朝起きたら知らない男が隣にいました。
はじめまして、しのと申します。
タイトルまんまなのは最初だけで、その後ふたりがどうなっていくかが気になる所でした。
そう、プロットなしで書いたのです。
不安もありましたが、キャラって意外と勝手に動いてくれるんだなぁと改めて思えた作品です。
誰かの暇つぶしにでもなれば幸いです。
「聞いてくれるマスター?」
「大将だよ。なんだい雪ちゃん、悩み事かい?」
テンションがおかしい。大柄でごつい見た目で『マスター』というよりは『熊』と呼び名がつきそうな大将をそんなふうに呼んで困らせる雪は、それでもやっぱり飲み屋は行きつけのここ以外行かないようにしようと心に誓う。あんな醜態二度とごめんだし、友人たちは雪を冷たく放り出したわけだし、それが原因で見ず知らずの男と……
「あ~~~~~~~~~!」
とそこまで思い出して頭を抱える。あの優男のニヤついた顔が脳裏にこびりついて離れない。
「雪ちゃんどうしたんすか」
大将の後ろからひょこりと顔を出したのは、雪とそう歳の変わらない店員の松村純だった。
純もイケメンの部類に入る容姿をしている。ただし今雪がもっとも思い出したくないものを想起する優男系イケメンだ。
「純さん! 純さんが悪いわけじゃないんだけど、今その顔は傷口に塩だわ……」
顔を見て突然傷口に塩などと言われ、純は目を白黒とさせている。
「何かあったんですかねぇ」
「まあまあ、雪ちゃんも色々あったってこったな」
大将のフォローが入ってようやく純も業務に戻っていった。
「なんだい、男と何かあったのかい」
「聞いてくれるかマスター……口に出すのもおぞましい今朝の最悪な出来事を……」
まず思ったのは、ここはどこ? だった。
ぼやけた視界からちょっと茶色になった天井、その割に今体を包んでいるシーツは上等そうでさらさらだ。自分の家の布団はかなり年季が入っているからそうもいかない。部屋もこの時期は肌寒いはずなのに心地よい温かさに温度が保たれている。
眼鏡を求めて頭上を探るとさほど苦も無く見つかった。
それを掛けて起き上がろうとすると頭が痛んだ。そうだ、昨日無理矢理会社の飲み会に連れていかれたんだ。そしてしこたま飲まされた。弱いほうじゃないけど別に強くもないから潰れちゃって……そしてそして、その後どうなったんだっけ?
回想していると唐突な煙臭さが雪を襲う。
「うっ!? げほっ」
思わずむせ返ってその正体を見ると、一人の男がベッドに腰かけてタバコをふかしていた。
そこでようやく雪は自分はベッドの上に寝かされていて、しかも下着姿だということに気がつく。
「なっ、な、ななななっ、なんっ」
「あっは! ウケるその顔! 写真撮っていい?」
「ダメに決まってるでしょう! ていうか誰ですかあなた!」
構えているスマホに手を伸ばすも、ひらりと躱されてしまう。
男は細身でふわふわのパーマがかった髪に白い肌で、いわゆるイケメンと称しても差し支えない容貌をしていた。しかし第一印象が最悪な雪にはただの優男としか映らない。優男がベッドに座って煙草を吸っている。だらしなさ全開だ。
そこではたと立ち止まる。知らない部屋、下着姿の自分、そして極めつけは隣に知らない男!
まさかここはいわゆるラブホなのでは?
