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アゲハ蝶の燃える季節  作者: YUU*
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アゲハ蝶の燃える季節

 芋虫になれたらいいのに。どんなに醜い姿をしていても、どんなにつらいことがあっても、葉っぱの影に隠れてしまえるから。

 そしてうつくしい蝶になって飛びたてる。

 だれもわたしに触れない世界へ。

――「パッチ・アダムス」

カリン・フィッシャー



 さて、ぼくは些か途方に暮れている。

 とっくに涙は枯渇していた。が、胸の一角にこしらえた寂寥の雨でつちかう肥沃は、乾涸びるきざしがなかった。永遠のような孤独に濡れそぼつ、数時間後の終焉をめざして横殴りの風にまざりながら降りかかるこの霧雨みたいに。

 宵の口。三日月状につらなる低山脈のとある裾野、民家の少ない盆地には、さっきまでNPO施設レモン・ピープルが建っていた。そう、ついさっきまで。

 盲目の蝸牛みたいな歩調をとめて、かつて風車のある庭園だった場所にたたずむ。

 ぼくとあいつにとって、宝石のような日常を過ごした、青春と学芸の園。あたりいちめんは雪景色だけど、ここだけ焦土が広がっていて異様なコントラスト。さながら、希望をまるごと搾りとった『クリスティーナの世界』か。約二万平方メートルの敷地は今じゃすべて焼け野原だ。なぜって、ぼくが焼き尽くしたから。おお、この胸を射貫く呵責の矢は、命が尽きるまで抜けないつもりか。こんなぼくの心を撫ぜる風は、罪悪感で吹きすさぶべき? ぼくを裁くのはだれ? 鞭を打てるのは、生を受けてからいっぺんも罪を犯したことのない者だけだというのに。

 きっとボブ・マーリーは笑う。“指を差してぼくを避難するまえに、きみの手が汚れてないか確かめてみてくれ”と、草葉の陰でマリファナ煙草をくゆらせて。

 風車の羽根が焦げカスとなって崩壊していく眺めは、リスの齧ったどんぐりの残骸が木からひらひらと落ちるシーンを想像させる。

 燃え盛る炎は、重力を無視したロケットのごとき凄烈さで空間を歪め、煤灰が散る不穏な風を煽るよう指揮を執る。その狂乱の五線譜を奏で上げるのは、ぼくだ。

 炎の手。過酷を司る調べのまにまに、清澄たる業火を唸らせる、呪われた手だ。

 これはぼくの罪。

 あいつを救えなかった罪の十字架。

 と、焼け朽ちた本校舎の片隅に、無傷で、木製の揺り椅子が目に入る。なぜだろう、妙に動悸がするのは? 嫌な予感の高鳴りに反して、ぼくの意識は追想へと馳せてしまう。それは飛びたった蝶がふり撒く、

目に見えない鱗粉を追いかけるような感覚に近い。と、すぐに重要そうなイメージの切れ端を摘まんだ。あれは約五年前で、蝉の鳴き声が耳をつんざく夏真っ盛り。グラウンドのテニスコートを目隠し鬼ごっこで駆けまわる生徒たちの笑い声。暖かく湿った風に樺の木はそよぎ、銀色の木漏れ日が瞬く。庭園の緩やかな丘に満開のサフィリアやマリーゴールドは咲きこぼれて、千紫万紅の絨毯が敷かれ……。映画技法のひとつで、ある映像に映った物体がさりげなく別の物体に変わるモーフィングのように、情景が切り替わっていく。

