セーフモードの回帰点
『ああ…!よくぞ無事にたどり着いてくれました!私の大事なフィリップ…健気で可愛く、愛しい、私の息子!』
『皇后陛下…いいえ、今この時だけは御母様とお呼びすることをお許しくださいますか?』
『ええ、ええ、もちろんですとも。あなたはこの私の大事な愛し子。特別な子供なのですから…!』
ここはウィンドミューレン帝国の宮殿。ニコラは豪奢な作りの大広間に護衛として留まることを許されていた。そこで始まったフィリップと皇后のやり取りは、言葉のわからない彼の目にも大袈裟でわざとらしく映った。思わず首を傾げた彼は、隣にいるクリストハルトに肘で小突かれて慌てて姿勢を正す。
ウィンドミューレン帝国の帝都に着いて、最初にフィリップ達を迎えたのはこの小柄な侍従の青年であった。彼の抱えてきた大きな鞄には主人の礼服一式が入っていたようで、今フィリップは紺色の軍服に身を包んでいる。ついでのようにニコラもジャケットを借りて体裁を整えていた。
『なんと光栄なお言葉でしょうか…!御母様のお役に立てるのならば、私はいつでもこの身を投げ出し、千里の道を駆けましょう』
ニコラに彼の言葉の意味がわかったのなら、「今回は千里の道の80%オフくらいだけどなぁ」と割引率の計算でもしたかもしれないが、そんな野暮な声を上げるものは当然いない。
『ウィリアムス王子も、体調は問題ないようですね。安心致しました』
『はい。すべては皇后陛下の尊き御心と…このまだ幼い王子殿下の献身の賜物です』
ニコリと微笑んだウイリアムスに目配せされたフィリップだが、口元だけで微笑んだ表情を動かすことはなかった。
『二人ともさぞ疲れたことでしょう。こちらで歓待をと、申したいところですが…』
『いいえ、お忙しい御母様のお気持ちに、これ以上甘えるわけにはいきません。ウィリアムス殿下のご病状も案じられます。大変慌ただしく失礼とは存じますが、早々に出立させていただきます』
『まぁ』と眉を寄せる皇后にフィリップは微笑む。
『御母様とすぐに離れねばならないのが寂しいと、そのように申し上げたなら、聞き分けのない幼な子のようだと笑われるかもしれませんが…』
『あぁ、フィリップ。そんなことはありません。母もまた同じ想いですよ』
皇后はそう言うとフィリップの元まで歩み寄り彼を抱きしめる。慈しみ合い別れを惜しむ親子の構図としては、模範となるような美しさを二人は作りあげていた。だが実際のところ、当然彼らは本当の親子ではない。そして少なくともフィリップは皇后を母のようだと思ったことはない。
今回の彼らは、平たく言ってしまえば実行犯と元締めの、使われる側と使う側の関係であった。そういった関係性を、彼らは息子と母という属性にスライドさせた。清廉潔白であり、公人ではなく個人としての行いであるかのように。
するりとそれが成立するのは、確かにこの王子が常から皇后の愛し子として重用されていたからなのだろう。
母のために身を砕く息子という、自らに期待される役割を演じ切った王子は、皇后の腕の中で短く息を吐いた。
「あのさぁ、さっきの何?」
皇后への謁見を終えた一行は、足早に宮殿の長い廊下を歩く。
「愛しい息子と書いて、便利なパシリって読むんだよ」
ニコラの質問に短く答えたフィリップは、腰のサッシュベルトを外してクリストハルトに「ちょい持ってて」と渡している。「殿下」と咎めるように睨むクリストハルトに、フィリップはヘラリと笑う。「もうこれサイズアウトしてるよ。ピッチピチで苦しいもん」と、上着を脱いでそれも渡した。
「悪いけど時間が惜しい」と、そう言って二人を引き連れて歩くフィリップは急ぎ足のままで、足を止めることはもちろん振り向く様子もない。
「ウィリアムス殿下はどうすんだよ。置いてきちゃってさ」
「アレはこっちの人達とリール公爵子息殿に任せとけばいいよ。そもそも最初からそういうふうに決まってたんだから」
医師を派遣する前から、既にウィリアムスを保護することはほぼ決まっていた。ウィンドミューレン帝国と、コンフォート王国の二国間であらかじめ共謀されていたことだ。
ケンプフェン王国第一王子の保護という名目は、王族皇族の、国境を超えた麗しくも温かい支え合いのように見える。だが実情は、いざというときに使えそうな駒を二国間で共有しているに過ぎない。生意気な新興国の頭を押さえ込みたい大国による、心ばかりのささやかな嫌がらせ。そんなことの為に生かされているのが、今のウィリアムスだ。
この状況下での療養とやらは、ほぼ幽閉されているのと変わらない。だが、ウィリアムスは生き延びるためにわざとらしいくらい素知らぬふりをしてすべてを飲み込んだ。そういう彼の価値観を、フィリップは現時点ではおおよそ理解出来ないでいた。
置き去りにしたものを振り払うように歩き続けた彼は、一行の控え室として用意された部屋のドアを開けて、目的の人物を見付けた。
「随分とお早いですね。フィリップ殿下…ウイリアムス殿下のお姿が見えませんが、どうかされましたか?」
