聖女の恩恵
昨夜から猛烈に降った雨は、勢いを落としたもののポツポツといまだに降り続いている。この町では荷馬車が通らない道のほとんどは舗装されておらず、ぬかるんでまとわりつく泥に不快感と足を取られながらユベールは歩いていた。しばらくしてたどり着いた建物の前には、ちいさな人だかりができていた。
「ここで靴の汚れを落としてから中に入ってください!あ、そんな感じです!いいですね!」
聞き覚えのある元気な声が響く。ボルドーの詰襟の上に白衣を着た青年はユベールの姿を見つけると、笑顔でまた同じようなセリフを繰り返した。
「聞こえてたよ。えっと、君は確か…」
「ポールです!」
「…ヴォルテール家の護衛騎士だよね?なぜ君がここに?」
「案内が必要だからです!お嬢様は奥にいますよ!」
言外にだが明らかに本来の職務が遂行出来ていないことを責めたユベールに、ポールは朗らかな笑顔でてらいなく答える。脱力したユベールはそのまま何も言わずに中に入った。
「次は、アンさん…お住まいは山の端で…エッ、違う?森の端?アッ、スミマセン。そうでしたわね。今日はお注射になりますわ。…エッ、アッ、大丈夫ですわ、わたくしもしましたから、ハイ、死にませんわ。生きておりますので、このように」
「アデライド!これ、消毒に回してくれ」
「アッ、タダイマ!…アッ、エッ?怖くありませんわ。お母様もお近くにおられますわよ。エッ…わたくしも側で見ていて欲しい?アッ、エッ、どうしましょう」
即席の診察室はカーテンのように垂らした布で仕切られていた。中では白いお仕着せを着たアデライドが、泣きだした小さな子供を前にオロオロとしている。ユベールが見回していると注射器を持ったベルナールとバチリと目があった。その視線に嫌な予感がする前に大きな声を掛けらる。
「ユベール、暇そうだな!お前も働かせてやるぞ、喜べ!」
何をもって喜べというのかはわからないが、すでに準備をしてきていた彼は粛々と仕事を始めたのだった。
すべての診療が終わり患者も帰って行った。片付けも終えてがらんどうになった部屋ではアデライドが残った椅子にぐったりと座り込んでいる。外からは雨の降る音がザアザアとうるさく響いていた。
「よく頑張ったなぁ、えらいぞ!さすがうちの長女だな!」
「他人ですわ。わたくしはまた、あまりお役に立てませんでしたわ…」
ベルナールにワシワシと撫でられてアデライドは頭を左右に揺らしていた。きっちりとツッコミを入れてはいるが、じめじめと落ち込んでいる様子だ。
ランジュレ領での診療は今回が初めてではなく、すでに幾度か行われていた。ノチフ病の治療は地元の医師たちに任せられるようになったが、今回は新しく開発したワクチンの接種のために地元の集会所を即席の診察室としていた。
アデライドたちは今日、事前にアレルギーテストを受けた子供達のうち、陰性反応を示した子供達にワクチンの接種をするため来ていた。だが昨夜から激しく降った雨で応援の人員が呼べず、非常に忙しい1日になってしまった。
「べぐしぶっ!」
雨のせいか夏だというのに気温は低く、アデライドが派手にくしゃみをした。上着を貸そうとしたユベールの先手を打つように、ベルナールが白衣をばさりと彼女に被せた。
「お前はお前で頑張ってんだからいいんだよ。これからもパパがいろいろ教えてやるからな。安心してまかせとけ」
「他人でずわ゛…でも、ありがどうございまず」
このなぜか公爵令嬢の父親を詐称するアラサー男性と、ユベールが会ってから早数ヶ月になる。
初対面の印象は互いにかなり良くなかった。貴族のお坊ちゃんである自分に対し良い感情を持たない相手へ取り入る為、ユベールが取った手段は友人を売ることだった。学生時代のランベールのエピソードを切り売りするうちに、相手からの当たりはだいぶ柔らかくなった。調子に乗って少し話しすぎたかもしれないがそれもまた一興であろう。ユベールは「俺には害は無かったよ、ランベール」と心の中で思うに留めた。
「ユベール様は小さなお子様たちをおもてなしするのがとても上手でらっしゃいますわね。わたくしだけだったらパンクしておりましたわ」
アデライドに話しかけられて振り返ると、ユベールはキラキラした目で見つめられていた。
アデライドは子供の相手が上手くない。コミュ症であるのと、舐められやすさがあるせいで、ヤンチャな子からは絡まれ、大人しい子には泣かれたりすることが多かった。ユベールが来てからは受付がスルスルと進むようになったので、アデライドは雑務担当になって走り回っていた。
「学生時代に子供の相手をするバイトもしてたんだよ。その経験が生きたかな」
そう答えるユベールにアデライドが「まぁ!」と感嘆してますます目を輝かせる。
「ダメだぞアデライド、こういう男は。こいつは結婚には向かないタイプだ」
「何を仰っておりますの」
ベルナールの言い草に、割とその通りだなと思いつつもユベールは話題を変える。