 そんな中、ぼくは二人掛けのロッキングチェアに身を委ね、読書に耽っている。でも、まだだ。まだ足りない。真横にもうひとりの少女――記憶の不明瞭さがこしらえた霧は、彼女の顔をじれったく露にする――が花冠を編んでいる。息が混ざり合いそうな距離で、枝分かれまではっきりと判るウィップスパイダーのような睫毛は、瞬きひとつでぼくの胸に竜巻を起こしてしまう。童顔に奇妙なアクセントを飾る鷲鼻に見惚れるのもぼくだけではないはず。肩でかろやかに跳ねたブレイズヘアの色は、トウモロコシの雌しべにそっくり。健康的な茶褐色の肌に光る汗は眩しく映え、タンクトップにターコイズブルーのタイトパンツという開放的な身なり。どうやらぼくは眠ってしまったらしい、甘いピンク色のカーディガンがからだに掛けられている。同時に、なつかしくて甘い香りもただよう――おそらくチューインガムとシャンプーの強い匂いのせいかも。少女は鼻歌を歌いながら、ビーチサンダルで空中をぺしぺし叩いている――まるで泳ぎかたを知らないカワウソの蹼みたいに。ああ、眩暈と息切れでくらくらする。すでに不穏な予感は責苦の外套という確固たる姿になり、ぼくの肩にのしかかっていた。だけど、この思考はとめられない。ぼくの拒絶に追憶が割りこむ。その間も眼のまえでは、炎の海が手あたり次第にあらゆるものを手繰り寄せては目に見えない血飛沫をあげている――そのときだった。

「うっそ、もしかして、また歌っちゃってた? 全然気づかなかったよ、ふひゃははは! お詫びに、あたしを団扇で涼ませる権利をさとっぺに譲渡してあげるっ」

 ぼくは息をのむ。

「どうしたの間抜けな顔して。暁だから、さとっぺ。われながら名案でしょーセンスが光っちゃった、いっひひひ」

 霧は晴れた。

 大脳皮質に塞いでいた記憶がフラッシュバック。あいつ――東雲みぞれの自信に満ちてかがやく水銀の瞳には間抜けな顔をしたぼくが映り、闇に埋没させたはずの過去なんて皮相的な論理削除にすぎなかったと思い知らされる。

 無窮の灯。朽ちる素振りをみせない過去の火種が、ロッキングチェアや花壇や風車の見晴台に飛び火して、かつての思い出を映しつづけるプロジェクターに変身してしまった。

 うんざりだよ、この鬱屈した気分には。

 ぼくの中であいつが蘇るのは何度目なのか、すでに数えきれない。

 押し殺していた感情が舌に縺れる。四肢の抹消神経まで痺れる感覚のソースは、擾乱を恐れる猜疑心? 劣等感の裏返しによる虚栄心? 否定しかできない未熟な感傷に溺れた自尊心? 嘔気をうながす耳鳴り。全身の毛穴から噴出する、ある種のアドレナリンに戸惑う。ああ、喉が渇く。苦しくて焼けそうだ。

 考えてみれば、靴墨をぶちまけたような生涯を歩んできた。吸い込む空気は喪失で、吐き出す息は哀惜だった。まるで絶望のメリーゴーランドに振り回されている気分。この五年間、ぼくにさだめられた役割はなんだったろう? 哀れで惨めな三文ピエロ? 湿気った花火にそっくりのやるせなさが腸に燻っているから、体中の毛穴から細く伸びる黒煙は天に伝う糸みたいで、ぼくは自分のことを傀儡人形かもしれないと本気で疑う。

「ほんとに、やれやれって感じだよ」

 告白しよう。

 東雲みぞれはぼくのすべてだった。ティーンエイジャーの手垢にまみれた常套句だと笑われてもかまわない。ぼくの生き方は彼女を模倣したものだ。あいつの言葉はぼくの細胞で、あいつの体温はぼくの世界に色彩を贈り、あいつの笑顔はぼくの前視床下部にある熱産生を狂わせ、あいつの想像力はぼくのペースメーカーだった。