「う、うそでしょ……」
とにかくシーツを身体に寄せて身を守る。
「ふぅん、有沢雪っていうんだ。かわいい名前じゃん」
絶望感に満たされている雪に追い打ちをかけるように、男は知るはずのない名を口にした。
「なっ、なんで……!?」
自分の名前を言い当てられ、雪は動揺する。しかしすぐに、彼の手元にある紙切れに気づく。雪の名刺だ。
「なに勝手に見てるんですか!」
取り返そうと手を伸ばすが、すらりと長い腕が名刺を高々と持ち上げてしまう。
「いいじゃん、名刺なんだし」
「あなたみたいな得体のしれない人に渡すためのものじゃありません! ホント何なんですかあなた!」
「道端でべろんべろんに酔っぱらってた君を介抱してあげた、優しいお兄さんですよー」
「そっ、それは……でっ、でも、ふ、服……」
「寝にくそうだから脱がした。キレイな体してるね」
もうパニックだ。穴があったら入りたかった。手元にあった枕を男に投げるがまたもひらりと躱されてしまう。
「褒めたのにこれは酷いな」
「当たり前です! 私たち全然知り合いでもなんでもないんですよ!? それなのに……それなのに……」
「服脱がされたぐらいで大げさな」
「大げさじゃないです!!」
「なに、もしかして処女だったりするの?」
「しょっ……!」
あけすけのない言い方にまたもパニックだ。女子に向かってなんてことをいうのだろうこの男。
ちなみに有沢雪、生まれてこの方男性と性交渉したことはない。純潔とかいえば聞こえはいいが、単に付き合った男性もいなければいきずりの男とするだけのバカではないだけだ。
「処女ですけど! 悪いですか!」
大声をあげ、ハッとする。何を馬鹿正直に相手にしているのだろう。雪は床に散らばった服をかき集め着替え始める。その様子は男にまじまじと見られていたが、この際無視することにした。
着替え終わると鞄をひっつかみ、何も言わずに部屋を後にした。
「はっはっはっはっ! それは災難だったな!」
「笑い事じゃないですよ、マスター」
「おいおい、柄にもなくこじゃれた呼び方するんじゃねーよ。大将だよ大将!」
今朝のことを深刻に話しているというのに、大将は大笑いだ。他人にとっては笑い事かもしれないが、実際体験した雪にとっては恐怖でしかないのだ。
「雪ちゃん、変なのにつきまとわれて大変ですねぇ」
大将の弟子の純が、さも他人事だといわんばかりに言ってくる。他人事なのは間違いないが、この師弟、処女を奪われかけた女性の話にデリカシーがなさすぎじゃないか?
「本気の恐怖体験だったんですからね!」
「まぁまぁ。でも結局なにもされなかったんだろ? ラブホとはいえ世話してくれたなら、恩を感じるところもあってもいいくらいだ」
「ありえない!」
雪はカウンターに突っ伏す。男とはここまで女に冷たくなれるのか。だとしたら雪も男に対しての認識を改めざるをえなくなる。
「はっはっはっ! 悪かったよ雪ちゃん! 怖かっただろ。無事でよかったよ! 一杯おごるよ」
「大将~~~~~!」
男に対しての偏見を持ちかけていた雪もその言葉でころっと笑顔になる。現金な雪に大将はまたもや大笑いするのだった。
「なにニヤニヤしてんのよ、トキト! 気持ち悪い!」
罵倒と共にマヤの蹴りが飛んできて、それがキレイにみぞおちに入ったもんだから痛かった、すごく。でも手に持った紙切れ一枚、そして今朝の騒動を思い出すとニヤけがとまらないから、いつもなら大事な商売道具に向かって道場仕込みの殺人キックしやがってとか小言のひとつでも言ってやるところを無言でやり過ごした。正直今日は機嫌がいい。
「なによ、黙っちゃってキッモ! 蹴られてニヤけるとか相当ヤバいわよあんた!」
「安心しろ。おまえに蹴られたから喜んでるとかないから」
さらりと揺れるセミロングの髪。肌からは汗とファンデーションが混ざった不自然な、けれど決して不快でない匂いが漂い脳を刺激したのを覚えている。
「有沢雪、か……」
手元の紙切れは彼女が持ち歩いていた名刺だ。中小企業の営業だというのがわかるし、それに何より心が躍るのは、電話番号だ。これでまた彼女に会える確率はぐっと上がった。一晩床を共にした仲で終わらないという希望が、トキトの表情から何からすべてににじみでていた。
「なによそれ、名刺?」
マヤが覗き込んでくるとサッと名刺をポケットに入れた。気づかれると面倒だ。特に裏方であるマヤは商品である自分たちの女性関係にはうるさい。
