タクシー
あの日、その女は日比谷通り、和田倉門に立っていた。
郵船ビルまでの客を反対側の日動ビルのところで、「ここでいい」言われ
降ろした。ドアを閉め、車を出そうと思って顔を上げふっと斜め歩道側方向をに目を向けると、女と目が合った。まるで俺をずっと見ていたように視線が真っすぐ入って来た。
(うん、乗るのか?)
そう思った瞬間女が近づいて来た。後ろドアを開けた。
「お願いできますか?」
見た感じ通りの「スッと」した声だった。
タクシー運転手を始めてからだ。人の声の出し方、声色、話し方が気になった。容姿よりも気になった。
「どうぞ」
女が後部座席に座ろうとしたが、なんとなくぎこちなさを感じた。
タクシーには乗り慣れてはいない感じがした。
「どちらまで?」
「東京タワーまでお願いします。」
バックミラーでチラッと顔を見る。
『東京タワー』までと言われてなんらおかしいことは無いがなぜか反射的にみてしまった。
(綺麗な女だ)
話し方も、声も悪くない。
時々いる、見た目がいいと思っても(これは男、女関係なく)話した途端に
(えつ)
と思うタイプがいる。別にそれで人間性がどうのこうのって訳ではないが、
(無理だ。この喋り方)と思うことが多々ある。
話し方は大事だ。そして声も良ければいうことないと勝手に査定してしまう。悪い癖だ。
世の中色々な人間が居るというのは頭の中ではわかっていたが、この仕事を始めてからは如実に感じるようになった。このタクシーと言う狭い「箱の中」おそらくもう二度と会わないであろう人間の人生を少し垣間見ることも有る。でもそれもあくまでも、自分の勝手な想像と偏見に過ぎないのであろうが…それでも、耳にどうしても入ってくる会話から想像する。うんざりするような内容を聞くと
(俺の人生,ろくでも無いと思っていたが、まんざらひどくも無いのかもな)
とも思える事さえあった。
「あの、今日は普段より混んでいます。ここからなら、東京タワーまでいつもだったら十分程度で行けますが、今日は時間掛かると思いますよ」
歩いて地下鉄に乗っていった方が早いと遠まわしに親切心から言ったつもりだったが…。
今日は10日の月曜、五十日のそれも月曜日となれば道は混んでいる。普段、十分程度で行けるところを渋滞にはまってしまえば下手をすると一時間以上掛かることもある。現にさっき降ろした客だって、車が動かなくなると後の座席で足をトントン鳴らし始める。明らかにいらだっているのがわかる。郵船ビルが見え横の交差点を右折して下ろそうとしたが
「ここでいい」
と言われ車線を無理に変更して和田倉門で降ろした。道路の渋滞を運転手の所為とは思っていないだろうが、露骨にいらだちを表現されても困るし、こっちも腹も立つ。
(だったら、こういう日にタクシーなんか使うのやめろ)
タクシー運転手をしていると、その時に乗ってきた客の精神状態が何となくわかる。明らかに不穏な状態の客を拾ってしまうと車内がどんよりしてくるのを感じる時がある。
「いえ、このまま…。特に急ぎではないので…。」
(…急いでないか…俺がイライラするだけか…)
再びバックミラーでチラッと女を見る。
(まっ、そう言うなら)
「わかりました。」
結局、30分近くかかって着いた。
(料金いいづれぇ)
「3620円です」
女は料金を聞いても表情も変えずに財布からお金を出し始めた。
「これで」と4000円を出してきた。千円札は綺麗に向きがそろっている。
「380円のお返しです」
お釣りを渡し、ドアを開けると
「あの…ここで待っていてもらえませんか?」
「?」
「あの、一時間程なんです。それで戻ってきますからここで待っていて貰えませんか?」
「…」
「勿論、料金はお支払いしますから…」
「ああ、それって戻ってきて次の所に行くまでってことですか?」
「……次と言うか…あの、出来れば今日一日お願いしたいんですが…急には無理です…よね?」
「えっと、そうなると料金はメーターではなく、時間で頂くことになりますが…」
「はい、料金はいくらかかっても構わないです。」
(いくらかかてもって先も聞いたな)
「わかりました。取り敢えず、ここに停めている事はできないので、駐車場に移動します。名刺をお渡ししますので車に戻られるときに電話をください。」と名刺を渡した。
「恐れ入りますが、お客様のお名前を伺ってもよろしいですか?」
「あっ、えっと、は…じゃなくてふみ…フミ、フミタといいます。」
「承知いたしました。フミタ様ですね。ではお待ちしております。」
「宜しくお願いいたします。」
降りて東京タワーに向かう女の後ろ姿を何となく見送りタワーの駐車場に向かった。
会社に一報を入れ了解をとった。
時計を見ると10時40分。
(今から一日って一体何時まで使うんだ?)
車内ボックスから料金表をだす。
タクシー運転手をやるようになってから二年近く経つ中で初めての事だった。
(今からだと、夕方?夜になるのか?)
指折り時間を数えた。
(夕方の六時を過ぎたとして、八時間利用だから…38,600円。後は延長30分毎に2500円の追加料金か…。
『いくらかかっても構わないです。』
まあ、いくらかかっても構わないって言うんだから…。)
タワーの駐車場に車を停めシートを倒した。
目の前にタワーの足の部分が、赤い物体だけが目に入ってくる。そういう位置に停めている。
(足の部分だけだでよくよく見るとすごい『赤』だな。)
今じゃスカイツリーの方がメジャー化してしまい、東京タワーの周りには高層ビルが立ち並び埋もれてしまいもはや存在が薄れつつあると言いつつも
(いやいや、やはり下から見上げると圧巻だし、この色レトロ感色の赤。まだまだいけるよ…。東京タワーに来るのなんていつ以来だ?この仕事始めてからこの辺りを走ることはあったが、ここに客を乗せてくるなんて初めてかも…。)
目を閉じた。
(そういえば、いくつの時だったろう?母親と姉の誰かと来たことあったな…。何とかっていう落語家が司会をするテレビ番組の公開放送を観た気がする。あれはいくつの時だったんだろう?)