なのに。

絶望的な瘴気の揺蕩うこの季節に、ぼくはこう名づけよう――アゲハ蝶の燃える季節と。



★☆★☆



 夜は老けこみ、霙のまざった冷たい雨が降りつづく。きっと朝には雪になる。水平線が朝を引き摺りだすとき、ぼくは現世にいないのだから知る由もないけれど。

 腐蝕した六階建ての廃ビル――環光町の郊外にある、枯れ薄が腰の高さまで生えた荒涼とした敷地に聳える、半世紀前に違法建築がバレて建造中断となったショッピングモール。

 天井はふきぬけのまま放置となったおかげで大量の雨が溜まり、かつて地下には堆積物などで最悪の水質を誇る澱んだ池が完成していた。その病原菌の温床に住みついた鯉を目当てに、いつの間にか海外移民の影響で職を奪われた路上生活者の溜まり場となっていたらしい。ぼくはそのエピソードを幼少の頃知った。あれは、そう――《レモン・ピープル》の広場のフェンスを越えた崖っぷちには畑があって、蜜柑の木の陰におんぼろのサニーが捨てられていた。なんと小さき希望の塒! ぼくたちは即座に秘密基地として占拠した。自由時間にはそこで各々がクッキーなど持ち寄り、日が沈むまで喋りっぱなしだったから、唇は腫れて顎はほとほと疲れている。補足すると、十四時になると生徒全員におやつが配られ、その決められた時間に食べることになっていた。だけど秘かにたずさえて、サニーに乗り込むとき入場料代わりに皆に配るルールになっていた。サニーの車内には誰かが拾ってきたトランジスタ・ラジオがあって、それの放送で知ったのだった。

 最終的にその池は、頭の悪い業者が砂で埋めるなんて雑すぎる取り壊し工事に踏みこんだせいで、奥底に溜まった有機物からメタンガスが出て爆発、火災を齊することに。

 エキシビションの大画面には亀裂がはいっている。店舗名をネオンライトであしらった文字はほとんど剥がれていて奇妙な点字みたいになっている。崩壊して剥き出しになった鉄骨は、錆びて腐った血液の臭いを放つ。建物全体を覆う蔦は幾重にもからまって、その迫力はさながら高波を凍らせたオブジェ。

 一階の非常口には、ドリッピング技法を迸られただれかの悪戯描きが残っている。ジョアン・ミロのグワッシュ絵具で表現した抽象画・星座シリーズを彷彿とさせる、自由無垢で奔放なタッチ。

 廃ビルの裏側にとりつけられた螺旋階段で屋上にむかう。悠久の流れの中、揮発性の有機溶剤を希釈して塗られた塗料はかなり劣化している。腐蝕した階段は底が抜けている箇所がある。と、ほとんど割れおちた複層ガラスから内側を覗くと、人けもない伽藍堂。

 フゥーッ。喘息のせいで呼吸が浅い。しかも雨に濡れて冷えるから、血液は四肢末端まで循環できていない。ほとんどの踊り場には、擦過傷にまみれた猫の死骸が無惨にも横たわっている。ぼろぼろになった烏の黒い羽毛にもまみれて、さながら弔いの花。嗅覚を呪いたくなる腐敗臭。自然世界に流れる歴史の系譜によれば、弱者は淘汰される宿命だ。無力に踏みにじられて、死に場所すら選べずに。

 ぼくの腰にはたくさんの爆弾が控えている。金属のマグカップに黒色火薬をぎっちり詰めこみ、ネジ釘とカッターの破片をアクセントに混ぜてビニールテープで密閉にした愛情たっぷり手製爆弾を、パッチワークデニムのベルトハープに針金を通して吊るしている。起爆方法は、市販の花火の導入線に火を点けること。

 黒色火薬のレシピは簡単。まず木炭を磨り潰して硫黄を投入、そこに硝酸カリウムを配合、そして圧磨機で加圧したら、ゆっくり時間をかけて乾燥させる。

 愛。

 これは、ぼくの愛だ。

 あらゆる縛りから解放させてくれる、希望の活路。

 ぼくは思い返す、あの神秘的な教会から眺める夕暮れの湖の美しさを。ぼくの隣には彼女――黄昏夕妃がいて、水面上に散りばめられた一筋の黄陽の眩しさに楽しそうに顔をしかめて、「さとるくんなら、きっと彼女の死を乗り越えることができるよ」と背中を押してくれたこと、それから「もし後悔するとしても、それはすべて出しきってからでも遅くはないよ。ほんとうの自分のきもちは誤魔化しちゃだめ。あきらめることに順応したら、未練もへったくれもないもんね。慰めで吐いた嘘は、独りよがりな真実に変貌してしまう」と、涙を溜めこんだ笑顔で伝えてくれたことを。

 夕妃はあのとき、ぼくの胸に吹き荒れる嵐をあっけなく払いのけ、わずかながら平穏な凪を導いてくれた。でも、きっとむこうはいったことすら忘れているだろう。ぼくのダイアローグにはた迷惑な羅針盤を贈呈しておきながら。

