教師の喜びは生徒の喜びに必ずしも比例しない
巻き戻ってから二回目の春が来た頃、魔法の授業では実技が始まった。というか、始めてもらっていた。チートでザマァするという目標を、春の陽気に誘われてか俄かに思い出したアデライドがロワイエに平身低頭してお願いした結果だった。魔法はチートにつきものだと彼女は思っていたのだ。
「貴族のご令嬢は通常そこまで魔法学を納めませんし、実技などほぼやらないと聞きますが」
「わたくし公爵家の一員として役立ちたいのですわ」
「いらないと思いますよ。やめましょうね。危ないですし」
「お願いしますわ!本当にお願いしますわ!悪いようにはいたしませんからぁ!!」
こんな感じのやりとりを繰り返して勝ち取った成果であった。
というわけで、今まで金曜日の午前をロワイエの授業にとっていたのだが、午後まで延長してもらうことになっていた。
ワクワクしながら始まった最初の実技はほぼ体育で大体走り込みだったが「前世の異世界転生モノで見たやつですわ!魔法に必要な体力作りから始まるやつですわね知っていましてよ!」と思い耐えていた。だがそのままひと月経つと早くも不安になって、いつ魔法の実技が始まるのか聞き出したくなっていた。
「あのロワイエ先生、魔法に必要な体力ってどのくらいで付きますの?」
「魔法に体力ですか?そんなにはいりませんね」
アデライドはズコーっとコケそうになるのをこらえた。
「ではなぜこんなことを?!」
「お嬢様、公爵家の役に立つために魔法を使いたいと仰いまいしたよね?」
確かに言った。本当は自分のためなのだが、そういうと聞こえが良いしワガママが通りやすいと学習していたために常習的に使っているきらいはある。
「お嬢様、魔術師の主な仕事はなんだと思いますか?」
「ええっと」
そういえばよく知らないなとアデライドは思った。前世にはそんなものはいなかったし、巻き戻し前はただの世間知らずのご令嬢であったのだ。
「ひとつは魔法や魔術の研究、治療に特化したものは医院を、ですが一番求められるものは戦闘要員としてです。今は主に魔獣退治ですね」
「ああ…」
この世界には魔獣という恐ろしい生き物がいる。前世でも人を襲う猛獣がいたが、あれらが群れて魔法で攻撃してくる感じだ。当然強い。普段は人里から離れた場所にいるが、増えすぎたりすると人の生活を脅かすことになる。普通の人間では太刀打ちできないときに求められるのが魔法の力だった。
「魔獣がいるのは山奥などです。馬車はおろか、馬ですら入れない場所がある。そこにたどり着くための体力ですよ」
「そうなんですのね…仕方ありませんわね」
よろよろとまた走り出したアデライドを見送りながらロワイエは思った。
なぜか納得されてしまったがどうしようかと。
最初にアデライドから魔法の実技がしたいと言い出された後、彼はすぐプルストに報告した。貴方のところのお嬢様がバカなことを言い出したので諦めるように説得してくださいという趣旨で説明したつもりだったが、プルストの返答は「では先生からお願いしますね」だった。
冗談ではない。ようやくやや嫌われた状態から持ち直してきたというのに、また元の木阿弥になってしまう。ロワイエにとって、いまや彼女は魔術師としての輝かしい将来を手繰り寄せるための細い糸のようなものだった。それをここで切ることはしたくないが、公爵家のご令嬢に実技などさせて怪我でもさせてしまえば、自分の経歴はここで終わってしまうかもしれない。そう考えたロワイエは“やんわり断る”という手段をとった。
結果としてそれは失敗だった。アデライドは驚く程しつこかった。以前はこちらの表情をオドオドと伺っていた目が、いつ話を切り出してやろうかとでもいうようにギラギラするようになった。ロワイエはノイローゼになりそうな心地になってしまい、恥を忍んで再びプルストに報告をした。
「大丈夫ですよ。お嬢様は多少のことではもう貴方のことを疑わないと思いますよ」
穏やかにそう言われた時は何が大丈夫なものかと思ったが、はたして本当に大丈夫なようだ。
実技を教えると偽って体力を使わせれば、どうせ貴族のご令嬢のことなのだから疲れて諦めるだろうとは思った。しかしそれを実行すれば以前より更に嫌われるだろうなとも恐れたのだが、結果としてはなぜか諦めないし、疑われもしないので“嫌われ”も発生しなかった。ロワイエの目には、走っているのか歩いているのかわからない速度でモタモタと移動するアデライドは、ひどくおかしな生き物のように見えた。
「ロワイエ先生!魔獣の倒し方を教えて欲しいのですわ!」
切り口を変えてきたなとロワイエは警戒した。あれからやたらと走らせ続けた結果、諦めるより先に脚力ばかりが目覚ましく増していた。(どうやら自主練習まではじめてしまったらしいと聞き恐怖している)
以前いらないことを喋ってしまったせいかと、自身の迂闊さに内心舌打ちをする。だが、多少おかしいところがあっても所詮は貴族令嬢。魔獣退治の恐ろしさを聞けば怯むだろうと、彼は油断をした。
