揺らがない心
「お前に縁談が来ているんだよ」
という主君の一言に、ナシラは狐色の瞳を瞬いて思わず数秒間考え込み、「はて、執務室に自分と陛下以外に誰かいただろうか」と人影を探して視線を巡らせた。その様子が面白かったのか、主君は机に肘をつき、深緑色の目を細めている。
「ここには俺以外にお前しかいないだろう」
「……念のためにお聞きしますが、激務から逃れるためのご冗談などでは」
「違うよ」主君は即座に否定する。「縁談は本当だ」
「いや、しかし陛下。本当だとしても、なぜ縁談云々という話を、私は陛下から聞いているのでしょうか」
これまでにも縁談がないわけではなかったが、たまの休みに実家へ戻った際に両親から薦められるのが主だった。毎回まだ結婚するつもりはないと断って、そのたびにいい加減孫の顔を見たいのにと母に泣かれる。その繰り返しだ。
主君の返答がなかなか無いのでふと顔を見ると、なにやら不満そうに唇を尖らせている。
「昔みたいに『トクスさま』と呼んでくれないのか」
「呼びません。あなたさまは国王ですよ、『陛下』以外になんとお呼びせよと? あと、三十半ばの男がそのような顔をしても、可愛らしくも何ともありません」
「俺のことを名前で呼んでくれそうなのはお前くらいしかいないんだぞ。誰も呼んでくれないからそのうち自分の名前を忘れてしまいそうだ」
「アイビーがいるではありませんか」とナシラの妹――といっても血は繋がっていないのだが――の名前を挙げると、主君は振り返って窓の外を眺めた。あいにく曇り空だが、そんなことなど気にしない、とでもいうように、ひらひらと一匹の蝶が窓の前を横切っていく。
どこまでも澄んだ湖の青に似た、美しい蝶だ。愛らしい翅は向こう側が透けて見え、ガラス細工のようなそれを懸命にはばたかせた軌跡には、鱗粉ではなく水滴が舞う。蝶は主君とナシラに挨拶をするように何度か往復した後、どこかへ飛んでいった。
「確かに王宮の外に出ればアイビーは呼んでくれるだろうが、中ではお前くらいしかいないだろう。ところで彼女は元気かな」
「先日会ったばかりでしょう。話をそらさないでいただきたいのですが」
どうして縁談を主君が持ってきたのかという話だ。
「実を言うと、お前の両親に頼まれてな」
「はあ」
「自分たちからいくら薦めてもまったく聞く様子がないから、ぜひ俺から話を、と」
一国の王になんてことを頼むんだと思わなくもなかったが、ナシラの父は主君が幼少の頃から知っているし、ナシラの母は主君の乳母だった。王になったとはいえ、両親にとって主君は血の繋がらない息子のようなものなのだろう。
「俺のことを三十半ばと言ったが、そういうお前は四十目前だ。後継ぎのことを考えると、そろそろ身を固めた方が良い」
「…………」
「エゴケロス家を次代に継いでいけるのは、もうお前しかいないんだ。それに」
なにか言いかけた主君の声を、ノックの音が遮った。ナシラが誰何するより先に音で訪問者が分かったのか、開けてやれ、と主君の視線が言う。ゆっくりと扉を開けると「ちちうえ!」と小さな影が飛び込んできた。ふわふわと柔らかい黒髪に、濃密な森を思わせる深緑色の瞳――主君と同じ特徴を持つあどけない男児。全身を白で整えた衣服は汚れ一つないが、ナシラの腰よりも低い背丈のせいか、どうにも着こなしているとは言いがたく、服に着られているような印象だ。
主君は立ち上がると「サルム」と名前を呼び、子どもを軽々と抱き上げた。息子に対し、主君は上から下まで真っ黒である。二人の衣装に共通しているのは、上着の裏地に星空があしらわれている点だけだ。
「ちちうえ、もうおしごとはおわりましたか?」
「もうすぐ終わります」と、ナシラと話している時とは一転して主君の口調が穏やかに、けれどどこか薄い壁を隔てたようなものに変わる。
――相変わらずだな。
ぼんやりと思いながら、横目で親子の様子をうかがう。
「そういうサルムこそ、どうしたんです。この時間は絵本を読んでいたはずですが」
「はい! ちちうえがおしえてくれたほんを、よんでもらっていました。〝げんじゅう〟の、えっと……」
「イフリートの物語ですか」
よほど楽しい話だったのか、サルムは満面の笑みで頷いた。
「でもさいごまでよめなかったんです。しちゃく? とかいうのをしなくちゃいけなくなって」
「殿下、どこへ行かれたのですか、殿下!」
扉を閉めようとした矢先に、慌ただしい足音と焦った声が廊下の奥から聞こえてくる。
王宮において、殿下と呼ばれるのは現在、ただ一人しかいない。そして声の主はサルムの乳母だ。間もなく部屋の前を通りかかるであろう彼女のために、ナシラは扉を開けたままの姿勢で固まった。
通りかかった乳母は、すぐさまサルムを見つけて安堵の息を漏らし、次いで彼を抱き上げているのが国王だと気付くと、表情がきゅっと引き締まった。緊張のせいだろう。
「申し訳ありません、陛下」という謝罪は、王都でよく聞く発音に比べると少しだけ訛っている。
「構いませんよ。あなたも部屋の中へ」
「そんな、恐れ多い」
