第三話【起点】
暫く男が場を離れたからだろうか、流我はほんの少し冷静さを取り戻していた。
先程まで倒れていた場所には段ボール箱が数十個ほどあり、もっと大きい段ボールは畳まれ、壁に立てかけてある。
流我のすぐ隣にある鉢だが、陶器製のものが十数個、プラスチック製のものが五十個程だろうか、
積み重ねられ、置いてある。
その他、ブルーシートに覆われた何かが倉庫の床面積を減らしている。中身は分からない。
隠れ場所が多い事は、流我にとってはプラスに働くだろう。
(居ない!?)
やっと気付けた。
初め、奥に座っていた巨漢はいつの間にか居なくなっていた。
そしてもう一つ。倉庫の扉が閉じている。
巨漢が出て行った時に閉めた。
そうとしか考えられない状況だが、流我の視点では違う。
「あの大男はどこに行った?いつ動いたんだ。」
人が歩けば音が鳴る。扉を閉じても音が鳴る。
加えて、流我は扉と巨漢の間を見ていた。吹き飛ばされた時、壁から壁の間をだ。
「あのなぁ…。」
「冷静じゃねぇのは分かる。俺がやってんだから。」
冷静さを欠くこの状況は、確かに男が作ったものだ。
しかし、「やっている。」とはどう言う意味だろうか。
それでは今も尚、男は冷静さを奪い続けている事になってしまうが。
「でもさぁ。これぐらい分かんだろぉ?せっかく良い所なんだから、勘弁してくれよなぁ!?」
流我に近づき、男はそう言った。
その表情は見るに耐えないものであったが、「目を逸らせば殺される。」と思わせるものでもあった。
近づいて来た男に対して、流我は金属棒を振る。
当然避けられるが、もう一度見た男の表情は笑顔であった。
男はゆっくりと歩みを進める。
10m、5m、3、2、1…。
鈍い金属音が鳴り響く。
男は素手で殴りつけ、それを受けた金属棒は表面の鉄部分に跡が付いていた。
(バケモノが…!)
流我は直ぐに反撃する。
右下に構えた金属棒を男の顎に打ち付ける。男の脳が揺れる…筈だった。
「人間にしては強いだろ?お前。」
強いってなんだよ。
普通の人間は生き物を全力で殴打したりなんかしねぇんだよ。
歯を食いしばり、流我は攻撃を続ける。
膝、手、喉、脳天。どれも全く効かなかった。それどころか、大抵の攻撃は避けて躱される。
偶に当たっても有効打にならない。
「遊ばれている。」と感じたのはいつ以来だろうか。手加減せずに遊んでくれと言ってきたあのガキが、もし今の自分と同じ気持ちだったのなら「悪いことをしたかな。」と思ってしまう。
もっと遊びたかった。もっと遊んでやればよかった。
もっと勉強して、もっと友達を作って、もっと色んなとこに行って、もっと楽しんで、それで、それで…。
「もっとやれると思ってたんだけどなぁ。調子乗り過ぎちまったかなぁ。」
「やっぱダメだなぁ、俺は。合って無ぇ。」
左の腕から赤い液体が流れ、髪の毛は赤黒く染まり、右手の小指は真っ青に膨張し、腰から下は動かない。
「聞こえてるかぁ?まぁ、変事出来無ぇわなぁ。」
男は流我に話しかける。
死ぬ間際まで残っている感覚は聴覚だそうだ。聴きたい声も、聴きたく無い声も、それを示す方法は無い。
(痛ぇ…。見えねぇ。動かねぇ。)
このバケモノに勝つ術は無いだろう。
警察も、連れ去られた少女を忘れる事しか出来ない。
(ミント…お兄ちゃんが、助けてやる。)
漫画の主人公みたいに、海の向こうのヒーローみたいに、強い力があれば、助けられたかもしれない。いやそもそも、ヒーローなら連れ去られる事自体が無かっただろう。
(分かってたんだ。最初っから、全部。)
(最初の攻撃から、あいつが古い鉢ぐらいで死なねぇって。分かってた。)
俺は無駄に優しくて、目の前の敵を攻撃出来ない。でも頭が良いから、割り切れる。今でだってずっとそうしてきたんだ。ずっと、動きたくない身体を動かしてた。
(この状況で殺したくないだと!?甘えんな、ゴミが!!)
痛い…、死にたくない…ミントを助けたい。
父さんに会いたい、母さんも、ミントも、みんなに会いたい。
痛い、動きたい、死にたくない、痛い、逃げたい、勝ちたい、死にたくない、殺したくない。
(あークソ…もうダメだ。もう死ぬ。)
内臓いくつか終わってんな。
死にたくねぇな、生きたいな、逃げらんないな、攻撃したくねぇ、みんなに会いてー、会ってくだら無い事で笑いてぇ、痛ぇなぁ、動かせねぇなぁ、死ぬ。
「殺す!!!」
流我が叫んだ瞬間、男は床に突っ伏すことになった。