12・お茶会の席で学んだのは
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邸館の窓に月明かりが差していた。
その光だけを頼りに歩く音が、静かに響いている。
階段に座っていたエルーシャは立ち上がり、やってきたその人影を迎えた。
「おかえり、ティアナ。眠っている子どもたちのために、足音を立てないようにしてくれてありがとう」
ティアナはなにも言わない。
無表情で、肩に大きめのカバンをさげている。
(相変わらずそっけないわね)
それはいつものことだった。
ティアナはこの邸館へ来てから、周囲の者を避けているような節がある。
そのため浮気宣言を受けた夜会のことは忘れられない。
ティアナがはじめて見せた「ロイ様~ぁ!」の媚び売りは、お腹を抱えて笑いたいくらいの怪演だった。
(そういえば、ティアナはロイエとデートをしてきたのよね)
ティアナはすでに自室へ戻ろうとしていた。
その動きにわずかな違和感を覚える。
エルーシャはティアナの腕を取り、言葉に詰まった。
ティアナはエルーシャが見たことのない、華やかなドレスを着ている。
そして全身泥まみれだった。
「なにがあったの?」
「ご心配なく」
エルーシャの顔色が変わったのを見て、ティアナは淡々と説明する。
「このドレスは、ロイエが頻繁に利用している商人の店で購入してもらいました。そのあと食事に連れて行ってもらい、夕暮れに北口運河で別れただけです」
(北口運河!?)
エルーシャは出しかけた大声を、慌てて飲み込んだ。
「夕暮れに別れたって……もう日付が変わってるじゃない」
「徒歩で帰りました。ロイエは孤児を嫌がって、この邸館に近づきたがりませんから」
「だけどティアナは」
「気にすることはありません。私は帰りに厄介事に巻き込まれたくなかったので、彼の馬車に乗るつもりもありませんでした」
ティアナは肩にさげていたカバンから、上質な外套を引っ張り出した。
見覚えのあるデザインのそれは、魔獣にでも襲われたのかボロボロだった。
「その外套……」
「ロイエの物です。あきれるほど無防備な馬車だったので、夜盗に襲われたみたいですね。命は助かったようですが」
ティアナはロイエと夕暮れに別れた。
しかし彼女はそのあと、ロイエが夜盗に襲われたときの外套を持っている。
「まさかティアナ、あなたはロイエの次に、その夜盗に会った……というか、襲われたの?」
「はい。ぶっ飛ばしました」
夜盗も後悔するほどの、見た目を裏切る武闘派だった。
「だから見た目は悲惨ですけど、怪我などもありません」
確かにティアナの姿は汚れているが、大きな負傷などは見当たらない。
「だけど夜盗より手ごわい相手がいたみたいね」
エルーシャは近くの部屋から歩きやすいスリッパを持ってくると、ティアナの前にそろえた。
「このスリッパははき心地がいいの。私のお気に入りよ」
ティアナは壊れたハイヒールを脱ぎ捨て、それにはき替える。
「……ありがとう」
彼女はそのまま自室へ足を向けた。
しかしエルーシャは去りゆく手をそっとつかまえる。
「こっちよ。靴ずれの手当てをしなきゃ」
エルーシャはティアナの手を引き、薬を保管している部屋へ向かった。
ついてくる歩き方で、ティアナが痛む場所を庇っているとわかる。
「ねぇティアナ、遠慮をする必要はないと思うの。ロイエと一緒にいることがつらいのなら、私から『もうティアナとは会わせられない』って断ってもいい?」
「あなたがロイエに?」
「私なら平気よ、ロイエにはなにをされても慣れてるし、っ」
思わぬ強さで手を握り返された。
驚いて振り返ったエルーシャは言葉を失う。
ティアナの瞳の奥で、激しい憎悪が揺らいでいた。
「ご心配なく。私には目的があります。そのためならなんでもします」
「……夜盗を拳で成敗するほどの武闘派だから、説得力あるわね」
先ほど不意に握られた強さが、ティアナの思いのように手に残っている。
彼女は普段から本心を見せようとしない。
しかし今はわずかに、秘めていた未知の感情を覗かせていた。
(ティアナは助けたい人がいるのね)
エルーシャは叔母から預かったフェンリルに乗り、とあることを調べていた。
正解だった。
ティアナがこの邸館へ来る前の事情も、おおよその見当をつけることができた。
(私の目的を叶えるには、ティアナの協力が必要よ)
ティアナは自分の弱みをひた隠しにしている。
それを誰かが気づいていると知れば、警戒してこの邸館を去る可能性もあった。
(慎重に言葉を選ぶ必要があるわ)
「ティアナ、私がこんなことを言うなんて今さらだけど」
「気にしないでください。私が選んだことです」
「そう? これからは靴ずれする前に、元々はいていた歩きやすい靴で帰ってきてね」
「あっ」
(やっぱりカバンにしまっていた靴にはき替えること、忘れていたのね)
ティアナは意外と天然キャラだった。
ふたりは薬草の香る部屋へと着く。
「ヘレナ叔母様の薬はよく効くの。ティアナの靴ずれも、きっとすぐ治るわ」
エルーシャは燭台型の魔灯をつけた。
戸棚から薬箱を取り出し、カウチに座らせたティアナの前に屈む。
歩き通して汚れたドレスからのぞく、傷だらけの足が痛々しかった。
(しみないでね)
エルーシャは慎重な手つきで薬を塗っていく。
(私が気づかなければ、ティアナは傷の手当てもしなかったのよね。ロイエと関わり続ければ、こんなことが繰り返されるわ……)
「ねぇティアナ。やっぱりロイエとは、」
「あなたは婚約者の浮気相手にまで、やさしいんですね」
「その言い方は間違ってるわ。ティアナはロイエの浮気相手にならないもの」
ティアナの顔に隠しきれない苦悩が浮かんだ。
エルーシャは静かに微笑みかける。
「だからティアナがこんなにつらい思いをするまで、無理をする必要なんてないわ」
エルーシャは傷口の手当てを続ける。
いたわるように触れてくるその手元を、ティアナはしばらく見つめていた。
「心配をかけてすみません。私はロイエとデートなんて、もうしません」
「よかった。これからはロイエと関わらないのね?」
「はい。ロイエから色々買ってもらったときに、彼がよく利用している商人と繋がることができました。それで十分です」
エルーシャは一安心する。
(ティアナがロイエと関わっていることは、もう心配しなくてもよさそうね。あとは私があのことを、ティアナに切り出すだけ……)
ティアナは重大な問題を抱えていた。
しかし安易に踏み込めば、警戒されるのは間違いない。
(私はまだティアナから信頼を得ていない。だけど展覧会は3日後よ。そのときにプロポーズの返事をするのなら、ティアナの協力が必要……今しかないわ)
エルーシャには秘策があった。
(女性と、おもに令嬢たちのお茶会でよく盛り上がる話といえば……これしかないわ!)