恐縮しきって動こうとしない乳母に、ナシラは「お入りください」と小声で促した。
「ここ最近の事件をご存知でしょう。扉を開けたままでは、いつ刺客が飛び込んでくるか分かりませんので」
開けたままの姿勢がいつまでも続いては自分が疲れる、という一言はなんとか飲みこむ。
ようやく納得してくれたのか、乳母は恐る恐るといった様子で執務室に入ってきた。
「誕生日の祝宴用の服ですか? 似合っています」
「ありがとうございます! ははうえも、おにあいだっていってくれました」
「そうですか。それは良かった」
世間の三、四歳の子どもであれば、もう少し天真爛漫な喋り方をするだろうに。完全に父親の影響を受けているな、とナシラは静かに扉を閉める。
「陛下に早くお見せしたいと言って、部屋を飛び出してしまわれたんです」
「なるほど。それは大変嬉しいですが」
主君は息子の目を覗き込み、「あまり困らせてはいけませんよ」と真剣に注意する。恐らく「やっと見つかった乳母なのですから」という意味が隠れていることを、サルムは知らない。
サルムの乳母捜しは捗らなかったのだ。王宮、しかも王族に仕えるのは誉れ高いことであるのに、とある事情で断られる場合が多かった。あまり見つからないようなら無理強いするしかないだろうとナシラは思ったし提案もしたのだが、主君がそれを拒んだ。
そんな中、ようやく見つけたのが現在の乳母なのだ。地方の出身で、王族――というか主君に関する噂をあまり知らないようで、だからこそ引き受けてくれたらしい。
叱られたサルムは少ししょんぼりとしながら「ごめんなさい」と主君と乳母に向けて謝る。
「あなたの着ている純白は素直さと無垢な心、そして明るい未来を示します。本当によく似合っていますね、サルム」
えへへ、と丸い頬を赤く染めたサルムは、しかしすぐにきょとんと首を傾げる。よく表情の変わる子どもだ。
「じゃあ、ちちうえがくろいのはなぜですか?」
どうして父上の服はどこもかしこも黒いのか、と問いたいのだろう。
――そりゃあ気になるよな。
果たして主君はどう答えるのか。ナシラが色々と想像する前で、主君は「黒色が好きなんです」と苦笑している。
――答えを濁した。
「さあサルム。部屋に戻りなさい」
「えー、でも……」
父上ともっと話したいのに、と瞳が物語っている。サルムは床に下ろされて寂しそうに指先を組んでいたが、主君はひざをついて頭を撫でてやりながら微笑みかけていた。
「まだ絵本を最後まで読めていないんでしょう? それはもったいない。せっかくですし、母上に読んでいるところを見てもらうといい」
「? どうして?」
「もうすぐお兄さんになるのですから、妹か弟に読み聞かせる練習をするんですよ」
「!」
驚いているのはサルムだけではなく、ナシラもだった。
いつの間に王妃は第二子を懐妊していたのだろう。
飛び跳ねるような勢いで出ていくサルムと、それを追いかける乳母を見送ってから、ナシラは主君に呼びかけた。
「聞いていませんが」
「言ってなかったか?」
「そのように申し上げました」
「だとしても、まずは『おめでとうございます』だろう」
「失礼いたしました。王妃さまのご懐妊、おめでとうございます」
「ありがとう」
主君は三十歳の頃、まだ王太子だった時に国内の貴族の娘と結婚している。
「……それで、陛下。先ほどの続きですが」
「何の話をしていたんだったかな」
「エゴケロス家を継ぐのは私しかいない、の続きです」
息子の乱入でなんと言うつもりだったか忘れたのか、主君はしばらく思い出そうとするように黙り込んだあと、ああ、と椅子に座り直した。
「子供と触れ合うのは悪くないぞ、と言うつもりだった」
「はあ」
「なんだ、その疑うような目は。本心だぞ」
「……そうですか」
てっきりもっと重々しい言葉でも飛び出すかと思っていたのに。拍子抜けだった。
「欲を言えば……というか、完全に俺の我が儘ではあるんだが、俺にとってのナシラのような存在が、サルムにもいたらとは思うんだ」
「陛下にとって私、ですか」
「唯一無二の信頼がおける相手だよ」と主君は頷く。「幼い頃は遊び相手、成長してからは鍛錬相手、大人になってからは右腕といえる存在」
「別に私の子どもでなくても叶えられる願いでしょう。殿下のお付きになりたいと願う者なら山ほど居ります」
「そういう奴らはたいていサルムを通じて俺と親しくなり、出世することを目標にしているだろう。その点、お前はそういう欲が皆無だから安心できる」
言いながら、主君は紙の束を差し出してくる。受け取って検めると、両親が見繕ってきたであろう令嬢たちの名前や年齢、身長、性格、家柄、出身地、好みなどが事細かに書かれていた。
ひとまず会うだけ会ってみたらどうだ、と提案されたが、ナシラは眉間にしわを寄せたまま、頷けなかった。
「それでここ最近、お疲れのご様子なんですか」
「……分かりますか」
辟易した面持ちで言うナシラに、正面に座っていた男が「ええ」と答えた。
