学園編の前に力を入れたことはなんですか?
女帝ことウィンドミューレン帝国皇后エーレンフリーダ及び、その娘ドラリーナと対峙したアデライドの背中には汗が伝っていた。いや、背中以外も発汗していた。
帝都の冬はコンフォート王国よりもやや寒さが厳しく、曇天の日が多い。だが、今日は珍しく快晴で、気温も高めだった。そこに来てこの温室は、室温が20度以上に保たれている。そしてダメ押しのように、目の前には湯気の立ちそうな紅茶が置かれた。
「アッツいですわぁ…!」と、ジリジリとした日差しが黒い髪を狙い撃ちしてくるのを感じたアデライドは、チラリと高貴な二人を盗み見る。彼女らはいい感じにヤシの木陰に収まっているうえに、見た感じこれまたちょうどいい感じの服装をしていた。一方でアデライドは、気を使った使用人一同により厚着をさせられており、彼女ら手製の可愛い毛糸の下着が、温もりを掴んで離さなかった。
『ヴォルテール公爵令嬢…いいえ、アデライド嬢とお呼びしてもよろしくって?』
口火を切ったのはドラリーナであった。「はい」と頷くアデライドに、彼女はニコッと笑ってみせる。
『私、生きているうちに聖女様にお会いできるなんて、ちっとも思っておりませんでしたのよ。だから今、とっても感激しておりますの。ね?お母様』
『ふふ、そうですね。コンフォート王国における聖女の伝説は聞き及んでおります。今日は、今代の聖女たる貴女の言葉に、大いに期待しておりますよ』
あ、もうそういう前提でお話を進めますのね…と、アデライドは他人事のように、どこか俯瞰していた。燦々とした太陽の光は、依然としてアデライドにのみ降り注ぎ、カッカと彼女の血液を沸き立たせて頬を赤く染めた。
『大変申し訳ございませんが、わたくしは、聖女ではありません』
はっきりと言い切ったアデライドの言葉に母娘は『まぁ』と声を上げる。
『アデライド様ったら、とっても慎ましくていらっしゃるのね。でも私達、貴女のことをちゃあんと調べましたのよ?7歳の子供が疫病の薬を作るなんて、聖女様以外のいったい誰にすることが出来ますかしら?』
『薬を使ったのは、わたくしではなくベルナール・アラン様ですわ』
一見、人好きのする笑顔を浮かべているドラリーナだが、アデライドの矢継ぎ早な否定にぴくりと眉が動く。
『その医学者を見出して支援したのはヴォルテール公爵と公表されていますが…実はそうではないと、私は聞いています。ウィンドミューレン帝国の皇后たる私が、虚偽の情報に踊らされているとでも?それも貴女の力ではないのですか?』
娘同様、腹芸をするつもりもないらしい皇后の直截な言葉に、アデライドは静かに首を振る。
『わたくしが公爵家の子女として力を入れたのは、皆様のお仕事が円滑にいくように支えることです。アラン様の元に実際に赴き、誠心誠意説明をし、障害となっていたものを取り除くことに注力しました。そこで、わたくしの家庭教師で、魔術師であるロワイエ伯爵との偶然の出会いもあり、開発は飛躍的に進むことになりました。こういった開発環境を整えることもですが、薬学に魔術を取り入れるという革新的な試みを、医療現場や市場に至るまで広く受け入れていただけたのは、ヴォルテール家が今まで王国において築き上げた“信用“という財産があってこそだと思います』
『それは…すべてはヴォルテール公爵家の力であって、貴女に聖女の資質があるわけではない…ということですか?』
『まぁ!ご謙遜が過ぎるんじゃあなくって?それじゃあまるで、貴女が何もしていらっしゃらないようですわ!』
つらつらと澱みなく話すアデライドの言葉に、尊き母娘がそれぞれの反応を見せる。語調にこそ差はあるが、言いたいことは二人とも変わらないようだ。
『はい。以前のわたくしは、家にこもって一人で過ごすことが多く、とても消極的な行動力のない子供でした。しかし、いつまでも祖父に守られているだけでいいのかと、このままで社交界の一員としてやっていけるのかと、不安を抱くようになり一念発起を致しました。それからは積極的にボランティア活動に参加し、医療現場や魔獣の森を訪問するようにしております』
太陽はいまや直上にあり、スポットライトのようにアデライドを照らした。彼女が胸に付けたイエローダイヤモンドのブローチがそれを受けてとろりと輝く。
『公爵家の為や社交界での存在感を増す為ならば、もっと別のやり方があったはずですよ。普通のご令嬢は教会での慈善活動や、自邸に招待してのお茶会などを開いているでしょう?』