ユベールに声を掛けられたフィリップはそのままズンズンと歩きながら、「置いて来ちゃった。早く回収して…えっと、ランジュレ領の療養所だっけ?そこまで持って行っちゃって。よろしくね!」と早口で彼に答える。そしてソファに座っていたベルナールの腕をむんずと掴まえて引っ張り上げる。
「うわっ、なんだよ。どうした?」
「お義父さんは俺と来て。急ぐよ。もちろん、ジャンもね」
「は?いや、俺は患者について行くって言ったろ」と眉を顰めるベルナールではなく、ユベールの方を向いてフィリップは尋ねた。
「”帝国での協力者"とやらが、ずっと姿を見せないのはなんで?国に帰っているから?もしかして、その人が帰ったのは…アディの身に良くないことが起きたからじゃないの?ちがう?」
あまりに唐突で、質問の体を取ってはいるが確信を持った、そんなチグハグで不可思議なフィリップの言葉に、ユベールが思わず息を呑む。その反応だけで、それが根拠のないデマではないのだと周囲には伝わった。
「ウィリアムス殿下はユベール殿と帝国が総力を持って生かしてくれる。だから、俺たちは…」
フィリップが最後まで言い切る前に、ベルナールが立ち上がった。
「オラ!急ぐんだろ、行くぞ!っつか、足はあるのか?」
気ばかり急いだ様子で、歩き出そうとしたもののどこに行ったらいいかわからず振り返ったベルナールに、クリストハルトが冷静に答える。
「列車の席を確保しております。駅までは馬車を待たせてありますので、ご案内致します」
そう言って歩き出したクリストハルトを指して「ウチの子は気がきくでしょ!」と、誇らしげに鼻を膨らますフィリップの髪をグシャリと鷲掴みにしてから、ベルナールは急ぎ足で彼を追った。
コンフォート王国のヴォルテール公爵家の玄関ホールでは、帰省したシャルルが外套を脱ぐ暇も惜しいというように慌ただしく足を進めていた。
「アデライドは自室か?状況に何か変化はあったか?」
「最初のご報告時とほぼお変わりはなく…ですが精神的にはやや落ち着かれたようです」
冷静であろうとしながらも、“痛ましい”という感情を抑えきれていないプルストの返答に、「そうか」と短く答えてシャルルは階段を登る。ウィンドミューレン帝国にいたシャルルの元に、この侍従が電報を送って寄こしてからまださほど時間は経っていない。アデライドに起こった、突然の彼女の変化を知らせるそれを読んだシャルルは、気付けば取るものもとりあえず列車に飛び乗っていた。
「前兆は…そう呼べることは何かあったのか?」
「前日まで、ややお疲れのご様子でした。お誕生会のご準備でお忙しくされておりましたのと、睡眠不足が重なられたようでした。その為、早めのご就寝をとお勧め致しまして…」
「それで翌朝起きたら、“そう”なっていたと」
「…はい」
3階にある彼女の部屋に着くまでに、現状を再確認する。第一報から現在までに、わずかでも好転していて欲しいというシャルルの淡い期待に、現実は寄り添ってはくれないようであった。
アデライドの部屋の前には、侍女が待ち構えていた。門番のように佇む彼女は見覚えのある熊のぬいぐるみを細い腕に抱えており、思い詰めたような表情との間でギャップを産んでいた。
「お嬢様は現在、落ち着いておられます。ですが非常に不安定な状態です。恐れながら、どうか慎重に、ご配慮をお願い致します」
一介の侍女が公爵家の嫡男に対するには、やや無礼とも取れる発言であったが、シャルルもその傍に控えたプルストも娘を咎めなかった。
門番たるパメラが声を掛け、ドアを開ける。部屋のソファに腰掛けていたアデライドが振り返った。パメラの顔を見てわずかに微笑んだその表情が、シャルルの姿を認めた途端に固まった。驚愕から恐怖へと変化するそれを、シャルルは以前にも見たことがあった。
アデライドは以前のままの彼女であった。だが、あの日眠りにつく前の彼女とは、また違う彼女となっていた。シャルルを見れば笑顔を輝かせていた“最近“のアデライドは、そこにはいない。
今にも震えて泣き出しそうなアデライドが、何を思っているのかをシャルルは知っている。「熊みたいで怖い」と、本人の口から聞いたのは7年ほど前のことだ。当時のアデライドは、大きな体と威圧的な表情を持つ叔父を怖がって激しく泣いた。
潤む彼女の目が、現状を雄弁に語っている。今、この部屋にいる彼女は“現在”のアデライドの姿をしている。だがその表情からは、”過去”のアデライドが顔を覗かせていた。
「この子の名前はルンルンです」
その時、立ち竦んでいたシャルルに、パメラが手にしたぬいぐるみを押し付けるように渡して来た。まるで「怯むな」とでも言うように、ふわふわとした熊の短い手でシャルルの背を押す。
やはり無礼とも取れる態度であったが、誰もそれを咎める者はいなかった。いつの間にか、部屋の扉の周囲には使用人たちが集まって来ていた。皆、祈るような視線を、シャルルに向けている。
彼ら彼女らは、皆、アデライドの味方である。腕の中と背中に、信頼出来る友軍の存在を感じながら、シャルルはかつては苦手として逃げ出してしまった最愛の家族と、再び向き合うのだった。