早川智之 三十八歳
東京港区青山に生まれる。
青山と言えば金持ちしか住んでないと思われがちだが、智之が生まれたところは平屋で長屋のような造りの都営住宅だった。両親は新潟の出身で、なぜ出会い、結婚し、東京の青山と言う所に住んだのかは未だに知らない。両親はもう他界している。智之が物心ついたときの父親は既に日雇い労働者で、稼いだ金は酒と競馬に消えた。貧しい家だった。生活保護を受けていた。姉弟は病院ではなく産婆の手によってこの世に出された。父親は日中から酒を飲み、酔っぱらって帰って来る事が殆どだった。父親が帰って来る時間が近づくと、智之の心臓はバクバクしだし、手には汗をかいた。裏庭から入ってくる父親の姿を見ると恐怖で一杯になった。毎晩のように食卓がひっくり返った。その後は父親の怒号と母親と姉たちの泣き叫ぶ声。母親の髪の毛を掴み引きずり回し、時には首を絞める事もあった。一番幼い智之は部屋の隅でただただ目の前の地獄に怯え、泣く事しかできなかった。そして、気がつくと部屋の隅に自分の布団をきちんと敷きそこにいびきをかきながら眠る父親がいた。布団の手前は食卓がひっくり返った時の食べ物と食器が散乱していた。だが、父親が眠っているその一角だけが整理整頓され、そこだけが別次元だった。殆ど毎晩、毎晩その光景があった。穏やかに夕食を終える事が出来た記憶は智之には殆ど無かった。父親は只々、恐怖の存在だった。だが不思議と父親に対しての憎しみとか怒りとかの感情は無かった。逆にいつも暴力を振るわれている「被害者」の母親に対して憎しみ、怒りに近い感情が有ったことに智之は無意識にずっと苦しんでいたのかも知れない。智之にとっての母親はデリカシーのない存在だった。そして、幼い時の智之はある出来事を目にしたことで母親を「裏切者」と思ってしまった。それは偶然、夜中目が覚めたことで毎晩のように酒を飲み暴れる父親と母親の夜の性行為を見たしまったのである。大人になればそういう行為によって自分はこの世に誕生したと理解できているがまだ小学校低学年の智之にとっては衝撃的な事だった。
(普段、自分たちを苦しめている父親とそういうことをしているあんたは、父親と本当は仲間だったんだ。俺たちを騙してたんだ。)
何もわかっていない子供の発想である。何もわかっていないため母親に対する嫌悪感がただただ募っていった。普段から智之は母親から愛情を感じる事が出来ていないせいもあった
貧しい生活、惨めで、家の中は恐怖で満ちている。そんな中で生きている人間が明るくいられる訳がない。暗い雰囲気を纏った智之は小学校ではいじめに近い状況になる事が日常的に有った。一部の男子からの無視と暴言、吊し上げ等…。生徒だけではない。小学校2年生の担任教師からはクラスメイトの前で馬鹿にされた。3年の時の担任は智之に対する受け答えこそは普通だが、明らかに貧乏人の子供と言う目で見ていた。嫌、見ていたのではなく眼中になかった。あの富裕層の住んでいる青山、赤坂という地域はただただ、智之の家の貧しさを浮き上がらせた。それでも、4年生の時の担任は智之の存在を気にしてくれた教師だった。父親が亡くなった時、家に初めて訪れて智之の生活事情を目の当たりにしたせいだろう。もともと智之を見る目つきも他の生徒と変わらない教師だったが、学年の終わりの日にクラスの生徒の前で智之の事を褒め讃えてくれた。褒め讃えてくれた内容程の自分ではないと智之は思ったが、正直嬉しかった。それは一時の救いだった。だが、五年生になって担任は変わり、クラスメイトからのいじめが顕著になってきた。担任も最悪だった。
智之は感じていた。
(こいつは俺を嫌いだ)
二年生の時の担任のようにクラスメイトの前で智之を馬鹿にする訳ではないが智之を見る目が語っていた。
『嫌い』と。
智之にとってクラスの二人の男子生徒の存在が脅威であった。
いつも祈っていた。
(あいつらの目に留まらないように)と。あいつらの目に止まると智之は餌にされる。
二人の男子生徒の存在は智之にとって父親とはまた違う恐怖だった。自分の存在が二人の目に入ると吊し上げにされる。汚い言葉で何度も何度も殴られる。そしてまわりには誰も助けてくれる存在は無かった。そのことが智之自身の自己を深く深く沈めた。大人になっても沈んだままだった。
家にも学校にも自分の居場所が無かった。心休まる場所が無かった。いつも心の中に重い図た袋のようなものを抱えていた。
小学生の智之にとっての日々は惨めさと悲しみの連続だった。
だが、そのひとつの恐怖がある日突然終わった。
小学校4年生の夏、父親が急死したことだ。
その日は前日から父親が帰ってきていなかった。今まで帰らなかったことなど無かったから何があったのかもと訳の分からぬ期待のようなものから心がざわざわとしていた。昼過ぎに母親に連絡が入った。
戻ってきた母親が(この頃は何かあれば隣の家に電話が入るようになっていた。)
「死んだって」
その言葉を聞いて智之は心のなかで
(バンザイ!)と叫んだ。
智之の記憶の中では姉たちと共にバンザイと飛び上がって喜んだと思っていたが、姉たちにそんな不謹慎な事はしないと最近の何かの時にその話題になり言われた。
(そっか、あれは自分ひとりで喜んだわけか…。)
父親が死んで家庭内はある意味平安が訪れた。新しいアパートにも引っ越した。今まで、家に無かった冷蔵庫、風呂、電話がついた。何よりも智之が喜んだのは「スイッチ」で電気が付くことだった。
「パチッ」という音で電気が付く。
「パチ、パチ、パチ、パチ、パチ、パチ…。」
何度も何度も繰り返した。最期には電気が付く事よりもスイッチを押す感覚を智之は味わっていた。
家庭内の恐怖は終わりを告げたが、学校という場での恐怖は続いていた。学校にいる間中いつ攻撃が始まるかと思うと心が休まることは無かった。
だがその恐怖も中学校入学と共に終わりを告げた。
中学校は三つの小学校を統合していたため、小学校の倍以上の人数になった。知らない顔が増えた。
だがそれが良かった。小学校で幅を利かせていたあの二人が中学校に入った途端に影が薄れてしまったのだ。他の小学校の生徒の方が存在感があった。そしてその生徒たちは誰に対してもいじめるとかそういうことはしなかった。それどころか智之を好きだと言う子が同時に二人も現れたのだ。智之にとって晴天の霹靂だった。中学に入学した途端、世界が全く変わってしまった。小学校の6年間は学校に行くのが嫌で、楽しかった思い出なんか殆ど無い。それが中学校という場所が智之にとって初めて登校するのが楽しい場所になった。笑うことも増えた。惨めだと感じる事が殆ど無くなった。1年生の担任も良かった。数学を教えてくれたが、担任として誰のこともひいきなどせず、いつも静かな語り口で穏やかな先生だった。
部活を始めたことも大きかった。バスケットボール部を見学で見に行きそこで一際目を引く二年生がいた。
(かっこいいな)
そのまま、入部した。そして見学した時にかっこいいと憧れた先輩に可愛がられた。
素直に楽しいと思った。生まれてきて初めての感情だったかもしれない。
(楽しい!)