『確かにおっしゃる通りです。しかし、わたくしの強みを生かすことを考えると、これがベストであると判断致しました』
『まぁ!大変、大変、慎ましくてらっしゃる貴女の強みってなあに?教えて頂戴な』
ついに剣呑な様子になったドラリーナに、アデライドは張り詰めた緊張の中でも穏やかに笑う。
『はい。わたくしの強みは、粘り強く一つのことに力を注げることです。しかし集中するあまり、思い込みが激しくなり視野が狭くなってしまうことがあります。こういったわたくしの性格は、大きな影響力を持つ聖女という職種に、相応しくないのではと考えました。大変恐縮ではございますが、聖女へのエントリーを辞退させていただきます』
そう言うとアデライドは胸元のブローチを外し、『こちらは真の聖女様にお贈りください。このお色味は、きっと聖女様にこそお似合いです。彼女の元でこそ、相応しく輝くことでしょう』と、万が一にも傷付かないよう丁寧にハンカチに包んでテーブルの上に乗せた。
『じゃあ貴女、帝国にいらっしゃいな。聖女では無いとおっしゃるなら、他国に嫁いでもなんの問題もありませんことでしょう?私たちは貴女の功績を、王国よりも評価していてよ?』
ドラリーナは理解を示すような言葉とは裏腹に、扇越しに見下すような視線をよこした。
彼女はまだマドレーヌやレリアと変わらない年齢であった。だが大帝国の皇女として、常に傲岸不遜であることを周囲に望まれている者としての、品格と威厳を感じさせる仕草であった。
『身に余るお言葉をありがとうございます。わたくしの第一希望はオンシャでございましたが、しかし、ヴォルテール公爵家の一員としてのキャリアを考え、真剣に検討した結果、今はまだ王国に尽くしたいと、決意するに至りました』
まるで事前に用意していたものを読み上げたような平坦な返答に、今度は皇后が慇懃に笑ってみせる。
『わかりました。貴女はあくまで聖女ではないと、そう仰るのですね。非常に残念ですが…それが貴女の意思であるのならば、仕方ありませんね』
『皇后陛下のお心遣いに深く感謝申し上げます』
ぺこりと頭を下げ、ほっとしたような表情を見せたアデライドに、だが皇后は言葉を続けた。
『しかしながら、娘の言うように、私たちが貴女を、聖女の如き才を示す者として評価していることに変わりはありません。世界の平穏を保つのは、我が帝国の使命にして、存在理由そのもの…それ故に、ウィンドミューレン帝国皇后エーレンフリーダの名において、ヴォルテール公爵家に協力を求めます。この要請を受け入れてくれるならば、私は貴女の主張を、貴女の望むままに認めましょう』
『誉あるお言葉を賜り、光栄の至りでございます。コンフォート王国ヴォルテール公爵家の一員として、大変僭越ながら我が王国の許す限り、陛下のお力となれるよう、努めさせていただきたく存じます』
『頼みますよ。これからも共に、努めていきましょう。次に会える時を楽しみにしています』
『本日はお忙しい中、お時間をいただき誠にありがとうございました…失礼致します』
少女はそう言うと、まるで男性のように、スカートを摘むこともなくピシリと背筋を伸ばしたまま礼をした。そしてドアを自ら開けようとしたため、控えていた者たちが慌ててそれを制した。
皇宮の使用人たちに礼を言いながら温室を出た少女は、ドアが閉まると急に立ち止まり、顔をしわくちゃに歪めた。これにも慌てた近衛の制服を着た青年が歩み寄ると、なぜか彼の存在に少女は大仰に驚いた。どうやらこの少女は、今ここに自分一人しかいないものと思っていたらしいと気付いた青年は、更に重ねて驚いた。他国の高位貴族のご令嬢を一人で帰すわけがないだろう、と。
彼はつい先程まで、温室の中で皇后陛下に謁見する少女を見ていた。ここのところご無沙汰だった陽光は、少女の豊かな黒髪を、黒目がちな瞳を、薔薇色の頬を、赤く艶めくドレスを、丹念に照らし、仕上げとばかりにその胸に乗せた黄色い宝石をゆるりと蕩けさせた。まるで彼女だけをこの世界から選別し、格別に愛するかの様に。
だが今こうして近くで見ると、ブローチという鮮やかな差し色の無くなったせいか、ドレスの深い赤色が茶色くも見えるうえにベルベット生地であることも手伝って、実家の畑に出た妙に毛艶のいいアナグマを彼に思い起こさせた。その後ヨタヨタと歩きだした少女の姿は、地表に出てきたモグラの姿を彼の記憶から呼び覚ました。知らぬ間に害獣たちの残像を重ね掛けされた少女は、懸命に巣を目指すように帰路についた。
「アデライド!」
