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アデライドに手を引かれて連れてこられたのは重厚な扉の前だった。その威圧感に尻込みするロワイエをアデライドは中に引き摺り込んだ。
「お祖父様ぁ~おかえりなさいませぇ。アディはずうっとお待ちしておりましたぁ」
今し方着いたばかりのようで、侍従長に上着を渡していたレオポルドが苦笑いをしてそれを迎える。
「ただいまアディ…おや、今日はずいぶんと可愛らしい格好をしているじゃあないか?」
「本当ですかぁ~せんせえがいらっしゃるのでぇ頑張って可愛くしてもらいましたぁ~うふふ」
ニコニコしながらアデライドは自室からずっと握りしめていたロワイエの腕にギュウっとしがみついた。身長差がかなりあるので、その姿は木にぶら下がる子グマのようだった。
「ほう、先生か」
そう呟くと執務用の椅子に腰掛けたレオポルドの視線がロワイエを捉えた。
「はい!こちらわたくしの魔法学のせんせえでぇランベール・ド・ロワイエ伯爵と、その侍従のニコラさんですぅ」
ロワイエの近くでニコラが本当に従者のような体で礼をしていた。ここにくるまでの廊下でプルストと何か相談していたのはこれかとロワイエは内心舌打ちをする。そのニコラに見えない角度から背中を小突かれて、ロワイエはハッとしたようにレオポルドと向き合う。
「この度は公爵閣下の貴重なお時間を戴き面会の機会を賜りましたことを、心より感謝申し上げます」
「そう堅苦しくしなくてもいい…孫が迷惑をかけているようですまんな」
「お祖父様ったら、ひどぉ~い!ね、せんせえ、わたくし迷惑じゃないですよね?せんせえの授業はぁ、すっごい頑張ってるんですよぉ?」
アデライドがしがみついたまま上目遣いで訴えてくるのにロワイエは動揺した。こんなにトーンが高く鼻にかかった声を出すのを聞いたことがない。場所がここでは無かったら、何か悪いものでも食べたのかと聞きたいくらいだった。
「あ…はい、そうですね。努力家で学習への姿勢が素晴らしいと思います」
「えぇ~嬉しぃ~!頑張ってるのわかってくださるのホントすごい嬉しぃですぅ~!」
アデライドが両手を顔の前で広げてぴょこぴょこ跳ね始めた。大きく動きつつも顔の横に置いた手の角度は揺るがない。そこに強い意志を感じるが、意図が読めずロワイエは動揺が全面に出てしまった。
「それでロワイエ卿、今日はどういった用件かね?」
孫のはしゃぎようを見て、少し苦笑いしながらレオポルドが切り出す。
ロワイエは今日の今日までアデライドには辞職の件については言い出せていなかった。本人に会ってちゃんと説明してからと思っていたのだが、公爵を前にしてそうも言えなかった。
「私事ではございますが、本日は退職のご挨拶をと…」
「ええ~!!せんせぇ辞めてしまうんですかぁ?嫌ですぅ!!」
アデライドは大きな声で叫ぶと、また力いっぱいロワイエにしがみついた。
「アディ、先生にも事情があるのだから我儘を言って困らせてはいけないよ」
レオポルドが嗜めるが、アデライドはその声に目をギラっとさせる。
「その事情がなければ!先生は辞めないでくださいますのね!」
急にいつもの口調に戻ったことにビクッとするロワイエをよそに、その発言を合図としたようにニコラからプルストへ、プルストから公爵側付きの侍従長へ、侍従長からレオポルドへと資料がリレーされた。
「静かの森の管理に係る調査報告書…あぁ、アルドワンの」
「左様にございます閣下。アルドワン侯爵領側の管理不足によりロワイエ伯爵領側に被害が発生しかねないというのが現状のようです」
侍従長がすらすらと澱みなく公爵に説明していく。
「森の放置に… シュヴァベリンの言葉を話す者の増加か」
レオポルドが資料を見ながら呟く。元々アルドワンは隣国であるシュヴァベリンと国境を接しているため隣国に寄った文化風習を持つ地域があり、言語もそのひとつだった。だが最近になって隣国の言葉を話すものが増えて、伯爵領側でもよく見かけるようになったと叔父が言っていたことをロワイエは思い出した。
「だがまだ何らの被害も出ていないのだろう?その状況でわしに動けというのか?」