仲間と練習し試合に出て、部活後は寄り道をしたりと自分にとってこんな瞬間を迎える事が出来たことは智之に何よりも自信を与えた。部活の顧問も智之を可愛がってくれた。三年生の担任にもなり、受験の際には「がんばれよ」とお守りもくれた。自分の事を親身になって考えてくれた人生ではじめての存在だった。中学を卒業し、国立の高専を出て一部上場の建機製造販売の会社に高專卒で入った。
智之は頭の回転が速かった、そしてまわりの空気感にも敏感だった。そのことが幸いし上司、仲間受けも良かった。仕事も出来た。真面目で正確、そして早い。そんな仕事ぶりと上司にも恵まれた事から、高專卒という学歴で30才で異例の次長まで出世した。31歳で広報の3歳下の女性と結婚した。智之にとってこの頃が生きてきた中で一番充実した時だったかもしれない。だが、そんな充実した生活も34歳で終わる。妻の紗江から「離婚したい」と言われた。理由を聞くと「好きな人ができた。」だった。内心は動揺していたが、二つ返事で「わかった」と言った。智之自身は妻の事は好きだと思っていた。交際を申し込まれ、結婚も妻の方から積極的にアプローチしてきた。いくら妻の方が積極的だったからと言っても好きでなければ結婚しない。だが、妻の気持ちが他の男性に向いてしまった事を知ってしまったら妻が自分の側にいる事が、一緒に暮らすことが耐えられなかった。次の日には離婚届けが出され、そして、次の日には妻は出ていった。
相手が自分をもう好きではないと知ってしまったら、もう側にいる事は苦痛でしかない。
離婚したころから智之の中で何かが確実に変わった。そしてそれに追随するかのように智之の周りでも何かが変わり始めた。離婚を職場の人間に知られてから自分に対するまわりの人間の目が気になった。妻が夫ではない男を好きになった。簡単に言えば智之は捨てられたのだ。そのことが自分の価値を下げたような気がした。上司にも仲間にも認められ羨望の目で見られてきた自分が崩れていくような気がした。
離婚から数か月経った頃、給湯室の前を通りかかったときに、中にいた女性社員たちの会話が偶然耳に入ってきた。
「早川さん、なんか最近失速しちゃったよね。やっぱあれかな?奥さんとの離婚が原因?」
「そりゃ、誰だって、好きな人が出来たから別れてなんて言われたらさあ…ショックだよね。私なら耐えらんなあい。まだ性格の不一致とかって言われた方がよくない?」
「早川さん、仕事出来るし、イケてるし、結婚するって聞いたときは正直ショックだったんだけどなあ」
「何年前の話よ?だいいちあんた、あの頃彼氏いたじゃない?」
「そうだっけ?ははは」
「じゃあ、チャンスなんじゃない?今なら傷心しているから彼を物にできるかもよ」
「そっかなあ、今チャンス?」
「私はないなあ}
「えっ、なんで?」
「だって…確かに彼は仕事も出来るし、見た目も素敵だけど…でもこの先、彼は次長止まりよ。どんなに頑張っても昇進は無いわよ。」
「えっ、どうしてなんで?」
「だって、そもそも彼は高専卒よ。なのにいくら仕事が出来るからって同期の大卒より出世したのはなぜ?」
「えっ、なぜ?なぜ?」
「石橋常務」
「えっ、石橋常務がなんかあんの?」
「あんた、知らないの?有名じゃない。早川さんが入社してすぐ配属されたのが石橋常務が課長だった海外サービス事業部のサービス課。高専卒ながら仕事の飲み込みが早くてもちろん仕事も出来て、それに英会話だって仕事終わってから必死に勉強したって。だから入社して半年後には課長の海外出張にも同行したって話よ。同期入社の大卒の男性から羨望のまなざしが向けられてたって、超有名な話。一部では課長と出来てんじゃ、なんてひがみから言う輩もいたって。有名よ。」
「へー、昔から仕事が出来て出世が早かったとは聞いていたけどね…でなんで?もう駄目なの?」
「あんた、今、石橋常務がどうなっているか知らないの?」
「石橋常務なんかあったっけ?」
「坂田常務と出世を争っている真っ最中でしょうが」
「あぁ…」
「次の専務の椅子を狙って二人の派閥が争っているじゃない。」
「そうなんだ」
「今、石橋さんの方が劣勢なんだよね。そんな石橋常務が坂田常務を巻き返すにはもっと脇を固めたいでしょう。高専卒で次長の早川さんを気に掛ける事も無いでしょう。出世するのにもっと利用価値のある人間を周りに置きたいでしょう?」
「なるほどね」
「そっかぁ、さすが直美よくわかってる~」
「ははは、でしょう~」
(何がでしょうなんだよ……。なるほど、今の俺はそう見られているのか…はん、勝手な事言いやがって)
給湯室から離れて歩き出すと急に怒りが湧いてきた。
そしてこの時、智之の中でわずかに残っていた何かが崩れ落ちた。
それから、暫くして会社を辞めた。
(俺は一体何を守りたかったんだろう?