縁談を持ち出された数日後、王宮の片隅にある食堂である。休憩中の兵士たちで賑わっていたのは三十分ほど前で、現在、数多の椅子と机が並ぶそこにはナシラと正面の男のほかに十人程度しかいない。
ナシラは豆のスープをすすりつつ、男に――正確に言えば、男の背中から生えるモノに目を向けた。
普通の人間ならばあり得ない、猛禽類の翼がそこにはある。輝く亜麻色の地に燃えるような紅色を散らしたまだら模様が特徴的で、日頃の手入れがうかがえる艶やかさは見事なものだ。いつ見ても美しいとは思うが、同時に邪魔そうだとも思う。
「どうされました?」
「いえ、今日は翼が大きいなと思いまして」
「先ほどまで鍛錬をしていたものですから。大きくなる時は一瞬で大きくなりますが、小さくなる時は時間がかかると以前も説明しませんでしたっけ」
「……そうでしたか?」
「記憶力のいいあなたが忘れてしまう程度にはお疲れみたいですね」
男に哀れみの視線を注がれ、それから逃れるようにナシラはスープの器を持ち上げて中身を飲み干した。作法もなにもないが、精神的に疲弊している今は許される、と思いたかった。我ながらめちゃくちゃな理屈であると理解はしている。
「ユリオ殿にはこういう経験はありませんか」
「ないわけではありませんが」と、ユリオと呼ばれた男は柔らかく煮た肉を食べながら言う。「幻操師になった頃に、二、三件ほど両親が見合いを薦めてきました。ですが会うより先に、幻操師など願いさげだと断られまして。どうやら私がそれだというのを隠して話しを持っていったようです」
どのみち会えばその場で断られていたでしょうね、とユリオは笑う。彼はその後、王宮勤めを始めた頃に出会った女性と結ばれているはずだ。サルムと同じ年ごろの息子もいたと記憶している。
幻操師――魔術師が作り出した人工生命体〝幻獣〟と契約し、血を授かった者。
光の神と闇の神への信仰が根強いこの国において、命を作り出すという〝神の真似ごと〟をした魔術師はあまり良い印象を持たれていない。そのため幻獣および幻操師への風当たりも決して良いものではないのだ。
サルムの乳母捜しに時間がかかったのも、それが影響している。
というのも、主君は幻操師だからだ。近年は理解が進んで多少は拒む風潮も薄れてきたが、地域によっては反感がありありと残る。
「何人か会ってきたんでしょう。『この女性は素敵だな』と思えるような方はおられなかったんですか?」
「難しいところです」
ここ数日で十人程度の令嬢と言葉を交わしてきたが、どれもナシラが選ぶに至らなかった。彼女たちの多くはナシラが国王仕えの護衛兼側近だというのを知っていたし、彼女たちというより、その親たちが良くも悪くも「どうにか国王とお近づきに」と企んでいるのがありありと分かったからだ。
一人だけ親の意図に無関心かつナシラの仕事に理解を示し、紅茶をたしなむという共通の趣味も持っている女性はいたのだが――
「仮に今、家庭を持ったとしても、私はそちらを優先できる気がしません」
「……ああ、例の襲撃事件ですか」
ユリオの言葉に頷きつつ、ナシラは渋面を浮かべてパンを口に放り込んだ。生地にトウモロコシが練りこまれているのか、ほんのりと甘く、粒の食感も残っている。
襲撃事件というのは、二週間ほど前、孤児院への慰問から帰る道中で主君とその家族が襲われた件のことだ。計画したのは反魔術師、反幻獣、反幻操師を掲げる一派で、ナシラをはじめとする護衛たちがすぐさま取り押さえたため被害はなかったが、国内に衝撃がはしったのは確かだ。
それに、まだ首謀者は捕まっていない。
「陛下と家族、同時になにか起こった場合、私は間違いなく陛下を優先するでしょう。ユリオ殿はどうですか」
「もちろん陛下が最優先です。けれど、その結果家族を失うようなことになったらと考えるとぞっとしますが」
ユリオの翼がぶるぶると震えた。かと思うと手のひらほどの寸法まで少しずつ小さくなっていく。恐怖に震えていたのではなく、翼が縮む前触れだったらしい。
「ナシラ殿も、それを恐れているのではありませんか」
「なにをです」
「陛下と同じくらい、家族が大切な存在になってしまうかもしれないのを」
「……そう、なのでしょうか」
「さあ、あくまでも私の勝手な推測です。実際のところがどうなのかはナシラ殿にしか分かりません。おっと、そろそろ戻らなくては」
それでは、と去っていくユリオの背中を見送り、ナシラは軽く手を振った。なんとなくその手を見つめ、握ったり開いたりを繰り返してみる。
――恐れている、か。
確かに、一理あるかも知れない。
今の自分にとって守るべき存在は主君ただ一人だ。けれど結婚して子どもが出来れば、そちらも捨てがたい大切な存在になるに違いない。そんな状況で双方に危機が訪れた時、自分はどちらを守ればいいのか、と心が揺らぐのが恐ろしいのだ。
片方を捨てれば片方は守れないし、迷っている間に二つとも守れなくなるかもしれない。いずれにせよ、自分は後悔無しに生きられなくなりそうだ。
「ただでさえ愛想のない顔立ちをしていますのに、さらに仏頂面になっていますわよ」