「知り合いからもらった」
「知り合いって誰よ。女?」
「違うよ、隼人くんだよ」
「ああ……警察官の……」
「隼人くんは女っ気がないからねぇ。男友達紹介してもらったんだ」
すらすらと嘘をついて言いくるめる。職業柄そこまで深追いする気もないのか追撃も止んだ。
「そういやまたあのお客さんからラブコール来てるわよ。さっさと行ってやんなさい。羽振りいいんだから」
「ああ、うん……わかった」
少し歳をとって羽振りがいい女性からお金をむしり取るのが仕事だ。でも雪は別。たとえ彼女が貧乏人でも甘い言葉を囁きたいしなんなら抱きたい。
「早くまた会いたいな」
呟いて、重い足取りで店へと向かった。
大将にしこたま笑われた晩を通り過ぎた今日は休日。
雪の気分は最悪だった。
それでも気力を振り絞って、飲み会に連れてった友人の千穂に抗議の電話を入れる。文句ぐらい言いたい。しかし返ってきた言葉は信じられないものだった。
「大丈夫だと思ったから。大丈夫だったでしょ?」
これが傷心中の友人にかける言葉だろうか。いや彼女は昨日の出来事を知らないので濡れ衣だが、それにしたって冷たすぎやしないか。
「千穂のバカバカバカ! 普通酔っ払った女を放置する? 大人としてありえなくない?」
何が大丈夫だったでしょだ。こっちは危うく処女喪失しかけたんだぞ。
「だって雪が大丈夫って言ったんじゃん」
「言ってな……」
まったく記憶にない。酔っぱらいの戯言の可能性はなくはない。いや、大いにある。
「それにしたって……そのせいで……そのせいで……」
「なになに? なにかあったの?」
まったく悪びれもしない千穂に苛立ち、そのまま通話を切った。
そんな雪を着信音が咎める。鞄の中にある仕事用のスマホだ。電話に出る気分では到底ないが、休日にかかってくる以上、なんらかの急用だろう。出ないわけにはいかない。出たくない。
「はい、有沢です」
「こんにちは、雪ちゃん」
ぶつりと通話を切った。
なんだいたずら電話か。
がんばって仕事用の声を作った努力を返せと言いたい。
コール音が鳴る。またも同じ番号からだ。無視したい。非常に無視したい。だが仕事用のスマホであるがゆえに出ないわけにはいかなかった。
「はい、有沢です」
「ひどいよ、雪ちゃん。いきなり切るなんて。一晩共にした仲なのに」
夢だと思いたかった。なんなら今すぐ逃げたかった。しかし出遅れた。相手は話し始めてしまった。あの晩を共にしただらしのない優男!
「ねえ、今ヒマ? デートしない?」
「なんで……この番号……」
「いやだな、名刺に書いてあったよ。会社の番号と雪ちゃんの携帯の番号」
そうだった。名刺には個人情報は書かれていなくても連絡手段は書いてある。この男が会社経由で雪にコンタクトを取らなかっただけマシだが。
「金輪際、この番号にかけてこないでください!」
「え~なんで?」
「なんでってあなた……」
呆れて言葉が出ない。
「これは仕事用のスマホなんです! かけてこられたら迷惑です!」
「あ、じゃあプライベートの番号教えてよ」
「あああああああそうじゃなくてぇえええええ」
相手はこちらが連絡を絶ちたいというのをわかっているのだろうか。わかっていないだろう。そうでなかったらかなりの性悪だ。いや今の状態でもたちが悪いが。
「私はあなたになんて会いたくありません! 二度と私の前に姿を見せないでください!」
そう怒鳴りつけてぶつりと通話を切った。ついでに電源も切った。大丈夫、もし仕事の電話がこの間にかかってきたとしてもスマホが故障していたとか言い訳しておけばいい。
今は仕事のことより、あの優男から逃れることが先決だった。
切れたスマホを前に、トキトは意外そうな顔をしていた。
自分の顔はしっかり見られたはずだし、一晩を共にした状況に遭遇すればどこかしらこちらになびくと思っていた。トキトは自分の顔が良いことを自負していた。
だから女は大抵自分のほうに落ちる。そんな確信が彼の中にはあったのだが、有沢雪にはどうやらそれが通用しないようだ。
「へぇ……面白いじゃん」
名刺を見ると会社の住所が載っている。電話で拒絶されたのなら直接会いに行けばいい。
でも会うだけではダメだ。雪は他の女とは違うんだ。
トキトは久しぶりに真面目に、自分のアピールポイントを頭の中で反芻しだしたのだった。
「それで会社に張りこむことにした、と?」
