小さな池の、木の下で
「ざまぁでしたわ」
歌劇を見終わったアデライドの最初の感想はそれで、しばらく経っても変わらなかった。
おおまかなストーリーは、女性に対して不誠実な主人公の男性が、行く先々で犯罪行為とナンパを繰り返し、最後は突然現れた神様的な何かに文字通り地獄に落とされるというものだった。
楽曲もオーケストラの生演奏も素晴らしく、役者さんの歌声は人類の最高到達地点と思ってしまうほどに美しかった。
だが登場人物の行動原理がアデライドにはまったく理解できなかった。終始、飲み込みきれないほどの違和感を無理矢理口に捩じ込まれているような展開だったため、終盤は疲労すら感じてただぼんやりと眺めていた。
ふと隣を見ると、シャルルが目元を押さえて俯いていた。なにかを深く思案しているようなその姿に、叔父は自分などより余程感受性に恵まれているのだろうというアデライドの身内贔屓が発動した。彼女は手帳を取り出すと"叔父様は芸術に精通しておられますわ”と出典が主観だけの情報を書き付けた。
「あの、叔父様、わたくしお手洗いに行ってまいりますわ」
「…ああ」
歌劇の余韻に浸る叔父を邪魔しないように、アデライドは小声で話しかけて静かに席を立った。
劇場内に護衛の2人は入れなかったので、アデライドは一人で歩き出す。常々「一人になるな」と噛んで含むように皆から言われていたが、こんな立派な劇場内で危ないことなど起こらないだろうと、そろりと廊下に出ていった。
一方でシャルルは、歌劇の内容に精神を打ちのめされていた。ただそれはアデライドが思うような高尚なものではなかった。主人公の行動に、過去の自分の所業が重なって見えたせいだ。
行く先々で美しい女性とみるや声を掛けるだらしなさ。自分はもちろん相手側のパートナーの有無もまるで問題としない倫理観の無さ。犯罪行為こそしないが、その辺りにはひたすらに身に覚えがありすぎた。
上演中、思わず目を逸らした彼は、隣に座る姪のきょとんとした、他者の欲望などまるで理解していないような顔を見て、ますます自己嫌悪を深めた。
もし、もしも、こんな主人公や自分のような性質の男に、この姪が目をつけられたら…そう考えると怒りと絶望感でどうにかなりそうだった。
ほんの少し前までの自分の愚かさに目が眩んでいた彼は、姪が忽然と姿を消したことにしばらく気が付けなかった。
人が一人、行方不明になる。
市井の一平民ではそれなりによくあることだが、貴族においては珍しく、実行するのは難しい。だが今、普段は堅牢な屋敷の奥深くに仕舞われている少女が、無防備に一人で歩いている。このタイミングを見送れというのは無理なことだと、彼は自身の良心に蓋をして獲物に接触した。
「こんにちは。どうなさいましたかレディ?…迷ってしまいましたか?」
ニコリと笑って話しかけると、黒い豊かな髪を揺らして少女がこちらを振り向く。そして少年の顔を見て、息を呑んだ。
少年にとっては見慣れた反応だった。父に似なかった彼は、中性的な整った細面に、印象的な美しい虹彩の瞳を持っていた。その稀有な色は他人の記憶に残りやすく、彼自身はあまり好きではなかったが、女性にはとてもウケがいい。そういう自分の武器を自覚的に用いた彼の笑顔を、少女が凝視している。
聖女といえど、こういう反応は凡百の女子と同じかと密かに落胆しながら、彼は悪巧みを進めるために彼女のすぐ横に近づいた。
「僕がご案内いたしましょうか?」
「ありがとうございます。でも叔父と一緒に来ておりますの。ですからどうか、お気になさらないでくださいまし」
ただの親切心であるかのように優しく誘う少年に対し、少女は躊躇いながらも断って立ち去ろうとした。
「閉幕から時間が経っておりますから、もう馬車でお待ちかもしれません。僕たちも出口に向かいましょう」