俺は一体何が欲しかったんだろ?)
仕事を辞めてからは暫く働かなかった。退職金で生活し、毎晩飲みに歩いた。
会社にいた頃は高級と言われる店を選んで、勝ち組気取りをしていたが、一体何を勘違いしていたのかと今は思う。今はガード下の安い酒場で飲んだくれている。
(俺にはここの方が合っている。頭上を電車が走る音を聞きながら飲む酒が今の俺には、いや、元々ここなんだ。貧乏長屋生まれの生活保護で暮らしていた俺にはここが…ここの方がよっぽど…合っている。)
給湯室での女子社員の会話が蘇る。
(俺はあんな風に陰でずっと笑われていたのか…)
会社を辞めてからも、あの会話がよみがえってくることが何度もあった。あの女子社員の会話が自分のサラリーマン生活の全てであると思い込んでしまった。自分の奥深くに眠る「無価値観」にどっぷりとはまってしまってのだ。
人よりも働き、努力した。同期の人間の中では一番仕事が出来るという自負もあった。なのに「高専卒」という学歴がいざという時足を引っ張った。
「戦力にならない」
大卒なら仕事が出来なくても戦力になったのだろうか?
そもそも、何のための戦力なんだ。派閥争いのための戦力?仕事に対する戦力ではなかったのか?
無気力な毎日。昼過ぎまで寝て、近所にある小学校の昼休みに遊ぶ子供たちの声で目が覚める。何もする気にもならず、夕方になると飲みに出る。仕事を探す気にもならなかった。
(後、どの位金はもつかな?)
退職金はまあまあ貰えた。だがなんの収入も無くなったのに、家賃やその他諸々は口座から落ちていく。目に見えて貯金は減っていった。
そんな時、その頃毎日のように通っていた店で隣に座る男から突然声をかけられた。
「あんた、無職なんだろう?タクシー運転手やらないか?」
と、誘われた。
見ると俺より少しくらい年は上だろうか?白ワイシャツ姿の男が俺を見ている。
(はっ?タクシー……なんで?)
東京タワーの「赤い足」だけをぼーっと見ていたらいつのまにか寝落ちしていた。
携帯の着信音で目が覚めた。
「はい、SEキャブの早川です。」
「あの、フミタです。お待たせしました。今、入口にいます。」
「畏まりました。すぐ伺います」
駐車場から反対側の入口の前で女は立っていた。
女の前で止めドアを開けると
「すみません、お待たせしました。」
そう言いながら座席に座った。
(…?なんだろうこの感じは…)
人には必ず深い部分に残っている記憶がある。その記憶は今世のものとは限らない。それがある瞬間、何かの香り、音楽、写真、見たり、聞いたり、嗅いだりした瞬間に深いところから湧き上がってくる。それはとても強烈で、時には体中の血液が逆流するほどの感覚を味合わせる。“デジャヴ”とは違うもの。
確かに自分の中にある
「記憶」だ。ただそれは不確かなもの…。
「次はどちらへ?」
「霞が関ビルにお願いします」
「畏まりました。」
さすがに五十日だけあって車の量は多い。だが思いのほか車は動いた。
東京タワーから霞が関ビルまでは普段の時間より少しオーバーしての時間で着いた。
「この辺で良いでしょうか?」
「あ、はい」
車を停めドアを開けると
「…あの、運転手さん…」
「はい?」
「あの…もし良ければお食事…ご一緒にどう?ですか?お昼まだですよね?」
(えっ?)
驚いた俺の顔をみて女は
「ああっ、あの別に特に変な意味でお誘いしているんじゃないんです。もちろんご馳走させていただきますし…えっとぉ…その、なんか一人で食べるの淋しいなと思って……。やっぱり、駄目ですかね?」
最初乗せた時から変わった女だと思った。特に観光で来ている様子もないのに東京タワーに行き、それから一日貸し切りになって。だが、恥ずかし気に、でも何処か必死で訴えている女を見ていたら別に飯一緒に食うだけならいいかと思えた。それに女の目を見ていると不思議とどこかで見た事のある目だと思った。怪しい下心も感じないし、それに自分の中で女に対して興味が沸いたのかも知れない。それは性的な意味ではなく。
「わかりました。じゃあ、ご馳走になります」
「良かったぁ」
女の顔が笑顔でほころんだ。
「駐車場に入れてきます。どちらへ伺えばいいですか?」
「あっ、では35階のエレベーターホールで待っています。」
「わかりました」
駐車場に車を向かわせながら考えた。
(…らしくないな。こんな事…以前の俺なら絶対断った。)
車を降り、地下からエレベーターで35階に向かう。
(それに、あの目だ。誰の目?どこで見た目)
35階を降りるとすぐ目のまえのホールで女は待っていた。
「すみません、おまたせして」
「いえ、こちらこそ無理にお誘いしてしまって…。あのぉ、お店なんですが、フランス料理店なんですが…いいですか?」
(はっ?フランス料理?いや、こんなところのフランス料理なんて高いだろ…それにおれこんな格好だし…)
おれの戸惑う様子をみて
「ごめんなさい、実はもう二人で予約入れてしまっているんです。」
「いつの間に?」
「東京タワーで…」
「僕が断っていたらどうしたんですか?」
半分呆れた声で言った。
「すいません。駄目元で…予約してしまいました。」
ばつが悪そうに下を向いている。
(どうして、そこまで?)