ロワイエが右手のシャツのボタンを外して捲り上げると、二の腕には縦に引き裂かれたような大きな傷跡が刻まれていた。
「お見苦しいものをお見せしてしまいますが、この傷は飛竜の退治の際についたものです。魔獣の退治には怪我はつきものですし、時として命を落とすことすらあるのですよ」
貴女にそのお覚悟がありますか?と続けた言葉にアデライドが目を見開く。
ロワイエは研究者志望なのだが魔術師の世界は実力主義であるので、現場を知らないものは舐められる傾向が大いにあった。そのため彼は定期的に魔獣討伐に参加するようにしていたが、彼の女性を虜にする美貌は現場にいる男連中からは初見でとことん嫌われるうえに舐めてかかられる厄介さがあった。
だから彼はあえて傷を残していた。本当は治療魔法で消してしまえるのだが、現場の騎士などにこれを見せるとウケが良くて色々とやりやすくなる。男であれば問題ないこのような傷も、貴族の令嬢からすれば考えるのも恐ろしいものであろう…と思ったのだが。
「…まぁっ、なんて、なんてことなの!?」
アデライドから出てきたセリフはこちらの思惑通りな気がしたが、どうも表情がおかしかった。
「そのような傷を受けてまで戦ってらしたのね!わたくし尊敬いたしますわ!」
かつてないほどのキラキラとした熱視線を向けられてしまった。怯えさせようと思ったのに、これではただ自身の戦歴をひけらかしただけのようだ。ロワイエは急激に気恥ずかしさが押し寄せてきてしまい、結局いそいそと袖を戻し傷を隠した。その日彼はなかなか寝付けず、ベッドの上で鬱々とすることになった。
夏が来る頃、ロワイエは万策尽きていた。無闇に体力をつけて生き生きしてきたアデライドと反比例するようにやつれてしまい、定期的に顔を合わせるベルナールにも「うわびびった。何?どした?」などと言われる始末だった。
この状況でも彼の周りの女性からは「影があって素敵」などと言われてしまい、女ってなんなんだろうと持ち前の女性嫌悪を深めていた。
ついに白旗を上げることになったロワイエが「今日はまず魔法の初歩をお教えしますよ」と宣言すると、アデライドが喜びの声を上げた。
「最初に、今まで授業で使用してきたこの教科書の内容ですが、これは一旦忘れてください」
そう言うと彼の手からふわりと浮かび上がった教科書にボワっと火がついた。驚いたアデライドが呆然と眺めているうちにそれは燃え尽きて灰になってしまった。
「この国では魔法を使う者の基本的教養として教えられていますが、教会の監修が入った古い内容です。カビの生えた役に立たないものですよ」
吐き捨てるように言ったロワイエの目は据わっていたため、アデライドは黙って頷くにとどめた。
「あのクソ教科書には自然元素論というのが書かれていましたが、覚えていますか?」
クソ教科書という言い方に怯みつつもまた頷く。この世界の物質は火、水、風、土の四元素で作られていて、魔法もその四元素の力で生み出されるという説だった。
「あれもずっと昔に否定されていますね。世界を構成する物質の組成については、今はこれが最も正解に近いとされていますね」
ロワイエは黒板を持ち出すと円グラフを書いた。
「目に見える物質…ベルナールみたいな連中の領域ですね。それが5%です。そしてここ、25%を占めるものが私たちの領域。魔素と呼ばれるものです。私たちはこの魔素を使って魔法を使います」
アデライドは残り70%のだだっ広い空間に何も書かれていないことが気になったが、空気を読んでそこは流した。
「魔素は目には見えませんが質量を持つ物質だと推定されています。これを感知することの出来る人間が魔法を使用できるのです」
ついに我慢できなくなってアデライドは勇気を出して口を挟むことにした。
「あの~魔法って魔力を使って作るものではないのですの?」
ロワイエが不快げに美しい眉を寄せた。出会ったばかりの頃も質問したときなどにこういう顔をすることがあって、当時はいちいち動揺していたなとアデライドは思い出した。
「あのクソ教科書にはそう書かれていますね。あれは雑すぎるんですよ内容が」
だが彼女は今は、また吐き捨て型の感想が来てしまったことに動揺している。
「ヒトの持つ魔力はいわば種火のようなものです。私達が魔法を発動させるとき、実際はその大半は魔素の力を利用しています。魔素を使用するための切っ掛けとして魔力が必要なのです」
「えっ?魔力が多いとすごい魔法が使えるということでは…」
「それはありません。いくつか例外はありますが、むしろ昨今では魔力の多寡よりも魔素をいかに使いこなすかが魔法研究の課題となっています」
食い気味にバッサリと切り捨てられてしまったことで、アデライドは愕然とした。巻き戻し前も、今回も、彼女の唯一の長所であり拠り所となっていたものがにべも無く否定されてしまい、足元から力が抜けていくような絶望感に襲われる。だが彼女の教師は落ち込む暇すら与える気は無いらしい。
「今から魔法の適性をテストします。これによって今後の指導方針を決めます」