「ですが…すれ違いになってしまうと困りますので…」
「大丈夫ですよ。僕が一緒にお探ししますから。さぁ、お手をどうぞレディ」
そう言って強引に差し出した彼の手を、取ることは疎か見ることもせず、その顔を凝視しながら少女は震える唇を開いた。
「…紳士Aが時速60kmで500km先の目的地に出発しました。淑女Bが30分後に時速180kmそれを追いかけました。淑女Bが紳士Aに追いつくのは何分後でしょう」
「…え?」
淡々と、聖典を諳んじるように少女の口から紡がれた言葉は、策略に集中していた少年の思考を、一瞬吹き飛ばした。彼の感じた戸惑いは「単位を…間違えていないか?」という言葉になって表れた。
普通に聞けば、常軌を逸したスピードで行われる紳士淑女の追跡劇のようだが、聖女と目される少女が言うことだ。何かの啓示を含んでいるのではないかと考えて、少年はハッとした。500kmというのは、ここ帝都から彼の国の首都までの距離とほぼ同じだ。自分が拐われていく場所を、何らかの力で悟ったのかと。そう思索していた少年の耳に、また少女の小さな声が聞こえてきた。
「丸い池の周りには道があり、その長さは500mになります。少年Aと少年Bは、道の同じ地点から同時に歩き始めました。少年Aは1分に60mの速さで池の周りを歩き、少年Bは少年Aとは反対方向に、1分に40mの速さで歩きます。少年Aと少年Bは、何分後に出会いますか」
今度は人間離れをしていない、普通の少年たちの話になった。先ほどは間違えただけかと、ほっと息をついた彼は、だが内容を咀嚼するうちに拭いきれない違和感を覚えた。
なぜ、少年たちはその池の周りを歩いたのか_?
なぜ、共に歩まずに、別方向へと向かったのかー?
不可解な行動をとる彼らは、束の間の、5分間の別離の後に、再び出会う。
小さな池のほとりで演出される、予定調和の邂逅。
彼らはそこで、互いに何を思うのだろうか_?
少女の作る物語は常に不思議で、彼はそれが何を示唆しているのかを必死に考えていた。
「時に、わたくしたちは道のりを求めなさいと、そう促されることもありますわ」
道のり_人生の道程。自らの生き方を振り返り清算せよと、神は仰っておられるのか_少年はその言葉の重さに身を固くした。
「しかし、恐れることはありません。教えの言葉を唱えれば、自ずと解は導かれましょう」
少女の確信に満ちた物言いに、彼は飲み込まれそうな迫力すら感じていた。
「心のうちで、唱えてくださいまし。木の下に…」
「木の下に…」
「禿げたじいさん」
「ハゲ…えっ?」
突然、躍り出てきた俗っぽい表現に、少年はぽかんと口を開けた。
「抵抗を感じるのはわかりますわ。このような言葉に頼りきってしまうのは邪道だと、そう思われているのでしょう」
少年の反応を目にした少女は優しく微笑んで、慎重に言葉を選ぶように話す。
「ですが…すべての人間が、問題の本質を理解できる訳ではない。わたくしは、そう思うのですわ」
人の愚かさを知りながら、それを受け入れて包み込もうとするような寛容さを、少女は見せようとしている。
_彼女の言葉をすべて理解することは出来ないが、彼はそう感じて押し寄せる感情に、思わず目を閉じ顔を伏せた。
そのとき、廊下に重い体重の乗った革靴の、ガツガツという足音が響いた。
「アデライドッ!!」
額に汗を浮かべた大柄な男が、少女目掛けて一直線に駆けてきた。彼は彼女の肩に大きな両手を置くと、安堵の息を吐き出しながら抱きしめた。
黒く硬い髭ともみあげが、アデライドの柔らかい頬にチクチクと刺さる。ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる丸太のような腕が、苦しいけれど温かい。アデライドは膝をついた叔父の背にそっと手を回した。
