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恋愛についての所感

 恋愛というのは特に近代に強調された概念であり、それが崇高なもの、意味のあるものとして取り上げられたのが特に近代という事になるだろう。

 

 私の、今の観点からすると、恋愛は神を失った際の代替物…つまり愛する対象が垂直的な「神」から、水平的な「他者」に代わったもののように感じられる。その事について書いておきたいと思う。

 

 先日も16才の少女が40才の無職の男と付き合っていて、その男に捨てられたくないばかりに、男の言う通りに売春行為をしていたというニュースが流れた。男が逮捕されて、この件は露見した。

 

 この時、女の行為に感動する人はいないだろうが、ただ、この女のしている事は男に「捨てられたくない」が故の行為であって、ここでは恋愛関係それ自体が目的とされているのがわかる。それは、その先に利害や目的があるのではなく、それ自体が最終到達点とされている。

 

 恋愛というものの大きな特徴はこの自己目的化されている事にあるのではないか、と自分はふと考えた。つまり…なんと言えばいいか、要するに恋愛というのは「取り乱す」事ができる類の行為である。あるいは恋愛とは、計算でするのではなく、それ自体を目的として、いわば「狂って」するものだという風に言えるだろう。「恋愛」に対して完全に冷めて、計算づくで相手と駆け引きをするのは、恋愛の自己目的性に反する。そこでは計算が意味をなさなくるほど、自分を失うほどのものだからこそ尊い。そういう感覚というのは人もどこかで感じている点だろう。

 

 だが、実際にそんな恋愛をする人間はいない…また、いても稀であるし、した所で、破滅するのは目に見えている。だからやらないわけだが、ドラマの中ではそうした恋愛が人気を博す。それというのは、人はどこかで、内的なものを外部に押し広げてみたいという衝動を持っているからだろう。だが、現実では破滅に陥るのが目に見えているので、あくまでドラマの中で楽しむに留まる。

 

 ※

 

 フローベールの「ボヴァリー夫人」という名作恋愛小説がある。これは「ボヴァリー夫人」ことエンマが色々な男に恋したあげく、恋に破れて、死に至るという作品である。

 

 エンマはあらゆる恋に挫折する。挫折というのは失恋という意味ではなく、幻滅という意味においてであるが、エンマはことごとく自分の熱情が報われず、実直な旦那の平凡な愛に気づく事もなく死ぬ。

 

 作者はこの作品で注意深く、何故、エンマが全ての恋に挫折するのか、その根拠も説明している。エンマは若い頃にロマンティックな小説を読みふけり、彼女の中で強烈な幻想を育て上げた。彼女はそれを現実の中に見出そうとした。それによって彼女は、絶えず幻滅を味わい、凡庸な死を持って生涯を終わる事になった。フローベールと言えばリアリズムの開祖、写実主義の大家として知られるが、そのリアリズムはエンマの中にある強烈な幻想性がなんであるかを照らし出す為に使われたのであって、ただの写実ではないという事に注意する必要がある。

 

 恋愛というのはこのように、強烈な幻想性と、現実との矛盾という問題に常に悩まされている。…悩まされている、というより、それだからこそ人を惹きつけて止まない、と言った方がいいかもしれない。

 

 優れた恋愛小説とは基本的に「ボヴァリー夫人」のように悲劇でなければならない。幸福な、ハッピーエンドの恋愛小説は本格的な悲恋小説よりは一段劣る。それは何故かと言えば、恋愛の本質が悲劇に終わるものだからであろう。現代では、そうしたものをぼやかして考えようとしているが、それは嘘であると思う。

 

 恋愛が悲劇に終わるのは、他者、人間というものが相対的なものに関わらず、そこに絶対的なものを見出そうとするからだ。私はそこに神を失った後、絶対性をどこに置くかという問題と関わっていると感じる。

 

 人間というのはいずれしろ、相対的なものである。それは変化するし、揺らぐものである。仮に誰かを愛する、それが永遠である、絶対である、という風に考えたとしても、現実はそうではないので、必ず破滅する。