レオポルドが皮肉げに口の端を釣り上げてロワイエを見上げる。公爵の放つ圧に何の準備もなくこの状況に放り込まれたロワイエは周囲を呪う。なぜこんなことになっているのかはサッパリわからない…という訳でもない。後ろに控えている従兄弟のせいが何割かだろうと察しはつく。後で殴ってやるためにもここを何とか切り抜けなければならない。緊張でカサつく唇を開きかけた時、目をうるうるさせたアデライドが割り込んできた。
「お祖父様ぁ、その森からぁ…魔獣が出て来るかもしれないんですぅ。アディとっても怖っくってぇ…」
「おや、これには獣害が増えているとしか書いてはいないが?」
レオポルドが資料に目を落としページをパラパラと捲る。
「3ページ目にここ10年の森の豊凶の状態と獣害の件数の相関関係を表すグラフがありますでしょう?それを元にアルドワン様方がこのまま森を放置した場合の予想が次のページにありますの」
「ああ。5年後にはロワイエ伯爵領側に魔獣による被害が出るだろう…か。だがあくまで予想だろう?」
「本日またデータをいただきましたわ。アルドワン様方はロワイエ伯爵領の市民が森に入るのを完全に禁じましたので、加速度的に危険性は増しておりますの…アディすっごく怖ぁ~い」
思い出したようにクネクネしだす孫にレオポルドは困ったように笑う。
「だがそれは領主の権限で行う範囲のことだからな。うちに影響がない以上、口出しはしにくいよ」
「え~せんせぇが魔獣のことに掛かり切りになってしまったらぁ、アディと会えなくなってしまいますう!寂しいょお」
「あの、お嬢様。公爵閣下にそれ以上無理を言うのはどうかと…」
ようやく口を挟む機会を得たロワイエだが、またアデライドに遮られる。
「アディせんせぇが魔獣に怪我させられちゃったらって思うとぉとっても怖くてぇ」
そう言うとロワイエに抱きついて顔を押し付けてきたが、身長差のせいで腰に巻きついているようにしか見えなかった。
「せんせぇ行っちゃ嫌ですぅ」
涙目で見上げてくる姿は健気に見えなくもないが、ゼロ距離で接していたロワイエにはアデライドがもぞもぞとポケットから何かを取り出す気配がわかっていた。おそらくこの涙は目薬かなと冷静になるが、引き剥がすことも出来ずに固まってしまう。
「恐れながら閣下、アルドワン侯爵領にはシュヴァベリン連邦との併合を希望する者たちが現れていると聞いております。侯爵のお考えは計りかねますが、あの森で魔獣の氾濫が起こればそれを機にロワイエ伯爵領までもシュヴァベリンの手が及びかねません」
侍従長の言葉にレオポルドが眉を寄せる。
「それはわしも知っているが…」
「じゃあ~王太子殿下にお願いしたらぁダメですかぁ?」
ロワイエに張り付いたままのアデライドの言うことに侍従長も重ねて発言する。
「静かの森は王太子殿下の直轄領でもあります。ご相談を持ち掛けてみる価値はあると思われます」
孫と侍従長の顔を順繰りに眺めてレオポルドがため息をつく。
「わかった…で、ロワイエ伯爵、君もそれが望みかね」
「はっ…はい。大変恐れ多いとは思いますが…」
ロワイエが反射的に姿勢を正して首肯すると、アデライドは彼から離れて祖父の執務机の方にトコトコと近づいていった。
「ねえお祖父様ぁ。アディね、今年の聖女祭のプレゼントはぁ~せんせぇに授業を続けてもらうのがいいですぅ」
「なるほど。孫の我儘を叶えてやるのもこの爺の仕事か。まぁあの小僧の相手をするくらいならそれくらいの理由で構わんか…わかったアディ」
「きゃーやったぁ!お祖父様はぁやっぱりすっごい頼りになってアディ嬉しい~」
苦笑しながら喜ぶアデライドの頭を撫でたレオポルドは、ロワイエに視線を向けた。
「ロワイエ伯爵。君はうちのアディのお気に入りということになった…が、くれぐれも節度を持った行動をお願いするよ」
「はい、心掛けます閣下」
孫に向けていたものから一転して温度の下がった声色に、ロワイエがこれ以上ないくらい背筋を伸ばして答えた。
「ああ…じゃあアディ、お祖父様はお仕事があるからね。もう行きなさい」
「はい!ありがとうございますお祖父様」
祖父の部屋を出る時もアデライドはわざわざロワイエの手を握って擦り寄るのを忘れなかった。