太く大きな男性の声が響いた。青年がそちらに気を奪われた一瞬の内に、少女は走り出していた。貴族令嬢が無作法だ、などと考える暇を与えないほどの瞬発力を見せた少女は、そのまま勢いを殺すことなく男性に抱きついた。ドウッ…という音が辺りに響いて、静かに少女は停止した。
微動だにせず少女を受け止めた男性の姿に、青年は瓜坊を捕まえた祖父の姿を重ねるように思い出していた。ずっと忘れていたのに、実家に出没した動物たちの姿がこの数分で立て続けに脳裏に蘇って来て、彼は久々に帰るべきだろうかとそんな場違いな思い付きに気を取られた。
「叔父様…わたくし全然、喋れなくて…」
「いい。大丈夫だ。たった一人であのお人らの前に出されたんだ。辛かったな…お前はよくやった」
『それなりにペラペラ喋ってましたよ』と、そういう言葉を青年は心の中に留めた。
「ヴォルテール公爵家は帝国に協力すると、約束して来てしまいました…」
「大丈夫だ。あの爺はなんとかするし、むしろ帝国を利用する機会とすら捉える」
『そうなんだ。ていうか、まだここ皇宮なんですが、そんなこと言っていいのかな』と、青年は声に出さずに会話に参加する。
「そんなことより、腹も減っただろう?カフェの席をとってある。今から一緒に行こう」
「まぁ…まぁ!叔父様とご一緒に?!よろしいのですか?」
あんなにシワシワとしていた少女の顔が、今は喜色に染まってぴかぴかに輝いている。
「美味いケーキを出す店をヘンケルから聞いておいた。今日はいくらでも食べるといい」
「叔父様ったら!わたくしこれ以上太ったら、まんまるになってしまいますのよ」
『なるほど、今もなんとなく丸い感じがするから動物を連想させるのか』と、彼は少女の言葉から、自分の不敬すぎる印象に免罪符を与えられたような気分になっていた。
すると大柄な男は少女の前で少し屈むと、その膝裏に手を入れてヒョイと抱え上げてみせた。そして突然のことに「ヒェッ!」と声を上げた少女を腕に抱えたまま、その場でくるりと一回転した。
「なんだ、軽いじゃないか。これならもっと太ってもいいぞ」
「叔父様がとってもとっても力持ちなだけですわ!普通の人にとっては重いんですのよ!!」
「じゃあお前は俺より力持ちな男が現れるまで、嫁に行かなくていいぞ。俺が面倒を見てやるからな」
「もう!叔父様ったら!」と言って笑う少女を、大切そうに抱えたまま男は去っていった。その様子を見送った彼は踵を返す。彼にはまだ報告という仕事が残されていた。
『ふふ。大事にされてらっしゃるのね』
『でもちょっとお呼び立てしただけで、まるで災害にでも遭ったみたいにおっしゃるのはやるせないったらないわ!私たち、お話をしたかっただけですわよね?』
近衛の制服を着た青年からの報告を受けた皇后が、扇の影で笑みを漏らす。ドラリーナも軽口を叩いてはいるが、悪感情はない様子で手付かずのまま残された菓子を摘んでいた。ふふふと笑う母娘を前に、テーブルに置かれたままになっているイエローダイヤモンドは、ヤシの木陰に入って先ほどまでの輝きを失っていた。
『あの方、まるで本物の聖女様を見知っているかのような口ぶりでしたわ。“聖女様にこそお似合いでしょう“ですって!』
『…今はこれで充分でしょう。必要な言葉は引き出せました。これからも、彼女の監視を続けていきましょう』
『あら、違ってよ母様。“これからも、彼女との親しいお付き合いを続けていきましょう“ですわ!』
含み笑いで娘と目を合わせながら、それにしても、と皇后は思案する。あの少女は『恩赦を第一に志望する』と確かに言った。あの場では、皇后の言葉を否定する無礼に対し、温情を求めているかと考えた。だがしかし、もしも、他に意図するところがあったならば…と、思索の深い沼に落ちそうになった彼女は、静かに首を振る。
大帝国の皇后である彼女には、考えても仕方ないことに割く時間はない。穏やかな表情のまま、皇后は使用人に指示して、手紙を書く準備を始めた。その宛先はコンフォート王国のヴォルテール公爵と、ケンプフェン王国の第一王子であった。
温室の中で直射日光に晒されたアデライドの頭は、熱を集め過ぎて一部シャットダウンしていた。その際に彼女を突き動かしたのは、前世の記憶であった。
散々に練習した面接の記憶は、緊張で震える彼女を確かに支えてみせた。
「例えそうじゃなくても面接官にはね、御社が第一志望ですっていいましょうね!内定辞退するときにもね!」
かつての学校職員の言葉が、鮮やかに蘇る。恩義ある彼らに、今では伝えるすべもない感謝を心の中で呟きながら、アデライドはホワイトチョコレートの真っ白いケーキを頬張っていた。