覚えのある声が聞こえ、先ほどまでユリオが座っていた席に何者かが音もなく座る。
「……ダビー」
「お久しぶりですわね、お兄さま」
しばらく会っていなかったもう一人の妹だった。こちらは血が繋がっている。
数年前まで王宮で侍女として仕えていたが、結婚を機に辞している。つまり今ここにいるはずがないのだが。ナシラの表情で疑問を察したのか、ダビーは小さくため息をついた。
「お父さまに呼び出されたんですの」
「は? 何故」
「事件が解決するまでの期間限定で、王妃さまの侍女……というか、身辺警護にあたってくれないかと」
エゴケロス家は代々王族の護衛を務めているため、幼少期から護身術などを叩きこまれる。女でも例外なく、だ。先日の襲撃事件の際、王妃の侍女は怯えて縮こまってしまっていた。不安の残る彼女より、一度王宮を去ったとはいえ確実に王族を守り抜ける妹をそばに置いた方がしばらくは安全に違いないと父は判断したようだ。
だが。
「まあ、お断りしましたけれど」
「は?」
てっきり引き受けたと言うと思っていたのに。
「まだお気づきにならなくて?」
「…………そういえば腹が大きいな」
「つまりそういうことですわ」
「太ったから動けないのか」
「違います」
ふんっと鼻を鳴らし、ダビーは愛おしそうに膨らんだ腹を撫でた。その仕草で、勘の鈍かったナシラも流石に気がついた。
――子どもが出来たのか。
「聞いてないぞ」
「だってお兄さまには言ってませんでしたもの」
「…………」
「それに、まずは『おめでとう』くらい言う場面ではなくて?」
「……陛下と似たようなことを言うなよ……」
訝しげに首を傾げる妹に、公に発表されるまで黙っていろと前置きをしてから周囲の目をうかがい、耳元で密やかに教えてやる。ダビーは驚きに目を丸く見開いていた。
「『おめでとうございます』とダビーが言っていたと、陛下に伝えておいてくださいな」
「分かった。で、お前が王妃さまの警護を断ったんなら、誰がその任を務めるんだ」
「お兄さまが率いる護衛部隊はなんのために居るんですの? 実際、事件の際も速やかに捕えられたのでしょう。私が出る必要はないではありませんか。仮に侍女の任についたとしても、身重の体では満足に動ける自信がありませんわ。最悪の場合、守らねばならない身でありながら、守られる身になってしまう可能性もございます。そのようなご迷惑をおかけするわけにはいきません」
彼女としても悔しさはあるのだろう。言葉の節々から不満が滲んでいる。
もう用事はないし帰ると言いつつ、ダビーは「ああ、いけない」とかたわらに置いてあったカバンに手を突っ込んだ。
「お父さまから預かったものが」
――また厄介なものか。
また見合いのための諸々かとナシラは顔を顰めたが、妹が取り出したのは予想に反するものだった。紙の束であることに変わりはないが、書かれているのは令嬢たちの情報ではない。
父らしい神経質そうな文字がずらりと並んでいる。ところどころ字が反転していたり、抜けていたり、異国の言語が紛れていたり、記号が書かれていたりと、一見しただけでは文章が構成されているようには思えない。だがナシラとダビーには何事もなく読める。エゴケロス家に伝わる暗号を用いて書かれているからだ。
ダビーと別れ、ナシラは一度、王宮の片隅にある兵寮の自室に戻って父からの手紙に目を通した。
――父上は、先日の事件に内部の者が関わっていると考えているのか。
――私も考えていないわけではなかったが。
王族一行が通る経路は万が一の襲撃を考えて毎回変更されるし、往復で異なる上、直前まで馬車の御者も知らされない。にも関わらず、襲われた。「王宮に敵と通じているものがいるのではないか」という予想が導き出されるのも致し方ないだろう。
父の手紙を破った上で暖炉に放り込み、主君のもとに向かいながら色々と考えてみる。
――問題は、通じているのが誰かという点だが。
王宮に仕えていながら国王に反する者などいるのだろうか。いるかも知れないから、父もナシラも内通者がいるのではと疑るわけだが。
――王宮に出入りしていた貴族の中には反魔術師派も少なくない。幻操師である陛下に対して不快感を抱く者もいる。
ここ数日、不審な動きをしていた人物はいただろうか。あいにくナシラは基本的に主君につきっきりで、王宮内の見回りは請け負っていない。そちらを任せてある部下たちに聞けば、何かしら情報を拾ってくる可能性はある。
「陛下にも心当たりはないか伺ってみるか」
ナシラは一人で頷き、執務室へ急いだ。
「……私はいまだに反対なのですが」
「諦めて納得しろ。もう遅い」
ナシラの小言に、主君は微笑みながら言う。無駄に明るいのが嫌な予感を誘う。
主君は馬車に、ナシラは馬にそれぞれ乗り、向かっているのは〝聖都〟と呼ばれる地である。光の神と闇の神を奉る荘厳な教会で、二柱に恒久の平和を願い、絶えることのない祈りを捧げる、年に一度の儀式が執り行われるのだ。
主君が参加するのはもちろんのこと、今回が初となるサルムも同行している。馬車が数台連なっているほかに、護衛も何百人といるためかなりの大所帯だ。
