27・その後の姿
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しかしノアルトは妹たちを見つけるより先に、荒魔竜を倒した。
その直後に断崖から落ち、滝にのまれた。
意識が遠のいていく。
それを阻む警鐘のように、別の自分が叫んでいた。
――まだ生きたい。生きて帰りたい。
(俺は自分であることを諦めていたはずだったのに。こんなに強い感情が眠っていたのか)
彼女が教えてくれた。
(エル……)
気づけばノアルトの目の前に、願っていた人がいる。
(これは夢なのか? でも夢にしても、どうしてそんな顔で……)
エルーシャは笑ってはいなかった。
川辺に倒れたノアルトを案じるように、なにか話しかけてくる。
(聞いている人が安心するような、やさしい声……彼女だ。間違いない)
エル、とかすれた声で呼ぶ。
言葉は届かなかったかもしれない。
それでもエルーシャはあの笑顔を見せてくれた。
「もう大丈夫ですよ、お姉さん」
(ん?)
*
ノアルトは施療院に運ばれて治療を受けた。
自分についての事情をいっさい話さなかったが、エルーシャも無理強いしなかった。
彼女は時間の許す限りノアルトに付き添い、心を込めて介抱した。
そのおかげもあり、ノアルトは数日の療養で施療院を出られるほど回復する。
身元を明かさなかった彼は、エルーシャの暮らす邸館に孤児の名目で保護されることになった。
邸館に着くと、エルーシャに連れられて個室をあてがわれる。
ノアルトは壁に埋め込まれた全身鏡に気付くと、真っ先に駆けつけた。
そこには見覚えのある若い女性が、こちらを見て驚愕する姿が映っている。
「そろそろあなたの名前を教えてくれるかしら?」
「ティアナ……」
「素敵な名前ね、ティアナ。私はエルーシャ。みんなはエルって呼んでるの。ティアナもそうしてね」
(この姿はティアナの若いころだ、間違いない)
ノアルトが最後に見た乳母は、母親の黒魔術の影響で老婆のような姿に変わっていた。
しかし彼は覚えている。
乳母が1枚だけ持っていた写真には、今より若く快活そうな彼女が写っていた。
ノアルトは写真の中の乳母を思い出すたび、胸が痛んだ。
いつか彼女の黒魔術を解きたい。
どうにかあの健やかな姿を取り戻したいと願い続けていた。
(でもまさか、俺の姿がティアナの若いころに変化するのは……なんか違うような)
「ところでティアナ。あなた、魔病で姿が変わっているわね?」
「!」
迷いのない指摘に振り返る。
エルーシャは相手を安心させるような、穏やな笑みを浮かべていた。
「大丈夫、軽度だからあなたや周囲の人に害はないわ。ただ勝手に魔病を治したら、変化する直前の姿に戻ってしまうの。だから一応本人に確認を取ってからにしようと思って。今、治癒していいかしら」
「待ってくれ!」
「?」
ノアルトは鏡に映った自分の姿を見る。
どこからどう見ても「待ってくれ!」という言葉づかいに違和感があった。
「……待ってくれますか?」
「ええ。でもどうしたの?」
(もし俺の魔病が解けてノアルトの姿に戻れば、ロイエが2人いると噂になるはずだ。そうなれば、俺がロイエではないとバレる……)
おそらく黒魔術で人質にされている妹の心臓は止まる。
ノアルトはもう一度鏡に映る自分の姿を見た。
「私の魔病は治さないでくれますか?」
「えっ、治さないの?」
「お願いします。姿が変わっていることを、誰にも知られたくないんです」
(それに今知られれば、俺が施療院でエルに介抱されていたとき、女性になりきって渾身の演技をしていたこともバレる……)
ノアルトの切実な顔を見て、エルーシャはいたわるように彼の肩に手を置いた。
「わかったわ、ティアナの魔病については私たちだけの秘密にしましょう。安心して。まだティアナの話を聞いていなかったし、あなたが魔病を起こしていることは誰にも言っていないから」
エルーシャは事情があると察したのか、なにひとつ追求しなかった。
「しばらくはゆっくり休んだほうがいいわ。わからないことや心配なことがあったら、遠慮せずに聞いてね」
「……ありがとう」
「いいわよ。それに元気になったら、ここでの仕事を覚えてもらうんだから。私の大切な使用人たち、すっごく頼りになるのよ!」
こうして行き場のないノアルトはティアナとして、エルーシャと孤児の暮らす邸館に身を寄せることになる。
「ただし期限があるわ」
「期限?」
ノアルトの疑問に、エルーシャは微笑んだ。
*
エルーシャは荒魔竜を倒した英雄、ロイエ・クリスハイル公爵と婚約したばかりだった。
1年ほどすれば、彼のもとに輿入れすることが決まっている。
それなのに。
(どうしてエルはロイエに会いに行くたび、あんなに楽しそうにしているんだ?)