「それにこの場所でこの最上階のお店なんて高いですよね?」
「それは気になさらないでください。私のわがままにお付き合いしていただくんですから。それにランチですから結構お手頃価格なんです。」とニコッと笑った。
「はぁ…。まあ、予約してしまっているのなら…」
解せないところも有るが、これ以上何かを言っても仕方ないと思えた。
「じゃあ、いいですか?」
と嬉しそうに微笑むと店に入っていった。
予約している事を告げると、グリーターが窓際の席を案内してくれた。
通されたテーブルの横は一面ガラス窓で、霞が関から日比谷公園、皇居、その先がずっと広がり右手にはスカイツリーが見える。
空も蒼く、高かった。
(いい眺めだ)
「ランチのコース料理でいいですか?」
「お任せします」
「メインはお肉とお魚どちらが?」
「じゃあ、肉で」
注文を済ませると女は
「あの、運転手さんの事、お名前でお呼びしてもいいですか?」
(えっ?)
「…ああ、はいどうぞ」
「では、早速。早川さんはここにいらしたことありますか?」
「えっ?ここってここの店にですか?」
「ええ。そうです。」
「いやー、ないですね。」
会社にいた頃は高級なフランス料理店に行った事はあるがこの店はさすがにない。
「そうですか…。」
(うん?)
女が落胆した様に見えた。
「このビル、霞が関ビルってもう建ってから半世紀近くになるんですよね。この店はこの霞が関ビルが建ったと同時に開業してずっと残っているんですって。さすがに改装はしたでしょうけど。私はずっと前に一度だけ来た事あるんです。」
「そうですか」
「その時もこういう風に窓際で、天気も良くって、光が差し込んでいて明るくて、日常とは別世界に思えたことを…。その時はもちろんスカイツリーは無かったですけど。」
「今日ここに来たのはその時が懐かしくて来たのですか?」
「そう…ですね…」
そう言いながら女は窓の外を見つめた。暫く何も話さなかった。
その後はたわいもない会話をした。殆ど女が話していたが、うるさい感じはしなかった。時々俺の事も聞いてきたが不快になるようなことは聞かれなかった。俺は何も女には聞かなかった。興味はあったが、言葉にしてまで訊こうとは思わなかった。嫌、自分の中で無意識に自分から聞く事で何か誤解されたくなかった。何か聞いたことでこの距離感が変わってしまうことを無意識に恐れた。結局のところ俺は自意識過剰なんだ。
女と話す内に
(そういえば…昔、このビルに来た事があったよな…)
窓際に座り、目の前の女と話しているうちにふいに記憶がよみがえった。
(ここの店かはわからないが、このビルのレストランにたしか…母親と二人で来たことがあった。そう、確かにここのビル、霞が関ビルだ。あれは…なんかの抽選が当たったか、何かで…母親と二人、そう、こういう窓際で……えっまさかこの店?……そういえば先、この店はこのビルが出来た時からずっとあるって言ってたな…だけど、まさかな…)
「早川さん?」
「ああ、すいません…いや、実はちょっと思い出したことがあって…」
「?」
「あの、先は来た事ないって言いましたが、もしかすると…いや、この店ではないかもしれないですが、昔、僕がまだ小さかった頃に、母親と来た事があったように思えて……うん、そう来たんです。」
「そうですか。お母さんと食事に?」
「食事というか、そもそも、うちはこんな高級なお店に入れるような暮らしではなかったので…あの、確か…確か当たったんです。その、食事ができる券みたいなのが…当たったのを貰ったのかその辺はよくわからないけど……サンドイッチを食べたのを覚えています。味は覚えてないけど、目の前に銀の皿で、その足が付いているその皿の上にタワーのようにサンドイッチが乗っていて、それからオレンジジュース。そして着物を来た母親が前に座ってい…」
気がつくと女が嬉しそうな顔で俺をみつめている。
(あっ)
「すみません、一人でべらべらと…」
「いいえ」
(なんで、俺…それにしても、こんな話をどうしてそんな表情で聞くんだ?)
「小さい頃お母様といらしたんですか?」
「ええ、でもやはり、この店かは?ただここはこのビルが建ったときからあると聞いて…もしかするとって…」
「…」
「確か、さきあなたも来た事あるって言ってましたよね?恋人…とかですか?」
(しまった!)
自分のなかで後悔が襲ってきた。
(しまった、余計な事をきいてしまった。勘違いされると困る…)
「いいえ、違います。でも…大切な存在と…来ました。」
(大切な「存在」…「存在」?)