馬車の窓から顔を控えめに覗かせ、主君は興味深そうにあたりを見やる。春を待ち望む森は心が浮き立つような温もりに満ち、たまに鳥の鳴き声や飛び立つ音が聞こえ、新芽がぽこぽこと生まれた枝の上を小動物が忙しそうに走り回っている。陽の当たらない位置にはまだ雪が残っているが、あとひと月もすれば跡形もなく融けていることだろう。
主君の目がなにかを追う。視線を追うようにナシラが周囲を見回すと、半透明の蝶が馬の前を横切った。踊るようにひらひらと舞い、雫を散らしながらどこかへ飛んでいく。
はあ、と思わずため息が漏れる。
――はっきり言って心配だ。
「あまり気にしすぎるな。妹を信用してやれ」
「妹だからこそ心配しているんです」
ナシラの反論に、主君はなぜか嬉しそうに唇を綻ばせた。
「なんです?」
「いや、初めの抵抗していた頃に比べて、さすがに十五年も過ぎれば違和感なく『妹』と呼べるようになったんだなと感慨深くて」
「……抵抗がなくなったわけではありません。戸惑いが完全に消えたわけでもないです。受け入れざるを得なかったと言うべきでしょうか」
「すまないな」と主君が申し訳なさそうに目を伏せる。何を言おうとしているのか見当がつき、言葉を継がれるより先に「構いません」と無礼を承知で首を振った。
「陛下の判断はなにも間違っていませんでした。事実、両親の喜びは計り知れないものでしたから」
「あとはお前の気持ちの問題、か。見合いにもそう言えると思うぞ」
「……何故この流れでその話になるんです」
「ユリオに聞いたんだ、お前が家族を持つことを恐れていると」
鍛錬を欠かさない主君のことだ。恐らくユリオと手合わせをする中で、ナシラの様子を聞き出したのだろう。勝手に喋りやがって、と思わなくもないが、主君から話せと命じられて話さないでいるという器用さは、ユリオにはない。
ナシラは再びため息をつき、むっつりと唇を引き結んだ。肯定も否定もしたつもりがなかったのだが、主君は肯定と受け取ったらしい。
「俺が思うに、ナシラは考え過ぎなんだと思う」
「どういう意味でしょうか」
「別にどちらか片方だけを守ることに固執しなくてもいいんじゃないかってことだ。若い頃ならともかく、今のお前ならもう少し柔軟な考えが出来るんじゃないか」
「柔軟な……」
言いかけて、ナシラは口を噤んだ。
じっと耳を研ぎ澄ますと、近くを流れる川のさらさらとした音、様々な動物の鳴き声に混じって、地面に落ちた木の葉の擦れる微かな音が届いた。獣が優雅に歩くのとは異なる、緊張感に満ちた音だった。
同時に肌を針で突き刺すような雰囲気を感じ取る。ナシラ以外にも気付いた者はいるようだが、悟られないようにあえて辺りを見回すようなことはしていない。
――そろそろか。
感じて間もなく、列を遮るように、また後退を防ぐように、道の両脇から武装した人々が飛び出してきた。二十人程度だろうか。人相の区別を避けるため口元を布で隠し、手には刃物や棒など三者三様の武器を手にしている。衣装も襤褸に似たもので統一されているが、背格好から判断するに男六割、女四割といったところだろう。
ナシラは流れるような動作で馬から降り、馬車の一つを背にして剣を抜く。少しずつ距離を縮めてきた武装集団の中から、主導者と思しき男が一人歩み出てきた。
「国王一行だな。神に仇成す分際で、神の威光に満ちる地を踏ませてなるものか」
反国王派、要するに先日、孤児院からの帰りに襲って来た一派と同じ部類らしい。
安い挑発だ、のってやるほどのものでもない。ナシラは冷静に受け流せているが、若い部下の中には顔を赤くしながら堪える者もいる。
「神に近づかんとした魔術師どもを擁護するだけでなく、奴らが作った幻獣の保護、さらに貴様自身が幻獣と契約するなど、神がお許しになるはずがない。王に据えられるべきは魔術師どもを排し、神を真に崇め奉る者。愚王たる貴様の命、今ここで終わらせてやる!」
かかれ、と指示するように、男は手にしていた短剣を勢いよく振り下ろす。鼻息荒く待機していた男の部下たちは一斉に走り出し、いくつもある馬車の中から二つを明確に狙って突撃してきた。
国王とその子息が乗るための馬車は他のそれと区別をつけるため、神話の一場面を表した金細工が随所にあしらわれ、内装も一段と豪華なつくりになっている。だが彼らはそちらに目もくれず、前から三台目――ナシラが守るものと、後ろから二台目のものに襲いかかる。どちらも王家の紋章が金細工で象ってある以外に特徴のない馬車だが、襲撃に備えて主君とサルムがそれぞれ乗り込んでいるのだ。
もちろんそれを知るのは、聖都行きに同行する者たちだけだ。襲撃者が知るはずのないことだったのに。
一瞬にしてひりつくような緊迫感が護衛部隊に伝播し、けれど焦ることなく確実に襲いかかってきた者たちを排除する。
だが武装勢力も素人ではないのか、何人かは護衛たちを弾き飛ばし、力づくで馬車に飛びかかっている。