 いつもそうだ。蝶を追いかける野良猫のように自由なところは、そのまま彼女の強みでもあるのだけど。

 あの神秘的な教会――割れたスタンドグラスの窓格子から降りそそぎ室内に舞う埃や床を突きぬけ肩寄せて咲く草花を照らす光、鍵盤ピアノで休む小鳥、山積みにされたトロンボーンなどの楽器は、そよ風にくすぐられて寝息のように静かな音を奏でている――あの空間こそ、彼女の内面世界なのだと想像を膨らませてしまう。

 ひとたび許した感傷は、時の歯車をはげしく巻き戻して、夢のような妄想を編みだしてしまう。

 ごめんね夕妃、ぼくには無理だったよ。

 どうしようもなく、もう遅すぎる。

 ふたたび復活した嵐が、ぼくの精神を最後の一滴まで貪りつづけてるんだ。呪われた手が、絶望のイニシャルを綴りはじめている。

 だから、壊した。

 東雲みぞれの思い出がそだつ場所を、片っ端から巡って破壊していった。

 ここが到達点だ。この廃ビルを爆破すれば、ぼくは目的を達成する。

 これはぼくの愛です。 

 ぼくのことは愛をばらまく天使、ラファエルとお呼びください。

 そうしてぼくは呪われた手から弾ける火種で着火させ、伽藍堂にむかって愛の卵を産みおとす。

 五、

 人生をインスタントカメラに例えたのはだれだっけ? 色彩の欠いたレンズ。確認しなくても、もうフィルムは残っていないと気づいている。あらゆる写真は歴史にとって価値がなく、あらゆる記憶と記録は淘汰される。だれも本質を見抜けずに、欺瞞となり寂滅していく。

 四、

 愛の卵から誕生した死の鳥は、きっと理想とする領域にぼくを近づけてくれる。地上に蔓延ってぼくを飼い慣らそうとする愛と別離、夢と葛藤、誠実と空虚を洗い流しておくれ。

 それが叶わない世界なら死の鳥の背中に乗って無に満ちた僻地にいざなわれたい。だれもぼくを知らなくて、触ることもできない世界へと。

 三、

 二、

 それが解ならば、一、

 爆ぜた。

 孵化した愛の奏でる、轟音のセレナーデ。同時に、のこりの複層ガラスが木っ端微塵に吹きとぶ。割れたガラスの破片はぎらぎらと光って、鰯の群れが織りなすベイト・ボールの一部に見えた。だとすれば、天に伸びていく黒ずんだ煙は海藻のアマモかな?

 ――屋上に着いた。

 不細工な王冠のように凸凹している、かつて屋上と呼ぶべきだった場所は、無観客の死刑執行所にすり替えられてしまった。

 死の縁にたたずむぼくの心境は恐怖で塗り固められるべきなのか。

 ならば、心疾しい。

「ああ、悠然たる森羅万象よ……!」揺るぎなき有限な人生の中、果てしない水平線の幽玄さに目眩がする。

 あいつとの死別から五年の歳月を経てみた。けれど、見当外れも甚だしい。時の経過は優秀かつ無慈悲な修繕師ではなかった。朧げに風化させるだけじゃなくて、深い眠りから呼び覚ます力もそなわっていた。

 あまりにも悲観に暮れて気を失いそう。なんと空虚で醜いのだろう。夢中に着飾って偽って拒絶してこしらえた、胸のうちに潜む暗澹たる領域は、蕩然と膨らむかぎりを知らない。が、この天地無辺の広大さには到底及ばない。

 ぼくにつきまとっていた、あのペテン師……名は確かチャンジー・ウィーゼルだったはず。

 聖職者面をぶらさげた彼の素顔は、天魔波旬の従者。否定しかできない下劣な鑑賞家。我々の尊厳を冒涜する、偽善の代名詞だ。

 せいぜい地獄で悔い改めろ、ウィーゼルよ! おまえの思惑通りにはいかなかったのさ。

 心配は無用。ぼくも間もなく、そちらに逝くだろう。然らばお望みのとおり、この手の炎をくれてやる。しかし、ぼくを手招くは天国か地獄か? いやむしろ、この地上こそ地獄か。そして天国は、皆の心で育まれている。その場所を編み出せなかった、ぼくは創世記の負け犬ってわけ。