「でももし、早川さんがいらした店もここなら、本当に偶然ですね。」
「ええ…」
その後、あまり話しをせず、静かにコーヒーを飲んだ。
一面のガラス窓の外の風景を観ながらボーっとあの日の事を考えた。
(あの頃、姉たちもいたが俺だけが連れてこられた、まあ、対外ペアチケットだもんな…でも、姉ではなく俺を連れてきてくれたのは…)
正直その時の感情が何も無い、嬉しいかったとか緊張したとか、嫌だったとか
味も覚えていないし、そう、美味しいかったという記憶も無い。あるのは写真で切り取った様な、サンドイッチとオレンジジュースと着物を着た母親の姿。窓の外の青空。まぶしい程の白いテーブルクロス。それだけなのだ。
目の前の女に目を向けると、窓の外を切なそうな表情で観ている。
急に女が俺の方に顔を向けてきた。目が合ってしまい慌てて、
「あ、あの、この後はどちらへ?」
「…」
「?」
「早川さんは今行ってみたいところありますか?」
「えっ、僕ですか?」
「ええ、…例えば昔家族と一緒に訪れた場所とか…」
「無いですね」
「早いですね。直ぐに返事…」
「えっ、ああ…うちはどこかに行くような事はなかった。旅行と言えるのか…」
(旅行なんて行ったことがない。遠出は母親の生まれた新潟。でも楽しいかったなんてものじゃない)
「旅行と言えるのが?」
「あ、いえ。とにかく無いです。」
少し苛立った。ぶっきらぼうな言い方をした。
「ごめんなさい。私なんだか早川さんに立ち入ったこと聞きすぎですかね。何だか昔からの知り合いみたいに感じてしまって…」
「いえ、こちらこそ…」
「…」
「次、どちらへ行かれますか?」
「あ、はい…乃木坂に…」
「乃木坂?乃木坂のどの辺りですか?」
「乃木神社に行きたいんです」
「ああ、はい畏まりました。では先にでて車回してきますね。」
今まで以上に畏まった返答をした。これ以上女との距離感みたいなものを近くにしたくはなかった。客と運転手という距離感を保ちたかった。
「はい、よろしくお願いいたします」
「本当に、ご馳走になっても?」
「もちろんです。」
「では、ご馳走さまでした」
足早に店を出た。
(だけど、なんか…俺の事やたら訊こうとはするよな?何のために?いやいや、自意識過剰か…)
霞が関ビルの正面に車を回し女を乗せ乃木坂に向かった。
車の中では女はいつも無言だった。
俺は何故かこの女に興味が湧き何か聞けたらと思ったが話しかけるタイミングが無かった。元々、普段も乗車した客に自分から話しかける事は殆どない。何か聞かれたり、話を振られたりしたら答えるが、最小限の言葉しか言わない。要するに「無愛想」に近い運転手だ。一度乗せた客からクレームが来た事もある。
「愛想が無い。」と
(俺に愛想を求めないで欲しい)
会社勤めの時はそれでも付き合いがあったからそれなりに相手に合わせたり、冗談も言うこともあったが、会社を辞めてからは笑うことさえ殆どなくなった気がする。もちろん、冗談を言う相手もいない。
結局、女には何も聞く事も出来ずに乃木坂に着いた。
乃木神社の正面に停めた。
「ここでよろしいですか?」
「はい、ありがとうございます。」
「近くに停めていますのでご用が済まれたら携帯に電話をお願いいたします。」
「……」
「?」
「…わかりました。」
一瞬女が何か言いたげだったのを感じたがドアを開けるとそのまま降りて行った。気にはなったがそのまま車を出した。
(どこかその辺に停める事が出来たら、路駐でもいいんだが…」
数分車を走らせたが丁度いい場所が無かった。
(仕方ない駐車場に停めるか…)
駅の北側に一か所空いているところがあった。
車を停め、シートを倒した。
「乃木神社か…」
(何年振りに来たんだろう、停めたところは昔と変わらなかった気がする)
よくよく考えれば小学校から中学校卒業まで殆ど毎日通った場所である。
ふいに会社にいた頃、花見が出来る場所の会話で乃木神社の桜が綺麗だと話が出た時があったのを思い出した。
(あの桜の木、まだあるんだろうか?)
「見に行くか…」
路駐ではないから車の事は気にしなくていい。
携帯だけを持ち車からでて乃木神社に向かった。
外苑東通りから乃木公園に入った。入るとすぐに桜の木の上の部分だけが目に入る。
(あれ、そうだよな。)
近寄ってみる。あまり高くはない石塀から下を見下ろすと中庭のような所が視界に入ってくる。その真ん中に桜の木が一本立っている。
ここの桜は階段を下りた中庭的なところにあって、桜が咲くと階段上から見下ろす感じに見る事が出来るのが他ではあまりない気がした。
階段を下りて乃木神社の方に向かってみた。乃木公園から左手に歩くと神社に入る。
(少し変わった…)
記憶の中には無い風景があった。突き当りを更に左手に見ると本殿が見える。
側には行かなかった。手を合わせる気も無かった。
(たしか、この辺りで昔夏休みに本殿を写生したな)
懐かしさはあったが思いの他深い感慨はなかった。
もう一度、乃木公園に戻った。
乃木公園への階段を上る途中で声を掛けられた。
「早川さん?」
いつのまにか女が俺の後ろにいた。
「あっ」
{あの、何か…私に?」
「あ、いえ、…その、懐かしいなと…思って…」
(気まずい…)
女が俺の顔を覗き込むようにみている。
俺は思わず顔をそむける。
公園の真ん中に桜の木が、その奥にベンチがある。そこを女が指して
「良ければあそこにすわりませんか?」
「……」
(結局俺はこの女のペースにはまっている」
「何か飲みますか?自販で買ってきますが」
「いや、その位俺が買いますよ。何がいいですか?」
「私は別に…」
「俺も特には」
「この桜の木まだあるんだ…」
女が桜の木を見ながらポツリと言った。
「俺も知ってます。この桜の木。」
女が静かに俺の方を向いた。
『そうですよね』と言ったような気がした。
俺を見る静かなまなざしを見て俺は話し始めた。
「俺、実を言うとここにずっと、小学校から中学校卒業まで毎日通ってたんです。昔住んでたのが南青山で、学区外だったけどこっちの赤坂に通ってた。
何年振りだろう?引っ越してからは全然だから…十数年振りか?」
「思い出沢山あるんですか?」
「思い出?そうですね…あまりいい思い出は無いですね…」
「……」
「どちらかと言うと惨めな気持ちをしたことが多かったきがする…」
「みじめ…」
(そう…思い出すのはそっちの方が多い。)
横に座る女の溜息が聞こえた。女の方を見ると何とも言えない表情をしている。
(この女はどうして俺の話でこんなにあからさまに色んな表情を見せるんだろう?)