数では圧倒的にこちらが勝っているのだが。そう思う間もなく、森側から武装する者たちと同じ見た目の人々が現れた。五十人はいるだろうか。目を血走らせた彼らは転がされようと、斬りつけられようと勢いを止めることなく、「国王を殺す」という確固たる意思をもって飛びついてくる。
「エゴケロス隊長!」
部下の一人が悲痛な声を上げる。敵を押しとどめながら振り返ると、馬車の反対側に回った男が一人、乱暴に扉を開けるところだった。そちら側を守っていたはずの部下は武器を奪われた上に腕を斬りつけられて地面に転がっている。
中の人影を見つけて勝利を確信したのか、男は狂気的に哄笑しながら短剣を振りかぶった。
だが次の瞬間、馬車の中から飛び出してきた何かに男の体は突き飛ばされていた。腹に一撃を入れられたらしく、男は苦しげに呻いて立ち上がろうとする。その腹を再び蹴りつける姿があった。
日光を受けて光り輝く亜麻色の翼。ユリオだ。
普段ならナシラと色違いの護衛服に身を包む彼だが、今は主君のそれに似せた漆黒の衣服をまとっている。
国王が乗っているはずの馬車に違う人物が、しかも幻操師が乗っていた衝撃に男が目を白黒させる中、ユリオは爆発的に大きくなった翼を羽ばたかせて勢いをつけながら、男の横っ面に蹴りを入れた。倒れる男の口から、折れた歯が二、三個飛び出す。ユリオはそのまま、同じように何人か倒していった。
「ど、どうなってる」
主導者の顔に動揺が浮かぶ。その原因は翼の幻操師出現だけに無い。
彼はしきりの川の方を振り返っていた。先ほどは森側から増援が現れたが、本来なら川側からも同じような人々が現れる予定だったのだろう。
――知ってたんだよ。
異常事態だと分かりながら攻撃を緩めない者を叩きのめしつつ、ナシラは後方の馬車をちらと見た。前の馬車に居ないのならこちらはどうだと確かめるべく人が集まっているが、数があまりにも多く、ぎょっとした。
――まだ潜んでいる奴らがいたのか!
護衛たちが押しのけられ、はっとする間もなく扉が開かれそうになる。ナシラが落ち着いて駆けつける中、「子どもはいるか!」だの「引きずり出せ」と促す尖り声が随所から上がった。
雪崩のように詰めかける者たちを排除しながら、ナシラは馬車を守るべく近づく。扉を開けさせてなるものかと眉間にしわを寄せたが、願い虚しく、扉は開け放たれた。
歓喜と怒声の波が馬車を中心に広がるが、次の瞬間には悲鳴が生まれていた。
ごうっと炎の渦が飛び出してきたからだ。ヘビが舌を出してうごめく姿に似たそれは、馬車を取り囲む勢力を瞬く間に散らしていく。
「子ども一人を馬車に乗せておくわけがないでしょう」
幼い人影を背に庇いながらぬっと現れたのは、護衛の服を身に着けた主君だ。普段ユリオが着ているものである。
右腕の袖は前腕のあたりから黒焦げになって焼け落ちている。露出したそこには、角の生えた男と炎を意匠化した刻印があった。
「『陛下がお力を使うことなく済むようにいたします』と言っていたのではなかったかな、ナシラ」
「申し訳ありません、油断した私の落ち度です。処分はいかようにでも」
「追々考えることにするよ」
「なっ……」と声を漏らしたのは主導者の男だ。「どういうことだ……! 増援もなぜ来ない!」
「増援っていうのは、この人たちのことかしら」
緊迫した場に似合わない高く軽やかな声が、男の疑問に答えた。
振り向いた彼の目には信じられないものが映ったことだろう。
川から天を突くような水の柱がいくつも伸び、それに己の部下が捕えられている光景が。
唖然として武器を取り落とす男の前に、川の近くの茂みから女性が歩み出てくる。朝焼けのごとき朱い髪と、金糸雀色のスカートに茶色いブーツ。自信に満ちた緋色の瞳には勝気さが表れていた。
「残りの人たちも捕まえちゃっていいのね? トクス」
「ええ。お願いします」
主君が笑顔で頷くと、女性は踊るように腕を前方に伸ばした。ごぼっと音がしたかと思うと、ただの地面から間欠泉のように水の柱が現れ、逃げ惑う反乱者たちを次々に呑みこんでいった。溺れないように加減しろよ、とナシラが事前に言い聞かせていたおかげか、戦意喪失したと判断されたあたりで彼らは解放されていた。大半は恐れをなして逃げ出し、残りは呆然と座り込んでいる。
立っているのは主導者だけだ。仲間たちが欠けていくのを黙って見送るしかなかった彼を、舞い戻ってきたユリオが手際よく縄で縛っていく。ナシラは馬車から降りてきた主君に駆け寄り、達成感に胸を張る女性に目を向けた。
こっちに来い、と手招きをしてため息をつき、嬉々として歩み寄ってきた彼女に「あのなあ」と目を眇める。
「敵味方の区くらいしっかりつけるようにと言っただろう。お前が流した中には私の部下も混じっていたぞ」
「えっ、本当に? それはごめんなさい。気がつかなくて」
「そういうところにも注意できるようになって初めて一人前と呼ばれるんだぞ」
「でも『思いきりやって良い』って言ったじゃない。それなのに敵味方の区別までつけるのは難しいわ」
「私は『思いきりやっていい、ただ周りもよく見ろ』と言ったはずだが」
