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僕の家は公爵家で、何不自由ない生活。幸せな家庭。母が病に臥せっていたこと以外は全てが順調と言えた。
十歳の頃、病でベッドから出られない母の代わりに森へ花を摘みに行ったのだ。侍女達に言えば着いてくるだろうと思い朝早くに家を抜け出した。
近くの森には病に効く花があるのだと本で目にしたのだ。静かな森はまだ朝日が差し込まず薄暗かったのを幼かった僕は少し恐ろしく感じたのを覚えている。
薄暗い森でどれくらい花を探したか、正確な時間は分からないまま雲行きが怪しくなりそれに気づかずただひたすら花を探した。そうしてようやく満月のように輝く花を見つけた。
帰ろうと思った頃、土砂降りの雨に見舞われた。あまりにひどい雨で視界が悪く来た道も分からなくなって森を彷徨っていた。寒い、怖い、それが死への恐怖なのか初めての経験に対する恐ろしさなのかは分からなかったが今思えば両方だろう。
体力が雨に奪われる中、ようやく雨を凌げそうな洞窟を見つけた。その時にはもう洞窟の中に何かいたらどうしようだとかそんな事を考える余裕は無くなっていて、逃げるように洞窟に駆け込んだ。雨が止むのを待って止めばすぐに帰ろう、そう思った矢先、背後に気配を感じて勢いよく振り返るとそこには黒いローブに包まれた大人が横たわっていた。
「ひっ…」
つい漏れてしまった声に慌てて口を覆うがもう遅かったのか黒いローブの男は静かに言葉を紡いだ。
「…誰か、いるのか?」
重たそうに体をゆっくり起して壁に寄りかかってこちらに顔を向けた。ローブで顔ははっきり見えなかったが声から若い男であることは予想ができた。
「…いいとこの坊ちゃんがなんでこんなとこに?…いや、どうでもいい。」
ふい、と顔を背けて一つ息を吐いた。一歩後ずさって気がつく。ローブから少しだけ見える足から血が出ていることを。
「その足、どうしたんですか…?」
「あ?…お前じゃどうもできねぇから気にすんな。」
自分でも何故怪しい男に声をかけたのか。あの頃の僕は今よりもずっと、優しかった。
「僕、手当てできます。少し、見せてもらえませんか」
「嫌だ。これは、お前みたいな普通の人間が治せるもんじゃ…」
面倒くさそうに横目でこちらを見た気がして、手に持ったままだった花を少し強く握れば男は慌てて声を荒げた。
「お前!それ、どこで…なぁ、その花。俺にくれねぇか?」
顔を上げた時に少しだけ見えた瞳は真っ赤で吸い込まれそうな瞳に心が揺れた。けれどこれは母の病に効くかもしれない。もしかしたら治せるかも。とはいえ目の前にいる男を見過ごすわけにもいかなかった。そんな小さな正義感が邪魔をしてすぐに答えが出せなかった。
「…渡せねぇ理由があんのか?」
「あ、母が病で…もしかしたら効くかもって本で読んだから。」
すると男はわざとらしくため息を吐いた。
「そりゃあムーンルメッドって花だ。普通の病には効きやしねぇよ。治せんのは魔力の籠った傷だけだ。」
「魔力…?」
「あぁ、…っ」
突然胸を苦しそうに抑え、息が荒くなる。怖くなってその花を男に渡した。このまま死なれてしまっては、そんな気持ちもあった。すると男はゆっくりその花を受け取り何かを呟いた。その瞬間眩い光に包まれて辺りを照らした。先ほどまで流れていた血は跡形もなく消えて男の呼吸も正常に戻ったようだった。
「…ありがとよ。はー、こんな坊ちゃんに助けられるとはな。ま、なんにせよお前に助けてもらったのは事実。魔導士は恩はきちんと返すんだ。」
そういって手の上にヒヤリとしたものが乗せられる。驚いて手の上に乗せられたものをまじまじと見るとそこには銀色の懐中時計が銀色に輝いていた。
「そいつは時を戻せるんだ。俺を助けてくれた礼にくれてやる。おまえの人生の過去のどこかに戻れる。ただ気をつけろよ。お前が時を戻すたびに一つ失われていくから。」
男の話は俄かに信じ難いものではあったが先ほど見た眩い光。今まで見たことのない光景にその言葉を疑うことはなしなかった。
「ありが……え?」
視線を男に戻そうとしたが先ほどまで居たはずの男は最初からいなかったように、静寂だけがそこに残っていた。外を見るといつの間にか雨は上がっていた。
家に帰ると使用人たちが駆け寄ってきて心配そうに僕を抱きしめた。その後両親に酷く怒られた後、母は泣きながらごめんね、と謝ったが僕が欲しかったのはそんな言葉じゃなかった。お母様に頑張ったね、すごいねって褒めて欲しかったんだ。悲しい顔をさせたかったわけじゃない。
母の誕生日から数日後、よく晴れた日、母は息を引き取った。部屋に引きこもっているだけで父や姉は酷く僕を心配した。使用人たちにも当たり散らしてついに僕の部屋に訪ねてくる人間はいなくなった。そんな時ふとあの日のことを思い出した。あの日から触れることのなかった懐中時計を取り出して空っぽの心で祈った。
「お母様に会いたい…もう心配させないから。お願い、時間を戻して」
すると目の前が暗くなって段々と意識が遠のいていった。それが初めての回帰だった。