「でもアディちゃん。このアイデアはいいと思うよ。便利だねこれ」
ユベールが小さなノートを手に持って見せる。彼の手の平ほどの大きさであえるそれは、アデライドが自宅の倉庫から大量に持ってきたものだ。
年末に屋敷の大掃除を始めたアデライドのもとに、若い使用人たちが倉庫で大量に死蔵されているものがあると報告してきたのだ。ヴォルテールの紋章が表紙に記された小さなノートのようなもので、端に穴が開けられて細長い紐がついていた。中を見ると白紙だったので何かに使えるのではと思って取っておいたものだ。
「この集落の人間は同姓同名が多いし戸籍の管理も朴訥だ。でもこういう手帳をそれぞれに配って受けた診療や与えた薬について書いておけば間違った治療をしなくなる…うん、いいね本当に」
「それは俺も思った。カルテの管理もこうごちゃごちゃしてると難しいしな」
「エッ、あの、そう言っていただけると嬉しいですわ」
不意に褒められたアデライドは嬉しそうに口元を緩ませたが、ユベールと目が合うと慌てて唇をムニムニと噛んで真面目な顔を作ろうとして失敗している。その様子にもう一押し出来るかなとユベールが続ける。
「普通はなかなか出ないと思うよ。余ったダンスカードをこんなふうに使うって発想はさ」
「「ダンスカード…?」」
「…え?あれ、知らなかった?」
不思議そうに聞き返す二人に、ユベールが説明をする。ダンスカードとは舞踏会であらかじめ誰と踊るかを書いておく予約台帳のようなもので、これはヴォルテール家主催の舞踏会で参加者に配る用途で作られたものだろうと。今はそうでもないがひと昔前は必須のアイテムで、みんな身につけながらダンスしたのだと話した。
「まぁ、そうでしたのね」
「いやお前んちのだろ」
「だってもうずっとうちは舞踏会などしておりませんし…わたくそういうの参加したことありませんし…参加したとしてもダンスなどできませんし…」
アデライドは巻き戻しの舞踏会では王子の婚約者として彼としか踊らなかったし、お偉方への挨拶を終えたら放置されて壁の花というよりビタイチ動かない様はもうほぼ壁紙のシミであった。
手帳が必要なほど予約が殺到するダンサブルな陽キャ文化など知る由もない。嫌な記憶を呼び起こされた彼女は、さっきまでの機嫌の良さは霧散してしまい唇を尖らせている。
「では、私にリードさせてくださいレディ」
気障ったらしい仕草で俯いたアデライドに差し出したユベールの手を、ベルナールがベチっと叩き落とす。
「うちの子はお前みたいなのとは付き合わせねーよ!」
「…そんなに過保護にしてたらさ、彼女の婚期が遅れるでしょ」
「無理にヤバい奴と結婚なんかしなくても、うちで面倒見るからいいんだよ!」
胸を張って言い切る父性自認男性にアデライドが困った顔を作ろうとするが、また失敗したようで唇をムニムニとしている。
しばらく観察するようになって、当初はよくわからなかったアデライドの心の機微が、実は手に取るようにわかりやすいことにユベールは気が付いた。なんだかんだ言いつつもベルナールには懐いているようだ。だがひとつ、どうしても理解出来ないことがあった。
「てかさ、じゃあなんでランベールは許してるんだよ」
「あいつも…っつーか、あいつが一番ダメだよ!」
「だよね」
なぜあの打算しか見せない友人に彼女が尽くすのかは、今ひとつわからないままである。それは誰の目を通しても同じであるようだ。
「お話し中すみません!やっぱり雨のせいで馬車は無理っぽいみたいなんで、今日は宿に戻るのは無理っぽいです!」
「そんなに無理っぽいんですの?」
「はい!かなり無理っぽいので、今日はここに泊まっていただくしかないですね」
「まじか。まぁ、シーツの類ははたんまりあるから布団代わりにはなるか。お前は大丈夫かアデライド?」
「わたくし平気ですわ!」
ポールの言うように夕方から再び激しく降り始めた雨で視界もきかず、近くの宿に戻るのも難しかった。今日中に帰ることを諦めた一行は即席の寝床を作り始めた。公爵家のご令嬢が男と雑魚寝とかいいのかなとユベールがチラリと目を向けると、アデライドはポールと楽しそうにシーツをいじっていた。ただの子供にしか見えないその姿に、ユベールはまた深く考えることをやめたのだった。
夜中に目を覚ましたアデライドは何度か寝返りを繰り返したが、諦めてむくりと身を起こした。
個室も仕切りもないうえに手狭な集会所で皆が寝転がっている中、窓際にユベールが立っているのが見えた。
「どうしたのアディちゃん。まだ時間があるからもう少し寝ておいたら?」
「ユベールさんは…」
「この辺は治安にも不安があるし、見張りだよ。一応ね。ポールひとりじゃ大変だから、交代でね」
「まぁ、ありがとうございます…」
会話が続かずに気まずさを感じているアデライドに、「眠れないなら、少し話し相手になってよ」と、ユベールが椅子を勧める。