「でもナシラお兄さまだって完璧だったわけじゃないでしょ。さっきトクスに『油断した』とか言ってたじゃない」
「兄妹喧嘩を眺めるのは楽しいですが、二人とも、そのあたりで」
主君に肩を叩かれ、ナシラは「申し訳ありません」と表情を引き締めた。女性も「ごめんなさい」と軽く肩を竦めている。
「アイビー、遠いところまで来てくれて感謝します」
「トクスの頼みだもの。来ないわけにはいかないわ」
信頼の眼差しで見つめあう二人に、今度はナシラが「そのあたりで」と言いたい気分だった。
水を操っていた朱い髪の彼女こそ、ナシラの血の繋がらない方の妹、アイビーだ。彼女は孤児院で育っており、現在はそこの院長を務めている。そして主君が慰問に訪れた孤児院というのが、アイビーのいるそこだった。
「さて」と主君は拘束された男に近づこうとする。だが、その背中に「待て!」と焦ったような声がかかる。
三人がそろって振り返ると、馬車から引きずり降ろされたらしい子どもと、その首筋に刃物を突き付ける襤褸姿の若い男がいた。反乱一派の一人だろう。ユリオに叩きのめされたりアイビーに流されたりといった攻撃から運よく逃れていたようだ。
「子どもの命が惜しければ俺の言うことに……」
若い男が全てを言いきる前に、ナシラが動いていた。
視界から消えるように彼に迫る直前でさっと身を屈め、素早く後ろに回ると立ち上がりながら手首をひねり上げ、刃物を落とさせる。もう片方の、子どもの肩を掴んでいた手も同じように力強く掴み、そのまま勢いよく投げ飛ばした。
土ぼこりを上げて地面に叩きつけられた彼は、肺の空気をしぼり出すように一度だけ咳きこむと、白目になって沈黙した。ふう、と一息つくナシラの前で、子どもに駆け寄ったのはユリオだ。
大丈夫かと確認されている子どもはサルム、ではない。髪は黒いが、瞳は深緑ではなく金によく似た小麦色だ。衣装も白だし背丈もサルムと似通っているが、顔立ちは幼いユリオのようだ。
つまりサルムと思って男が刃物を突き付けていたのは、ユリオの子どもだったわけだ。本物のサルムは一足先に別の馬車と護衛たちと共に聖都に到着している。
ナシラが若い男を縛り上げたところで、主導者の男が「どうしてだ」と呟いた。
「どうして俺たちが襲ってくると分かっていた」
「調べましたからね」と主君は右手の人差指を真っ直ぐ伸ばした。その先にガラス細工のような蝶が止まる。
「まさか、その蝶に調べさせたってのか」
「その『まさか』です。普通の蝶ではありませんから」
主君がちらりとアイビーを見る。彼女が指揮者のように指を振ると、ぱしゃんっと蝶ははかなく弾け、丸い水の珠になる。ふよふよと宙を漂ったそれはアイビーの指先に辿りつき、音もなく吸い込まれていった。
「蝶は彼女の一部です。蝶が見たものは彼女に共有される仕組みでしてね、あなた方がどの程度の人数を集めてくるか、どのような包囲網を敷いてくるか、全て承知していました」
「……その女も幻操師だってわけか」
けっと吐き捨てるように男は言う。嫌悪感が隠しきれていない、というより、隠すつもりもないのだろう。
「こちらもお前に聞かねばならないことがある」
主君に代わり、ナシラは剣を男の喉に突きつけながら問いかけた。
「どの馬車に陛下と殿下が乗っておられるかは極秘だったはずだ。だがお前たちは王族が乗っているはずのない馬車を狙ってきた。どういうわけだ」
「その馬車にも全然違う奴が乗ってたじゃねえか」
「対策は何重にも敷いているものだ」
いいから答えろ、と鋭く睨みつけること一分近く。観念したのか、男はがっくりとうな垂れながら「女だ」と白状した。
「女に聞いたんだよ。お前らがどの時間のどの道を通るか、どの馬車に国王が乗ってるか」
「それは誰だ」
男は躊躇うことなく、自身に情報を渡した者の名前を吐いた。
王宮の広い庭で走り回る小さな影が二つある。サルムとユリオの息子だ。子犬がじゃれ合うように遊ぶ幼い二人の姿には微笑ましさしかなく、仏頂面だの無愛想だのとよく言われるナシラでも、思わず唇を綻ばせそうになった。
主君の手前、そのような真似はしないが。
ナシラの隣で息子たちの成長を見守る主君の顔には、少しばかり安堵が浮かんでいる。
「同年代の子と遊ぶと、やはり元気が出るんだな。この間までお前みたいな仏頂面ばかりしていたのに」
「あれは仏頂面ではなく、単純に悲しみを我慢しようとしていた顔でしょう」
「そうさせてしまったのは、俺だよなあ」
「陛下にその判断をさせたのは乳母です」
思い出しても胸のあたりがもやもやする。
――首謀者が彼女だったとは。
国王襲撃を計画し、反乱一派に情報を流していたのはサルムの乳母だった。名前を聞いてすぐにナシラとユリオが王宮に戻り、入念な尋問のあとに投獄された。現在は然るべき処分が下されるのを待っている。
乳母が犯人だったと伝えた時、主君は真っ先にサルムを案じた。ようやく見つけた乳母だった上に、彼が懐いていたからだ。結局「実家に戻らなければいけなくなった」と適当な理由をつけて納得させたようだが、しばらくサルムは落ち込んで笑顔をあまり見せなかった。