 名状しがたきアフロディーテの想念が浮き上がる。

 不浄の魂、ああ無情。

 かつてぼくにも守り抜きたいものがあった。今となれば塵芥みたいな信念だから、ディテールは省かせてもらうけど。

 もし神様が存在するとすれば、こんなに無意味な世界は創らなかっただろう。我々はどこから来て、どこに向かうのだろう。いつまでこんな想いに縛られなければならないのだろう。

 問いを投げかけておきながら――ははっ、嫌気がさして苦笑する。答えなんて知るつもりもないのだと気づかされて。

 もうこのまま消えてしまいたい。だれもいない、暗く湿った、音も光も届かない、完璧の無に飛び去りたい。感情もなければ時間と空間も存在しない、混沌の神殿に迷いこんでしまいたい。

 おお! 魂のくだけ散る音よ、破滅の産声よ、轟け! 一刻も早く輪廻転生からかなぐり捨てられたいと、不可解なカルマから逃げたいと切に願う。

 死ぬことに未練はなく、生きることに執着もない。

 かすれかけた夜に、時は満ちた。

 ディキンソンの有名な詩の意味が、今なら細胞レベルで理解できる。「わたしは自ら進んで『死』のために止まれなかったので――『死』がやさしくわたしのために止まってくれた」

 見渡す限り一抹の不安も転がっておらず、希死念慮は自殺衝動に染め上がっていく。

 ぼくはゆっくりと目を閉じる。今だけなら、この世界を愛せるかもしれない。

「お願いだから失敗しないでくれ」静かな祈りをこめて、

 屋上から、ジャンプした。

 急降下。重力に従って落下していく独特の浮遊感に心臓は粟立つ。降りかかる霙の釘は、背負った十字架ごと肉体を穿つ。

 ぼくは翼の焼けおちたイカロスです。

 加速。瞬きもできず、息を吸った瞬間、空気が入りすぎて肺が破裂寸前に。強ばった横隔膜は機能を果たせず酸欠に陥る。

 片一方の脱げたマカックブーツが空に吸い込まれていく。

 ぼくは手を伸ばした。お願いだから、ぼくを連れ去って――見捨てないでおくれ……

 永遠と等しい刹那――意識が闇に蝕まれていく――


 ようやく起きた。あはは、どっち振り向いてるの、さとっぺ。こっちだよ?

 ああ、みぞれ、本物のみぞれなのか。

 逆にあたしのニセモノなんているの? んふふ、ずいぶんと迷ったみたいじゃん。

 実はそうなんだ、色々なことがあって。

 うん、知ってる。ずっと見てたし。

 見てた?

 うん。見てた。

 そうか。

 大変だったけど、がんばったんだね。

 なあ、みぞれ。ぼくはずっと、きみにいわなきゃいけないことがあったんだ。

 ちょっと待って。せっかくだから、淹れたての紅茶でも飲まない?

 ありがとう。ゼフィールもあるのかな。

 そういうと思って、ばっちりあるわよ。あいかわらず好きなんだね。

 好きなのはきみのほうだったはずだけど。

 え、そうだっけ? まあ細かいことはなんだっていいっしょ。

 あいかわらずだね、安心したよ――うん、なつかしいな、この味。いつも紅茶の淹れ方だけは丁寧だったよね。

  うひゃははっ。きみはいろいろと変わったみたい。なんだか髪も伸びてるし、あとで切ってあげよっか?――ま、とにかく話を聞かせて。

 うん。そうだな、まずは――


 そうしてぼくが追憶の情景を手繰り寄せているとき、埃のかぶった過去の抽斗から、さまざまなシーンがあらいざらいフラッシュバックしていく。その中で、あの場面にたどり着いた。ひらひらと舞いおちるトランプの一枚をダーツが射貫くように。

 あれは梅雨末期の集中豪雨が過ぎ去った、八月。

 ぼくと東雲みぞれが邂逅を果たした、始まりの日だった。

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