桜の木を見ながら思い出していた。あれは小学校低学年の頃だ。学校に行く事は自分にとって苦痛でしかなかったが、それでも行くしかなかったから毎日休まず通った。でもその日は何が原因か覚えていないがきっと母親に行きたくないとごねたのだろう。母親が乃木神社まで送ってきてくれた。石塀までで後は自分ひとり階段をおりた。何度も、何度も振り返って母親を見た。母親は石塀から覗いて俺を見送っていた。あの時の表情からは、母親が何を思っていたかはわからない。でも覚えているのは自分がしてほしかった事も言葉もなかったことだ。自分がどんなにつらい思いをして学校に通っているか知ってほしかった。察してほしかったのだ。
「早川さん?」
「あっ、すいません」
「早川さんはこの近くに住んでいたとおっしゃいましたよね?」
「ええ、まあ、近いといっても歩いて15分位かかるかな?」
「良ければ行ってみませんか?」
「えっ、住んでた所ですか?」
「ええそうです。」
「貴方は用事は?」
「もう済みました。もう帰るだけです…なので」
「行っても…そこはもう原っぱだと聞いてます」
「そうなんですね。でも見てみたくないですか?自分の生まれた場所が今どうなっているのか?」
「……」
見ると俺の目を覗き込むように見つめている。
「なんで…貴方は行きたがるの…?」
「なんで?って…せっかくこうやってご縁があったので、そういう縁のあった方の生まれた場所がすぐそばにあるのなら行ってみたいなと…思ってしまって」
「ふっ…」
(全然理由になって無いよな)
「……」
(でも…)
「行ってみようかな…」
女の目が
『行きましょ』と言っていた。
駐車場から外苑東通りにでて青山通りに向かってしばらく走ると、左側に西通りにつながる道がある。まっすぐ行くと西通りの墓地下につながるが、そこを左折し、またすぐ右、左へ曲がりそのまま道なりに行く。狭い通りだが昔から見覚えのある家が何軒かかあった。青山という場所がらだろうか、洗練された建物が多くなっている。途中昔からあった洋品店を見つける。
(ここまだあるんだ。)
『杉本洋品店』
外装は綺麗になっていたが、名前がその店だった。
懐かしさよりも複雑な感情が入り混じって起こった。
(ここは母親が買い物に来ていた店だ。)
買い物も衣類ではない。生理用品を購入していたらしい。そこには男にはわからない母親的事情があったようだ。
そのまま走ると、道幅も少し狭くなり舗装もされているとは言い難い道路になった。
「もう無いんだな」
角にあった店が無くなっている。そこは老夫婦がやっていた何でも屋?みたいな店で生物以外は少量ずつ置いてあるような店だった。
(万引きしたよな、姉ちゃんと…腹すきすぎて、店先のパンだった…)
そして、その店には父親が酒を飲んで暴れだしてもうどうしようもなくなった時警察に電話を掛けたみせだった。
(こんな遠くまでよく電話掛けに来たもんだ…)
もうおぼろげにしか覚えていないのだがこの店には世話になった気がした。
そして少し走ったの正面に自販機が立っている場所が目に入った。
(あそこだ)
あそこを左に曲がると坂下だ。
(坂下には多分車を停めれないだろう)
坂下に曲がる手前で道の脇に入って停め場所を探した。何度かグルグルと同じところを走って
(あそこしか無さそうだ)
奥が草っ原になっている所の前にとめた。
路駐になってしまうが、そこしか停め場所が見つからなかった。
車を降りて歩いた。
(何年振りだろう?)
胸の奥深くがざわめいていた。
「狭いな」
歩きながら感じた。
子供の頃は広く感じていた場所が今はまったく違う。
自販機を左に曲がる。
「坂下」が目の前に広がった。
昔の面影は一切無かった。原っぱだ。思っていたより綺麗な原っぱだ。緑が美しい。
(こんなに狭かったか。坂も短い…。)
ボーっと見渡していると一本の木が目に入った。
(あの木…)
足早に近づいていく。木の側に来て周りを見渡す。道路からの距離と公園の行き止まりからの距離からいって位置的にも間違いはない。
(あの木だ)
側に行き木の幹に手を触れながら見上げる。
(昔はでかく感じたけど、そうでもないな…)
「銀杏の木だったんだ…」
木の幹に触っている手が、少し湿ってひんやりしてくる。
触れている右手の平に意識を集中してみる。
胸の心臓の辺りから何かが湧き上がってくるのを感じた。
(おまえ、俺の全部見てたよな…)
昔、近所の子達と缶蹴りをした。自分が鬼で何度も何度も缶を蹴られてずっとずっと鬼だった。蹴られる度に涙が出そうになるのをこらえた。気が付くと誰もいなくて、みんな家に帰ってしまっていた。こういう事が何回もあった。こらえていた、涙が止まらなかった。泣きながら家に帰る時この木の前を通った。木の根元に座り暫く泣いた。
木はただ静かに立っていた。
近所の子供たちは皆幼稚園に行ってたから、遊ぶ相手は誰もいなくて家の横でいつも一人で地面に絵を描いたりしていた。
父親が毎晩酒を飲んで暴れて「やめて、やめて」と泣き叫んでいた日々。
惨めさと淋しさと恐怖で押しつぶされていた「俺」をこの木は知っている。
急に涙が溢れてきた。胸の辺りから喉を通って万感の思いが溢れてきた。
堪えきれず泣き出した。木の根元に顔を押し付けながら嗚咽に震えた。
走馬灯のように記憶が蘇ってくる。すべてが「哀しみ」一色だ。
そして、鮮明に思い出したのが、部屋の窓から庭でかがんで土いじりをしている母親の姿だった。自分には母親の温もりを感じる思い出が無い。いつも気が付くと母親は庭にいた。母親にとって庭の花々は慰めの一つだったのだろう。だが、昔の俺にはそんな事わからない。
「俺は『淋しかった。淋しくて、淋しくてどうしようもなかった』んだ。
それを知って欲しかった。俺が抱えているこの感情を全部知って欲しかった」
自分のその気持ちすべてを受け入れてもらえていれば…。いや、俺自身こんなに自分の気持ちをはっきりと表現した事はなかった。知って欲しかったのは自分自身なのではなかったのか?俺が俺自身の哀しみを認めなければいけなかったのではないか?この感情を表現しなければいけなかったのでは…。
初めてかも知れないこんなにオイオイと声をあげて泣いたのは。身体の中が空っぽになったように感じた。そしてその空っぽの身体の中を何とも言えないもので満たされていくのを感じていた。
どれくらい時間が経ったのだろうか?
「えっ!」
(あの女…えっ?)
