8・クリスハイル家の事情
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王妃と交わした約束の返事が、王家の使者によって届けられた。
(意外と早かったわね。でもこれで、ようやくヘレナ叔母様に話せるわ)
エルーシャはさっそく、自邸から歩いていける距離の施療院へと向かう。
叔母は施療院の敷地にある別棟、動物用の看護室にいた。
辺りには心を落ち着かせる薬草の匂いが満ちている。
「あら、あのときのフェンリルじゃない? ずいぶん元気になったのね」
やってきたエルーシャを、大きな狼型の魔獣フェンリルが尾を振って出迎えてくれる。
フェンリルは以前重い魔病で苦しんでいたところを保護され、エルーシャの『魔力浄化』で治癒した。
あのまま魔病を放置していれば荒魔獣となり、自他ともに悲惨な運命を辿っていただろう。
「エルの魔病治癒は完璧ね。もうフェンリルからは魔力の乱れた嫌な匂いがまったくないもの」
フェンリルのそばには、白衣を着た叔母のヘレナがいた。
彼女はなにかを探るように、形のよい鼻をわずかに動かしている。
エルーシャの母の妹である叔母は、嗅覚系の天恵『魔力判別』を持っていた。
その力を薬の調合に活かし、長年にわたり薬師として活躍している。
今はエルーシャの母の侯爵位を継承して、このジュファティー領を治める女領主でもあった。
「ヘレナ叔母様は相変わらず、特別な天恵ね」
「エルが言うの? 私も才能あふれる人たちに囲まれて育ったけれど、一番驚かされているのは間違いなくあなたよ。エルに『癒せない魔病はない』のでしょう?」
「癒さない魔病ならあるわ」
今まで誰にも言ったことのない話だ。
叔母の目にも興味が浮かぶ。
「それははじめて聞いたわ。一体なぜ?」
「一度だけ、癒さないでほしいと望まれたことがあるの」
「でも……その人の体調は平気なの? 魔病をそのままにするなんて、本人や周囲にいる人たちの体調が心配だけれど」
「魔病には個人差があるわ。その方は外見に変異が起こっていて、誰にも実害を及ぼさないものだったの」
「そうだったのね。でも魔病で変化した見た目を戻したくないなんて、一体なぜかしら」
それはエルーシャも不思議だった。
「でも本人が病んでいるわけではないし、深く聞かなかったの」
エルーシャの脚をふんわりとした毛が撫でた。
フェンリルは話し込んでいるエルーシャの気を引こうと、甘えた様子で巨体をすり寄せてくる。
エルーシャと叔母は周囲に誰もいないことを確認した。
「ヘレナ叔母様、いつも独り占めしているのでしょう?」
「そ、そのことは言わないでちょうだい。私より先に、エルがこっそりしていたのは目撃してるのよ」
「そ、そのことは見なかったことにしてちょうだい」
ふたりは共犯者のように頷き合い、静かにフェンリルに近づく。
そしてその巨体に思い切り抱きつくと、包み込んでくる柔らかな感触を堪能した。
しばしの無言の末、叔母は至福のため息をつく。
「そういえばアライダ王妃殿下に依頼されていた、魔力測定石の改良はうまくいったの?」
「ええ。今年の展覧会に推薦してもらったわ」
「すごいじゃない! だけどそれって……5日後に開かれる展覧会のことよね? 王国の研究機関で精査する時間を考えると、間に合うとは思えないけれど」
「だから裏技を使ったの」
「ふふ、相変わらず頼もしいわね。エルが魔力測定石を改良するなんて、あなたの両親も喜ぶわ」
叔母の表情も嬉しそうだ。
「それにロイエももう、あなたの邸館まで押しかけてこなくなったのでしょう? よかったわね」
「ええ。アライダ殿下に相談してからぴたりと収まったわ。今は快適よ」
「どうやらエルと婚約してからの彼は、ずっとそんな感じだったのね……」
叔母はフェンリルの毛なみに頬ずりしながら、表情を曇らせる。
「ロイエは本当に、彼の兄がとり憑いているのかしら」
「兄がとり憑く?」
なんの話かと、エルーシャは叔母を見つめる。
「あら、聞いたことはない? ロイエに双子の兄がいたのは知っているでしょう」
叔母は部屋を見回し、他者がいないことを確認する。
それでも誰かに聞かれることを恐れるように、フェンリルのふかふかな腹の上で声をひそめた。
「今から6年ほど前かしら。あなたより3つ年上のロイエは当時14歳くらいね……。そのころの彼は青髪の父親に似て、礼儀正しい子だったらしいわ。逆に双子の兄、ノアルトの方は母に似て性悪だと有名だったの」
その話なら以前、お茶会の席で聞いたことがある。
「ロイエの父親が魔獣討伐に向かって亡くなってから、ロイエの双子の兄の素行が荒れはじめたという話ね」
ノアルトは高慢で、来客にも粗暴な振る舞いばかりだった。
努力はしないが優秀な者に嫉妬し、気に入ったものは人の物でも当然のように奪う。
剣を学べば守るためではなく脅しに使う。
彼の突然の現れた横暴な態度に、人々は噂した。
ノアルトは父親を失ってから、心のバランスを崩したのだろう、と。
「そんな彼は最期、嫌がる妹を魔獣の森に連れ出して、兄妹ともに魔獣に襲われて命を落としたそうよ。彼らの乳母もふたりがいないと気づいて、後を追ったまま行方不明になったって……」
「ええ。ノアルトは自業自得だけれど、彼の被害を一番受けていたらしい妹と乳母は散々な結末だって……。お茶会の席でも、みんな同情していたわ」
騎士団長だった父親を失ってからの異変は、ノアルトの変貌だけではなかった。
そのときを境に、クリスハイル家は経済力も影響力も落ちぶれはじめている。
ロイエたちの母親は当時、クリスハイルの女領主だった。
しかし彼女自身も体調を崩し、引きこもることが増える。
そのまま容態は回復せず、数年前に亡くなっていた。
今はロイエが公爵位を得ているため、彼の母のクリスハイル領を世襲している。
「ロイエが武勲を上げて、ついに荒魔竜を倒したときは、私もエルの婚約者にふさわしいと思ったの。クリスハイル領が再興するのではないかと、周囲から期待もされていたのだけどね……」
ロイエは英雄になった途端、剣を握ることをやめてしまう。
領地経営も家令たちに任せきり。
そしてエルーシャ以外の女性と遊び歩き、賭博と散財で借金を作っては自領地の運営費用からくすねていると、もっぱらの噂だった。
「ねぇエル。あなたをロイエと結婚させるのは、この国にとっても損失のはずよ。誓約書の内容を確認して、王家に交渉してみてはどうかしら」
「そのことなんだけど……実は王妃殿下を介して、国王陛下から新たな婚約者を立てる提案をされたわ」
「まぁ!」