だから提案したのだ。「同い年くらいの子どもと遊ばせてはいかがですか」と。
「遊んでいる間くらいは笑っていられるだろうし、乳母と離れ離れになった痛みも時間が解決してくれるだろうが……いつかは真実を話してやるべきかな」
「殿下が成長し、改めて突然乳母が解任されたことに疑問を持った場合に限ればよろしいのでは」
「そうするよ」
乳母の目的は、主君と、主君の兄への復讐だった。
主君の兄は、十数年前に幻獣ドラゴンを作った。だが幻獣作成は禁忌であるし、しかもドラゴンが原因で乳母の故郷は壊滅的な被害を受けたらしい。にも関わらず王家からの謝罪も復興支援も何もなく、恨みを募らせたのだという。
――しかし乳母の故郷と、当時ドラゴンが出現した地域はあまりにも離れている。
乳母の故郷が隣国と接する山あいの辺境の地であるのに対し、兄の作ったドラゴンが暴れ回ったのは王都近辺だ。恐らく故郷に被害をもたらした個体と、王都のドラゴンは別物だと思われた。
そう伝えると、乳母はひどく混乱した様子で叫んだ。
『聞いたんだ、あのドラゴンは兄王子が作ったものだって! それであたしの家は潰されたんだって! 憎ければ復讐に手を貸してやるって!』
『聞いた? 誰に』
けれど手を貸した者の名前については、乳母は一切口を割らなかった。分からずじまいのまま終わらせるつもりは、ナシラも主君もない。同じような手口で王家に仇成す者を増やされる前に、どうにか聞き出さなければ。
ひらひらと半透明の蝶が二人の前を舞う。だがその大きさは指先に止まる程度に収まらない。小柄な女性ほどの大きさがあった。
ぎょっとして身を引くナシラの前で、蝶が淡い音を立てて弾ける。思わず瞬きをした次の瞬間、蝶がいた場所にはアイビーが立っていた。こんにちは、とはにかんで挨拶をする妹に、つい眉間にしわが寄る。
「なんでここにいるんだ」
「トクスがまだ落ち込んでるんじゃないかって心配で様子を見に来たのよ」
「『陛下』と呼べと何度言ったら分かる。王宮に入ってくるなら門から来いとも言ったよな」
「だって手続きが面倒くさいんだもの」
むう、と睨みあう二人の側で、主君がくすくすと笑う。
「あなたたちの喧嘩を見るのは飽きませんね。いつまでも眺めていたいくらいだ」
「そう? じゃあもっと喧嘩してようかしら」
「私はごめんです」
このまま二人の側にいたのでは邪魔になる。ナシラは主君たちの会話が聞こえない、けれどいつでも駆けつけられるあたりの距離まで離れた。
時々ちらりと様子をうかがうと、会話を弾ませるアイビーの横顔が目に入る。
――横から見ると、少しだけ面影が残っているような気がしなくもない。
十数年前、主君の兄はドラゴンを作るよりも前に別の幻獣を作成している。
水を操る精霊、ウンディーネだ。
そのウンディーネこそ妹のアイビーであり、彼女を作る際の材料として用いられたのが、当時、主君の兄の護衛を務めていたナシラの兄だった。
アイビーの外見は基本的にとある女性に瓜二つなのだが、ふとした瞬間に兄を感じる時がある。そのたびに懐かしいような、悲しいような、複雑な気分になる。
しばらくサルムたちの様子を眺めていたところで、「ナシラ」と主君から声をかけられた。いつの間にかアイビーはいなくなっていたが、代わりにいつも見かける水の蝶が愉快そうにあたりを舞っている。
「アイビーが言っていたぞ。『殿下をお守りするナシラお兄さまがかっこよかったわ』って」
「本心だと思えませんが」
「素直に受け取ってやれよ。説教ならともかく、褒め言葉なんだから」
「…………そう、ですね」
「俺だって思ったんだぞ。まだあれだけ素早く動けるなら、あと三十年くらいは現役でも大丈夫そうだなと」
三十年も経てばナシラは七十歳手前である。さすがに無理な気がした。
冗談はともかく、と主君は咳払いをして、なにやら真剣な眼差しでナシラを軽く見上げてきた。
「襲撃された時、お前は俺だけじゃなくサルムも守ってくれただろう。なんの躊躇いも迷いもなく、な。要するに二つのものを同時に守れたわけだ。それと同じように家族を守ればいいんじゃないか?」
「家族を、ですか」
「そう」と主君は頷く。「言っただろう。どちらか片方を守ることに固執しなくていいんじゃないかって。二つのものを同時に守ればいい」
――二つのものを、同時に。
主君の言葉を内心で何度も繰り返すと、己の中で固まっていた考えが少しずつ解れていくような心地がした。
今までは、どちらかを選び取って、もう片方が手のひらからこぼれ落ちていくのが恐ろしかった。こちらを選べばよかったと後悔を抱えるのが怖かった。
「今のお前なら二つとも守れる。俺が保証するよ」
「……お気遣い感謝いたします、陛下。目の前が開けたような気分です」
「それは良かった。先に進めそうか?」
「ええ。問題なく」
――もう迷わない。揺らがない。
頷いたナシラの口元には、確かな笑みが浮かんでいた。
タイトル提供:望星 螢