立ち上がって周りを見渡したがあの女の姿が見えない。
慌てて車に戻った。車の中にも居ない。ドアはロックされている。
再び周りを見渡してみるが女は見当たらない。
(いつから?一緒に車には乗ったよな…)
ふっと後ろの座席に白いものが置いてあるのが目に入った。
ドアを開けると座席に封筒が置いてあった。中には一万円札が5枚と便箋が入っていた。便箋には
『ありがとう。 フミ』
と書いてあった。
「えっ?フミ…えっ…フミって…」
暫く頭の中を整理しようとしたが混乱が止まらなかった。
「…嘘だろう?まさかな…フミって…フミタじゃないの?」
『フミ』は母親の名前だ。
確かに、目がどこかで見たことあるような、懐かしいような気がした。
「なんで…」
考えれば考える程混乱してくる。
(いつから消えた?)
坂下に向かおうと車に一緒に確かに乗った。
だが坂下に着いた時にはもう居なかった気がする。着いて降りてからはもう俺自身あの女の存在自体忘れていたような気がした。
(いつ姿を消したんだ…いや!そもそもあいつは誰だ?)
もう一度、便箋に目を通すと
(この字も見覚えがある…)
母親の字そっくりだった。
「まさかな…」
暫く車の中でボーっと考えた。考えたが答えは出なかった。
言葉にするには余りにも現実的ではない事だったから…。
早稲田通り、神楽坂付近を走っていた。
「えっ」
こっちに向かって手を挙げタクシーを呼ぶ女性がいた。
「紗江?」
車が近づき顔がはっきりわかる位置までくると確かに紗江だ。
(紗江…)
俺には気が付いていない。
後ろのドアを開けると体を滑り込ませながら
「すみません、中……えっ!なんで?」
俺に気が付いて驚いている。
「…久しぶり…」
「…えっなに、何やってんの?」
「何って…見ての通り運転手だよ」
「…会社辞めたとは聞いていたけど…」
(なんだ知ってたのか…ふっ…そんな驚くか?)
少しイラついた。
「どちらまで?」
「あっ、えっと、中野駅まで」
「北口、南口、どちらですか?」
「あぁ、えっと丸井のある方だから…」
「南口だな」
「そおっかな?」
車をゆっくり出す。
(まさかこんな風に会うなんて…)
ミラー越しに視線を感じる。チラッとミラーを見ると目が合った。
紗江も驚いて目を見開いた。その後恥ずかし気に目をそらした。
(綺麗だな)
紗江は昔から綺麗だった。でも今は年相応の女性としての魅力が更に増したように思う。
(きっと、今、幸せなんだろうな)
暫く無言が続いた。
信号で車が止まった。
ミラーで見るとドアに左手で頬杖をして外をみていた。
(指輪してない?)
聞いていいものか少しためらったが、
「あの時の人とは一緒になったんだろ?」
チラッと俺を見てすぐ視線を外に戻した。
「……」
返事が無い。
「紗江?」
「ふっ…あの時の人ね…」
信号が変わり車を走らせる。
「私ね…って言うか…あの時好きな人が出来たって言ったの…あれ嘘。」
「えっ⁉」
運転している事を忘れそうになるほどに驚いた。
「噓…って」
「あの頃、私どうしても貴方と別れたかった。だから、好きな人が出来たって嘘をついた。貴方の側にいる事に耐えられなくなってたの…だから、そういえば貴方は簡単に別れてくれると思ったから」
「……」
「でも少しは期待したのよ、『好きな人って誰?』とか『なんで?』とか聞いてくれるかと思ったのに、貴方は『わかった』って。私の予想通りだったけど、我ながら貴方の性格をわかりすぎている事に笑えた。」
「……そりゃ、そうだろう誰だって、好きな人が出来たって言われたら…」
「違うよ!貴方は私の事最初から好きではなかった。」
「……?」
「結婚して直ぐに分かった。ううん、結婚前から少し不安だった。でも結婚して一緒になって、生活したら変わるかもって、でも駄目だった。せめて子供でも出来ていたら別れはしなかったかもしれないけど、貴方積極的に子供つくる気なかったもんね。むしろ子供の事好きではなさそうだった…」
「…じゃ、今は…?」
「今もひとりよ。ずっと…」
「……ずっと」
「やっぱり、貴方、少し変わった。以前のような貴方だったら私こんな事言わなかった。」
(はっ、あの頃の俺一体どういう人間だったって言うんだ)
中野駅の南口に着いた。
初めて後ろを向いて紗江と直に目を合わせた。
(えっ泣いてた?)
紗江の瞳が濡れているように見えた。
「いくらですか?」
「あっ、えっと、2080円です。」
「……2100円出します」
「あ、はい」
お金を受け取りお釣りを渡す
「じゃ、20円のお返し」
「ありがとう…」
「……紗江」
「……何?」
俺は慌てて名刺に自分の携帯№を書いて紗江に差し出した。
紗江は驚いている。
「電話くれないか…あの…良ければその…食事でも…」
名刺を持つ手が微かに震えた。
紗江が名刺を受け取りながら
「いつ…してもいいの?電話…」
「あぁ、うん」
「でも、この仕事じゃあ貴方がいつ寝ているかわからないから…」
そう言うと名刺に携帯№を書いて俺に名刺を返してきた。
「貴方から頂戴。私は夜6時以降なら大丈夫だから」
「わかった…」
「あっ、待って一応貴方の番号携帯に入れとく…番号変えたのね」
(俺の携帯番号覚えているのか…)
手際よく俺の携帯NOを自分の携帯に入れている。
「はい」
名刺を受けと取った。
「滝本紗江 080-4492-37○○」
(本当に旧姓だ)
素直に嬉しいと思った。
ドアを開けた。
降りようとする紗江がもう一度振り返って
「私ね、貴方の事本当にすきだったのよ…」
「えっ…」
「電話待ってます」
そして車を降りて一度も振り返らず人込みに紛れていった。
暫く紗江の後ろ姿をみつめていた。
(今度は…俺から…だな)
END