はい立ってくださいと急かされ、アデライドはなんとか気持ちを奮い立たせる。これで魔法の適正とかいうものが高ければ問題ないかもしれないのだ。世の悪役令嬢は魔法の力でやり直しを成功させるものも多かった。自分もそうしたいと思いつつも彼女の不安は消えなかった。
魔法への反射行動を見ますと言われて、おもむろにロワイエは炎や水の塊を作って手渡してきた。
炎はビックリしているうちにアデライドの手のひらから数センチ上の空間でゆらゆらして消えてしまった。水の玉は受け取ることすら出来ずに弾けてしまい、びしょ濡れになった。
突然のことに着替えさせようとするメイドをロワイエが止める。アデライドのまわりにフワッと温かい風が吹いてあっという間に乾いた。感心する彼女に「時間は有限ですよ」と言って淡々と次の準備を始めていた。
その後も魔術式の書かれた床の前に立たされて急に背中を押されて転んだり、杖で頭を叩かれて目の裏に火花が散ったりと、紙一重で虐待なのではという謎の儀式が続いていったその結果が出たらしい。
「魔法に関しては、あまり才能を感じませんね。一応一通りは反応はしますが」
いよいよアデライドは絶望した。自分は悪役令嬢ものの主人公だと思ってるだけのモブ疑惑が浮上してくる。
「お嬢様が自然に使える魔法は燃焼反応を起こすものだけですね」
続けられた言葉にアデライドは少し浮上した。モブ系悪役令嬢ものというちょっと捻ったジャンルかもしれないと思い直す。
「あのっその燃える…火の?魔法を伸ばすことはできませんの?」
「それしか出来ませんからそうするしかないですね」
その言い方は思いやりが足りないのでは…と思いつつも、わずかに希望の光が灯ったのを感じた。
「安心してください他のことも出来るようになってもらいますよ」
「でも才能がないのではなくって?」
「貴女は私の初めての教え子になるわけです。そんな貴女が一つの魔法しか使えないという事実は私には耐え難い」
そう言って何冊かの本をバサバサとアデライドの前に置いた。
「他は魔法では無く魔術で補いましょう。直感で出来ないことでも理論が可能にしてくれます」
試しに一番上の本のページをめくって見たアデライドはヒィッと息を飲んだ。
数字と記号と文字が並んで見慣れない形になったものが黒々と並んでいた。
「魔術式の基本です。これを意識せずとも作れるようになりましょう」
「…そんなことが出来ますの?」
「簡単なものなら練習すればすぐに出来るようになりますよ」
ロワイエはこともなげに言いきった。多分彼にとっては簡単なことなのだろうが、自分にそれが出来るようになるだろうかとアデライドは戦々恐々としている。
「お嬢様、クマ科の魔獣がいるのをご存知ですか?」
前世でも恐ろしかった森のクマさんは、この世界では魔法の力で輪をかけて恐ろしい存在になっていることをアデライドも知っていた。
「彼らの表皮は分厚く、多少の魔法は弾かれてしまいます。そのうえ動きも早い。考えている時間はありません。即座に魔術を展開できなければ、鋭い爪で切り裂かれて終わりです」
想像したのかゾッとして顔色を青くしている教え子を慰めるようにロワイエが優しい声音で言う。
「魔法の威力は魔力の多さに比例しないと先ほど申し上げましたが、例外があります。治療魔法の、特に受け手となった時です」
穏やかに微笑むその顔は年頃の女子なら黄色い悲鳴をあげそうなものだったが、続く言葉は酷薄そのものだった。
「貴女ほどの魔力をお持ちなら、多少どこか抉れたり千切れたりしても元に戻せますよ。私は治療魔法も得意ですから任せてください。…脳さえ無事でいてくださればですが」
涙目で口をパクパクさせ始めた教え子と目を合わせながら、ロワイエは長く形のいい人差し指で自分の頭をトントンと指してみせる。
「私達の武器はここです。魔法も魔術もここで作るんです。だから鍛えるのも必然的にここになるんですよ。これから頑張りましょうね」
恐怖からアデライドは思わず声を上げていた。
「クッ…クーリングオフは出来ませんの?!」
「ちょっと何を仰っているのかわかりませんね」
「先生もお忙しいのでは!?」
「ご心配には及びません。先日プルストさんに相談しました」
心持ち意地悪くニヤリと口元を吊り上げる。
「『お嬢様が魔獣の存在に心を痛めておられる』と報告したところ、いたく感心された様子で時間の調整に協力してくださいましたよ」
そう言って刷新された時間割を手渡され、目を通したアデライドはくらりとした。彼女の得意な、ちょっと楽のできる授業が消え、そこが魔術の授業に変わっていたのだ。
「そのスケジュールなら私も無理なく授業ができます。貴女にお会いできる時間が増えて大変悦ばしい限りですね」
ロワイエの表情は晴れ晴れとしていた。これはもう決めてしまった人の顔だとアデライドの直感が告げていた。
自分が虎の尾を踏んでしまったと気がついた時にはもう遅かったのだ。改めて彼女の厳しい魔法への挑戦が始まってしまった。