 

 アベラールとエロイーズのように、その時、瞬間的な恋情に捉えられ、その瞬間が「絶対」であると感じられても、それが永遠に続くという事はない。時間の中で、瞬間的な快楽・愛は相対化され、現実の座に留まり続ける事はできない。いや、仮にそれが現実に留まり続けたとしても、その瞬間は次の瞬間、またその次の瞬間というように、永遠に「次」を求める事になるだろう。しかし彼らにはやがて倦怠や疲労が訪れる。問題は我々の内部にあり、この内部が、内部性自体を絶対化しようとしても、それによって世界の中を遊動して生きる自分達の存在を否定する事はできない。人間は死すべき存在であるが、正確には、人は生を生み出す事によって死をも生み出しているのだから、死は否定できない運命であろう。

 

 逆に考えてみると、現代の、「満足した恋愛」を賛美している人は、そもそも求めるものが低いのだ、という風に言えるかもしれない。悲劇を生み出すのは精神の力であり、求めるものが高いからこそ、そこまで至らない人間という存在がよりはっきり見えてくる。悲劇の、悲恋の小説の高尚さはそこに端を発している。

 

 一方で、現在のような、物質的幸福を第一にする社会では、低い意欲の持ち主ほどたやすく幸福にたどり着いたと自惚れる。彼らが悲劇というものに思いが至らないのは彼らが求めるものが低いからであるが、倒錯した精神からすれば、悲劇作品は「無駄に問題を起こしている」という風にも見れる。人間は、自分が神でない事を知る為には神(神に値するもの)を求めねばならない。近代の偉大な悲恋小説は、神を喪失した人間が、人間の内側に神を見出そうとして挫折した物語として見れるのではないか。私はそんな風に考えている。

 

 ※

 

 以前の文章でバッハの幸福について私は書いた。その論旨で少し考えてみたい。

 

 バッハが幸福だった、というのは彼が神と直に繋がっていたからだ。彼はまだ神という名の安定した共同体の中に位置していた。少なくとも、そう自分を感じていた。また彼は神と彼を繋ぐ「音楽」という手段を有していた。天に登っていく梯子のような彼の音楽は、神に包まれた幸福と、人間世界においては彼の内にあるものを誰一人、自分以外の誰も知らなくても全く気にしないという、近代的な苦悩と外れた精神があるのを感じる。その音楽は垂直に天に登っていく。その間に人間がいたとしても、人間は目的ではない。

 

 この文章の延長で考えていくと、バッハは「恋愛」を知らなかったがゆえに幸福だったと言えるだろう。それはバッハが恋愛感情を持たなかったという事ではない。他人との関係を自己の中で、第一義の、絶対的な価値観とする事がなかった為に、というほどの意味である。近代が訪れ、垂直的な、人間を貫く価値観が崩れ、相互の人間は裸になり互いを求める事になった。

 

 しかし近代文学の優れたものはこれらの個人がどこへ行くのかまでをも描いているように見える。現在はそれらを乗り越えたような外見をしているが、個人の問題を社会の問題に移し替える事によって、いわば「個」を抹消する事によって問題を解決したかのように思い違っているのではないか。それはある意味で、中世への帰還を意味しているのかもしれない。

 

 ちなみに日本にも「神」に相当する垂直的な、封建社会的な価値観ははっきり存在した。だからこそ、そうした旧秩序と近代とがぶつかる事によって、我々のよく知る日本近代文学が生まれたのだった。その苦闘については人も知る所であろうし、ここではくどくど書かない。

 

 ※

 

 さて、恋愛というものについて書いてきたが、現在の人間は、恋愛についてはもう十分知っている、という態度を取っている。というのは彼らはそれらを経験し、実行もしているからであり、それについては、常識的なレベルでは異論はない。

 