信じられなかった。
なにかの間違いだと思った。
(相手はあのロイエだ。そんなことありえない)
でもそのうち気づいた。
(違う。ありえないでいてほしいのは願望だ。俺がロイエに嫉妬してるから)
エルーシャはロイエと会って帰ると、やけに明るくよく喋った。
(……俺が思っていたよりずっと、ふたりは上手くいっているみたいだな)
そうだとしても壊してしまいたいほどの衝動に苛まれながらも、ノアルトは自分の思いをひた隠しにした。
結局行き着くのは、エルーシャの笑顔を奪いたくないという一点だけだった。
それから数ヶ月ほど経った、エルーシャが幸せそうにロイエのもとから帰った夜。
ノアルトは邸館を離れると決めた。
(エルはやさしいから、俺が突然いなくなったら心配して探し回るだろうな)
別れは告げておこうと考え、エルーシャの部屋へ行く。
そして知った。
「ティアナが私の部屋に来てくれるなんて、はじめてね。どうしたの?」
エルーシャはいつものように笑って出迎えてくれた。
しかしその目元は赤く、どう見ても泣きはらしている。
涙はまだ止まる気配がない。
(……エル?)
ノアルトは調理場へ行くと、幼いころ乳母が淹れてくれたハーブティーをふたり分用意する。
それからエルーシャの部屋で話を聞いた。
そしてエルーシャがロイエと婚約してきてから受けた、散々な仕打ちを知る。
どれも許せなかった。
なにより浮気をひけらかす無神経さには、嫌悪感しかない。
しかしエルーシャが一番悲しんでいたのは、ロイエから受けてきた非道ではなかった。
「あのときの約束、忘れろって。あれは嘘だから、そのことはもう話したくないって」
エルーシャはノアルトのプロポーズを忘れていなかった。
(俺は顔も名前も、まともに伝えられなかったのに。エルはあの約束を、ここまで一途に待ってくれていたんだ……)
ロイエはエルーシャの話す内容から、ノアルトが彼女に好意を寄せていると察したらしい。
ロイエはノアルトの優秀さに嫉妬していた。
その歪んだ優越感を満たすため、彼は自分があのときの騎士だと偽った。
エルーシャは騎士に複雑な事情があると気づいていたため、別人のような態度の変化を深読みしていた。
そして彼と以前のような関係を築きたい一心で、ロイエの悪質な嫌がらせにも健気に向き合い続ける。
一方で周囲を心配させないように、明るく振る舞い続けていた。
エルーシャからすべてを聞き、ノアルトはカップを置いた。
手の震えが収まらない。
「荒魔竜を討ったのはロイエではありません」
妹を黒魔術の人質に取られたままでは、それ以上のことを言えなかった。
(だけど俺は、エルをこれ以上ひどい目に遭わせるつもりはない。絶対に)
気づくと、エルーシャは泣き止んでいる。
「ティアナは……英雄が誰なのか知っているのね?」
かすれた声はやけに落ち着いていた。
問われるまま、ノアルトは言葉にせず頷く。
エルーシャの顔つきが変わった。
ふたりはしばらく、言葉もなく見つめ合う。
エルーシャの大きな瞳は涙で潤んでいた。
しかしそれは悲しみに暮れているのではない。
むしろ事実を知った強かさが、妖艶さすらまとわせながら目の奥で底光りしていた。
「ねぇティアナ、あなたにお願いしたいことができたわ」
*
エルーシャは英雄がロイエではなく別の人物だということを、他の誰にも明かさなかった。
しかしノアルトにはわかった。
(エルはロイエの偽りを暴くために動いているんだ)
ノアルトも妹と乳母の行方を探すかたわら、エルーシャに頼まれたことをひたすらこなした。
魔力測定用の魔石の収集を頼まれれば、時間をつくっては魔獣の住む地で泥まみれになって探した。
そしてティアナとしてロイエに近づき、ロイエが英雄とされている証拠の確認に暗躍した。
(後はロイエがエルと二度と関わることもないように、あいつが後悔するほど重い法の裁きを受けさせるつもりだったけど――その方がマシだったろうな)
ノアルトはロイエが捕縛されてから、自分にかけられたひとつの言葉に気づいていた。
(あの方が俺にあんなことを言ったんだ。もうロイエの処遇は決めてあるんだろう。あいつは怒らせてはいけない相手の恐ろしさも知らず、自ら逃れられない破滅の道に……ん)
馬車の隣の席に座っているエルーシャが、ノアルトの肩にもたれかかってくる。
安らかに寝息を立てている姿が、出会ったときの姿と重なった。
(かわいいな。夢でも見てるのか?)
「騎士様……」
思いもしない言葉にノアルトは目を丸くした。
つい笑みがこぼれる。
無防備な寝言すら愛おしかった。
ノアルトはエルーシャの耳元に唇を寄せる。
そしてふたりだけの秘め事のように甘く囁いた。
「エル、好きだよ」
ノアルトはそれから邸館に着くまでの間、彼女の寝顔に見惚れることにした。




