三枚おろしにしてやるからな」と恨み言を吐いてからとソファーに座った。
ふとクレイヴは「そういえばさ」と切り出して、何かを思い出したかのようにポケットから一枚の紙を取り出した。
「これ、ヤルーナおばさんが畑を荒らす魔獣を倒して欲しいってさ」
「そんな突然に……えっ、この時間って……」
ソニアはくしゃくしゃになった依頼書を受け取り、その内容──特に魔獣が出現する時間を見て目を見張った。
壁に掛けられた時計に視線を移し、依頼書に目を向ける。そして声を荒げた。
「これ、もうすぐじゃないですか!」
「そうだよ。これも修行の一環。ほら、行った行った」
「んもうっ! ご飯は帰って来てから作りますからね!」
ソファーで寝転がって適当に手を振るクレイヴを横目に、ソニアは慌てて家を飛び出す。師匠のあまりの適当さには相変わらず呆れるものがある。
露店の溢れる通りを抜けて行くと、店の準備をしている額にタオルを巻いたおじさんが、ソニアの姿を見て手を振った。
「ソニアちゃんおはよう!」
「おはようございます!」
手を振り返しながら駆け抜けていくと、次は野菜を店先に出しているおばさんが「あっ、ソニアちゃんちょっと来て!」とソニアを呼び止めた。
「おはよう! これ、いつものお礼だよ。お師匠さんと分けて食べてね」
そう言って、おばさんは買い物袋に詰め込められた野菜をソニアに差し出す。流石の量にソニアも困惑しながら「そんな大層なことしてないですよ!」と手を振るが、おばさんは無理やり渡した。
「いいのいいの! いつもお手伝いしてくれてるから、受け取って欲しいのよ!」
「こんなに沢山、ありがとうございます!」
何度も頭を下げて感謝しながら、ソニアは駆け出して行く。道行く人々と挨拶を交わして行き、依頼されたヤルーナおばさんの畑に辿り着くと、おばさんは既に畑の前で椅子に座って待っていた。
「ヤルーナさん、おはようございます。遅れてすいません!」
「あ、ソニアちゃん時間通りだよ。今日もありがとうね」
「いえいえ! 珍しいですね、この辺りに魔獣が出るなんて」
アストラリアは高い壁に囲われた国であり、周りに生息する魔獣の侵入を防いでいるのだが、時折小さな魔獣が迷い込んでしまう。今回のも恐らくその一体であるとソニアは推測していた。
ヤルーナおばさんの依頼に備えて、辺りを見渡す。畑はヤルーナおばさんの言っていた通りで、畑が無残にも荒らされており、作物が食い荒らされていた。その惨状を見たソニアは、絶対に魔獣を討伐しようと剣に手を添えた。
「そうねぇ、最近ずっと困ってたのよ〜。お願いできるかしら?」
「はい! 任せてください!!」
ヤルーナおばさんと挨拶を交わして待っていると、イノシシ型の魔獣が現れてソニアは即座に剣を引き抜いて前に出る。「ヤルーナさんは私の後ろに」と言って、ソニアは飛び出した。
たとえ小型の魔獣といえど油断はせずに、相手の動きを見定めてソニアは剣を振るう。そして畑への被害を食い止める為に畑から離れて戦闘を行っていく。
瞬間、足下が泥濘んでいてバランスを崩した。
「うわっ!!」
突進してきた魔獣の動きを慌てて回避してから態勢を立て直し、クレイヴの修行を思い出しながら動きを重ね、魔獣を一刀両断。倒れた魔獣を見下ろして、ソニアは一息ついた。
「ちょっと危なかった……足下の状態も考えないと」
魔獣との戦闘を反省しながら呼吸を整えていると、杖をつきながらヤルーナおばさんがソニアの肩を叩いた。
「本当にありがとうねソニアちゃん。いつも荒らされてて大変だったのよ。助かるわ」
「いえいえ、お役に立ててなによりです」
剣を納め、ソニアは笑顔を浮かべる。畑を荒らしていた魔獣は足下に倒れ、畑には平穏が訪れることだろう。辺りに魔獣の気配がないことを確認して、ヤルーナに目を向けた。
「もう協会には連絡してあるので、魔獣の死骸は片付けてくれますよ」
「そうかい、いつもいつも本当にありがとうね」
「いえ全然! 皆さんの助けになれるなら、このソニアいつでも頑張りますよ! 荒らされた畑を直すのは私も手伝いますので、その時はまた呼んでください!」
拳を握り締めて満面の笑顔を浮かべるソニア。ヤルーナおばさんは感謝で溢れながら「本当にソニアちゃんには助かってるよ」と優し気な眼差しを向けて手を差し出した。
「はいこれ。依頼の報酬と、これ追加でね。いつも助かってるからお師匠さんと一緒に食べてちょうだい」
「えっ、でも流石に……」
「いいのいいの。もらって欲しいのよ」
茶菓子の入った袋を半ば無理やり渡され、困惑しながらもソニアは受け取り、微笑んで頭を下げる。抱き締めるように茶菓子の袋を持っていた。
「本当にありがとうございます! 師匠にも言っておきますね!」
もう一度だけ頭を下げて感謝の言葉を告げたソニアは、茶菓子と野菜の入った袋を持って踵を返す。早足で帰路についたソニアだったが、広場の横を通りすがった時、彼女の姿を見掛けた孤児院の子どもたちが駆け寄って来た。
「ソナお姉ちゃんだ!」
「お姉ちゃん今日も遊んでくれるのー?」
「ソナお姉ちゃん遊ぼ遊ぼ!!」
複数人の子どもたちがソニアの周りに集まり、彼女は腰を曲げて笑顔を浮かべる。そして子どもたちと視線の高さを合わせ、頭を優しく撫でた。
「これから師匠にご飯を作らなきゃいけないので、また今度遊びましょう!」
「えー! あそんでくれないのー?」
「すいません。明日は絶対に遊びましょう! それまでの間、皆さんのリーダーをしてもらえますか?」
「りーだー?」と首を傾げる子どもに向けて、ソニアは指を一本立てて笑顔で答えた。
「私の代わりに皆さんと遊んであげてください。みんなを引っ張っていくのは、かっこいい英雄になる為に必要なことですからね」
優しく取り繕うと、子どもは目を輝かせて「うん!」と力強く頷き、元気よく先導して他の子どもたちと共に広場の方へと駆け出していった。
子どもたちの元気な背中に手を振って見送り、ソニアはゆっくりと立ち上がって帰路につく。あまりにも広い平原──なぜこんな所に一軒家があるのか分からない──の舗装された道を歩いていき、家の扉を開けた。
「戻りましたー! 見てください師匠。沢山お野菜とお菓子を貰いましたよー」
貰った物の報告をしながら扉を優しく閉め、振り返った視線の先──見覚えのある男が倒れている。持っていた野菜が袋から落ちていき、ソニアは顔を真っ青に染めた。
「──ししょー!?!?」