おずおずと座ったアデライドは窓の外に目を向ける。もう雨は止んでおり、雲間から覗いた月が明るく輝いていた。
「アディちゃんはさ、なんで今回手伝ってくれたの?」
アデライドはこの町にある縫製工場の寮に住む工員たちのみならず、町の住人の治療費を負担することを申し出ていた。それは薬代だけではなく人材も込みで、こうして自分も働きに来ていた。
「エッ、アノ…お茶会の時にユベールさんがそのように仰ったので…」
「えっ?それだけ?」
「エッ?アッ、ダッテ…ハイ…」
2人はしばらく顔を見合わせていたが、ユベールが口元を押さえて肩を揺らし始めた。
「いや、フフッ、そっか、そうだね。確かに俺がそう言ったよね。ブハッ、アハハッ!」
そんなユベールのリアクションに、内心「なに笑とんねん」と思い真顔になったアデライドが苛立ちのまま話し始める。
「あの、差し当たってご協力しましたのはノチフ病に関してのみですし、ワクチン接種のデータもちょうど欲しかったところでしたの。我が家主導でゆくゆくは王国民全員に接種していただきたく思っておりますので。だからこちらにも利のあることですわ!」
「ふーん、そっか」
人を食ったような笑顔のままのユベールに、アデライドはいつもランベールが彼をぞんざいに扱う理由がわかった気がした。
「アハハッ、怒った?ごめんね」
「怒ってなどおりません。こちらとしても予定通りですわ」
言葉とは裏腹にツンツンとした口調のアデライドにユベールが苦笑する。
「でもアディちゃんのおかげでここの健康問題は解決しそうだよ。あとは工場と、町の管理の問題だね」
この町の工場では地元の困窮した人々はもちろん、よその地方から身売り同然でやって来た者たちも劣悪な環境で詰め込むようにして働かされていた。その多くは子供のような年齢で、労働時間も国の法規を守る素振りすら見せず、人の出入りは管理していないというより、あえてされていないような状態であった。
「この町の管理者はランジュレ家の縁者だったみたいでさ、違法行為に目をつぶるどころか、積極的に便宜を図っていた。だから後任はね、ここの住民たちに選挙で決めてもらうよ」
「まぁ、そうなんですのね」
「君は驚かないんだね」
「エッ…?だってその方が平和そうですわ。民主的でよろしいのでは?」
一瞬の間の後、「民主的で良い…か」と、呟いたユベールの目がアデライドを見据える。
「それは、民衆による政治を望むということ?王家への叛意とも取れるけど…君は何を目的としている?」
今度はアデライドが息を呑んで口をつぐんだ。ユベールの瞳からは何も読み取れないが、自分がまずいことを言ってしまったというのはわかった。
唯一、クリスティーヌと似ている水色の瞳がアデライドを見下ろしている。都合の悪いことに、夏の月明かりでも互いの表情ははっきりと識別できた。
混乱したアデライドは、場違いにも同じようなシチュエーションがランベールともあったことを思い出していた。あのときは月の光に照らされた紫の瞳の美しさにただ感心していたが、今は底の見えない水色の瞳に恐ろしさを覚えていた。
「なぁ〜に大袈裟なこと言ってんだよ。頭寝てんのかぁ?」
急に頭の上に重量を感じると同時に、間延びした声が聞こえてきた。いつの間にか後ろにいたベルナールがアデライドの頭をぐしぐしと撫でる。
「こんな片田舎の町長如きの話で、謀反の気配有り!成敗!とか誰も思うわけないっつーの、アホか」
「アホって…酷いな。そこまで言う?」
「酷くねぇよ!うちの娘を脅すような奴がアホじゃなくてなんなんだっつう話だよ!」
「他人ですわ」と言いながらもホッとひと息ついたアデライドの耳に、「みなさん寝ないんですかぁ…」というポールの眠そうな声が届いた。
「ほら、もう寝ろアデライド!明日は別の場所で働くんだからな」
ベルナールは言うや否やアデライドをシーツでぐるぐる巻きにすると、「ヒエッ、なんですの!なにをなさいますの!」と言って抵抗する彼女をポールに引き渡した。陸に上がった魚のようにビチビチ跳ねていた彼女は、しばらくすると諦めたのか大人しくなっていた。
ユベールに近づいたベルナールが声を落として睨みつける。
「お前な、あいつを変なことに巻き込もうとするなよ」
「どうしたの急に、真面目な顔してさ」
「あいつはただの子供だ。確かに金と家の力はあるがな、あいつ自体は今日診たそこらのガキどもと大して変わらねえんだよ」
「いや、そんなことないよね」
いつになく真剣に言い募る様子に、ユベールが鼻白む。何のスイッチが入ったのかと考える彼を突き放すように、ベルナールは背を向けた。
「そんなことあるんだよ。お前は寝ないでそこで考えとけ」
そう言うとさっさと自分は寝てしまったベルナールを見ながら、アデライドの座っていた椅子に腰掛けた彼は口の中で呟いた。
「自分はしっかり恩恵受けてる癖にさ、狡いだろ」
誰も聞いていないその言葉は、夜の空気に溶けていった。