劇場の座席で物思いにとらわれていたシャルルは、隣にいたはずの姪の姿が忽然と消えていることに気がつくと、すぐさま立ち上がって走り出した。
その勢いに周囲の人間は驚いて道を譲ったが、しばらく走ると人の姿も見えなくなった。不自然なほどに静かな区画は、係員の気配すらない。まるで誰かが人払いをしたような、そんな空間にシャルルは血の気が引いていくのを感じた。
焦りと不安を振り払うように走った彼は、静かな廊下に求めていた人影を見出して駆け寄った。驚いた顔で見上げるアデライドを、気づくと彼は力を込めて抱きしめていた。彼女は苦しそうにしながらも解放しろとは言わず、シャルルを慰める様に優しく背中を撫で続けた。
「お前はっ!一人で出歩くなと言っただろう!聞いていなかったのかっ!?」
しばらくして落ち着きを取り戻したシャルルは、まず叱ることにしたらしい。アデライドは「申し訳ありません…」と呟いて、身を縮こませた。
「…ずっと一人だったのか?怪しい奴が近付いて来たりはしなかったか?」
少しトーンダウンしたシャルルに問われて、アデライドは先程までここに少年がいた事を思い出した。
「わたくしと同じ年頃の少年に、声を掛けられましたわ」
「…そいつの特徴は?」
「瞳が…紫色でしたわ」
アデライドは、その色を見てハッとした。赤と青の混ざり合う、夕焼けと宵闇の間の、瞬きの時間を切り取った様な美しい色。それはランベールよりも、少しだけ早い時間の空を思わせる様な赤みを帯びていた。
「紫か…」そう呟いて、シャルルは眉を寄せた。それは稀にしか見ない色であり、特定は難しくないかもしれない。しかし同時に、シャルルは同じ色の瞳を持った姪が度々名前を出す男の面影が頭をよぎり、理不尽にも苛立ちを覚えていた。
「ランベール先生を思い出しましたわ…」
シャルルがいま考えたばかりのことを、アデライドが呟いた。俯いて笑顔の消えた姪を見て、彼は心の内で一度しか会ったことのない男を罵った。
「宿題が出ていたことを忘れておりましたわ…」
声には出さなかったが、彼女にとって最も重要なポイントはここだった。
ランベールに師事してから今に至るまで、アデライドはきちんと動く魔術式を書くことが出来ないでいた。その原因を考えに考えたランベールが出した対策が、“基礎から勉強をやり直す”だった。
なぜか算数を教え始めた彼に、ランベール先生のような優秀な研究者にここまでしてもらうのは申し訳ないとアデライドは伝えた。それに対して彼は薄く笑い、「他の副業は辞めてこちらに注力しますので問題ありません」と告げたのだ。
アデライドはここ数年の経験でなんとなく悟った。恐らく自分の家庭教師の仕事が、他の副業とやらよりも実入がいいのであろう事を。黙って問題を解き始めた彼女のノートを見守るランベールの顔は、不可解と不機嫌のグラデーションの間をシャトルランするような様相を見せた。
「なんですかその解き方は…。アデライドお嬢様、速度を求める計算はこれから先解く事になる多くの問題で使用していくのですよ?それをそんな公式頼みで覚えてしまったら応用が利かなくなります。理解出来るまで教えますから、プロセスをきちんと理解して下さい」
珍しく真っ当な教師の様な事を言うランベールの表情は、アデライドの覚え方を聞いていよいよ不快という方面に舵を切った。
「…は?貴女は公爵家のご令嬢でしょう?何ですかその妙な語呂合わせは?距離と速さと時間を覚えるのにそんなものは必要ありません!今すぐやめなさい!」
ランベールの怒りに触れた事を思い出して落ち込むアデライドを見て、シャルルの深めた誤解と怒りの矛先がランベールに向く事を、アデライドが理解することはこの先もないのだった。