 ところで、優れた近代文学においても、多く恋愛がテーマに取られている。だから、現代の作家もまた、「恋愛」というテーマの共通性だけを念頭に置いて、そうした作品を書き、それによって「自分も文豪ではないか」などと考える事が可能になってきている。ゲーテや漱石が恋愛を描いているのなら、自分も恋愛を描いていい作品を作ったから文豪だろう、というような発想である。

 

 ここで疑問なのは、現代においては恋愛は社会制度に包摂され、人々の常識にも、規範にも完全に馴染んでしまっているという事にある。恋愛とはかつて禁忌であり、それぞれの内部に花開いた、垂直的な秩序体制に反する僅かな自由の空間ではなかったか。だからこそ、それが何らかの意味を有し、その破滅を描く事にも意味があった。そんな風に感じる。

 

 漱石の作品において「不倫」が重大な意味を持つのは、それが全然許されていない事だからだろう。だが、そうした行為が個の自由として、社会秩序と矛盾する事はありうる、そうした時代が来たようだ、というのが漱石の認識だった。現代では、タレントの不倫が問題視されるとしても、別にそこに重大な倫理違反があるという雰囲気ではない。むしろ、あれだけちやほやされているタレントが不倫などをするのはけしからん、といった態度で、別に倫理の問題を人々がやかましく考えているわけではない。不倫なんてあの家でもやっている、この家でもやっている、というようなものになっている。

 

 現代社会は、近代に生まれた個の自由を社会体制に落とし込む事に成功した時代、と言えるかもしれない。個人の欲望の様々を市場と結びつけ、その中で全てのサイクルが回るようになった。そこで現在我々が見えている奇態な状況ーー反逆者やアウトローを装った人間が実際には、社会体制に合致したつまらない常識人でしかないという光景も現れてくる。反逆にも値札が付けられ、売りに出される。恋愛も同じである。全ては金という一元的な価値観に交換可能となった。

 

 こうした現代における恋愛と、近代における恋愛は種類の違うものだと考える事が重要ではないかと思う。恋愛が、独立した個我の僅かな結びつき、その相互の内部において、肉体の接触においてわずかに感じられる自由であったとしたら、現在はただ社会に容認され、自他に陶酔する事のできる遊戯のようなものでしかなくなっている。もし、現在において真に恋愛を描こうとしたら、それは世間一般からすれば全然「恋愛」に見えないような形になるのではないかと思う。あるいは、人間が自由を求める、そういう精神の発露は恋愛という行為とは違う形を取り始めていると言うべきかもしれない。

 

 しかし性欲そのものは根深いものだから「恋愛」のような形態がこれからも重要なものとなってはくるだろう。ただ、現在において、懐疑もなく、自覚もなく、孤立もなく、ただ淡く市場に溶けていく事と他者と和合する事を第一とする、そうしたものはかつて文学が追い求めていたものとは全然違うとは意識する必要があるように思う。そこでは、求められているのは過去帰りであり、それが過去を超越したかのように見せかけているに過ぎない。

 

 近代において神と人間の垂直的な関係が喪失されてきた時に、人間相互の恋愛という形態が問題となってきた。現在の水平的に溶けていく世界に抗して現れる個や、個同士の関係は何であるか、まだ予断を許さない状況にある。これから、おそらくはニヒリズムを通過しながら、世界のそれぞれで優れた文学者らは見せかけの自由ではなく、そうした、本物の自由を希求する作業を行っていくのではないかと思う。

 

 世界がまだ不分明であったとしても、優れた作家らは直感によって世界を越える個を指向していくだろう。その中にかつての「恋愛」に相当する関係も含まれているかもしれない。そういう意味では色々な事がまだ未知に留まっているし、それぞれの人間が個別に開拓していくしかないだろう。それと比べた時、現代の、全てをもう知っているというようなとぼけた顔は彼が未来を求めないがゆえに現れる表情でしかない。彼らは世界に埋没しているが為に、全て知っている事しか眼前に見いだせず、そこに倦怠も疲労も感じ「られ」ずに満足してしまった、肥えた豚に過ぎない。

 

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2020/07/22 20:55 退会済み
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