こくりと頷く親友に、深く深くため息をついた。
昼も過ぎた派出所。そこにふらりと現れたのは腐れ縁の親友。夜の仕事をしているからこんな時間に寄りつくのは珍しいと思えば、彼は息もつかせぬ勢いで昨日の出来事を語った。同僚が訝しげな顔でこちらを見ている。「こいつ知り合いなんで。害はない。いざとなれば追い出すから」と、こちらを優先した自分のなんと優しいことか。だが話を聞いて思ったことはひとつ。
バカだ。こいつはバカだ。
「おまえ、それをストーカーって言うんだよ」
「ストーカー? 違う違う。雪ちゃんと会うためだよ」
「相手が嫌がってんのにそういう思考してんのがすでにアレなんだよ」
紺色の制服、腰には警棒と無線機。いざとなれば拳銃だって携帯できる警察官の隼人にとっては、親友のこの発言はいささか見過ごせないものだった。
「被害届け出たら逮捕されるぞ。もう少し慎み深い行動をとれよ」
「誤解だよ」
「おまえの主観の話なのに相手が嫌がってるのが伝わってる時点で誤解じゃねーんだよ。友人が逮捕とかマジ勘弁してくれよ」
「助けてくれないの?」
「おまえ俺の職業知ってて言ってる? 友人だからかばうとかしたら立場無くなるっての」
深い深いため息。もうこれで何度目だろう。
「さっきから態度そっけなくない?」
「勤務中に押しかけてこられたらそっけなくもなるさ。昼間なんだからホストは大人しく寝てろ」
「そうは言っても雪ちゃんに会うには昼間じゃないとダメだろ? 今は寝る時間も惜しいんだ」
こいつは本気だ。隼人は親友が珍しく本気の恋をしていることを悟った。そうしてため息をつく。こいつとは高校時代からの付き合いだが、恋をしたトキトがまともだったことなど一度も見たことないのだから。
そいつは突然現れた。
「雪ちゃん!」
雪がルートから戻ってくるところを狙ったのか、それともただの偶然なのか。前者なら証拠さえあればストーカーで訴えてやりたいところだ。
とにもかくにも、あの優男が会社の前に立っていたのだ。
開いた口が塞がらない。スマホにかけてこないから諦めたのかと思っていたら、まさか待ち伏せされるなんて!
「しんっっっじられない!! 会社まで押しかけてくるなんて!」
思わず怒鳴りつける。しかし男は悪びれもなくニコニコしている。
「だって会いたかったんだもん。ね? 俺と付き合ってよ。後悔させないからさ」
「もうすでにあなたに会ったこと自体が後悔の塊なんですが」
「オレけっこうお金持ってるんだよ。欲しいものなんでも買ってあげる! 雪ちゃんに楽させてあげられるよ!」
「いりません!」
「あとはこの前はできなかったけど、雪ちゃんを気持ちよくさせてあげられるし」
本当に信じられない。ラブホのときもそうだったが、彼には節度というものがないのか。
「あとはそうだな……オレ顔いいから目の保養になるよ!」
雪の我慢のゲージがカンストした。もう限界。もう無理。何がよくてこんな目に遭わなければならないのだろう。
「あなたみたいな節操のない人は嫌いです! もう私に関わらないでください!」
「雪ちゃん、声大きいって!」
口を手でふさがれる。ほっそりした、しかし角ばった男の手が唇に触れる。甘い香水の匂い。それに混じって自然な匂いが鼻をつく。それに痺れのような感覚を脳が覚えびくりとする。そんな自分に驚きつつ、口をふさぐ指に噛みついた。
「いっっ!?」
「信じらんない……」
それはどちらに向けての言葉だったのか自分でもわからなかった。
「雪ちゃん……ごめん、苦しかった?」
「そんなんじゃない……でももう私の前に現れないで」
それだけ呟き、雪は足早に会社の中へ入って行った。
『今日は休みます』の連絡を入れてこっぴどく怒られたのがついさっき。トキトは適当に入った居酒屋で酒を飲んでいた。この状態で女の子たちに甘い言葉をかける気には到底なれなかった。なんといってもフラれたばかりだ。どんな顔をすればいいのだろう。
笑顔ってどう作ってたっけ?
そんな思いまで頭を掠める。それほどまでに雪の言葉はトキトを抉りつけた。
手の中にはずっと持ってた名刺。彼女から巻き上げたものだったが、トキトにとっては宝物に近かった。それはフラれた今となってもまとわりつき、苦しめた。
「ホントに好きなのに……」
くしゃりと潰れた名刺が彼の心を代弁しているかのようだった。
カウンター席に突っ伏している若者を見るとつい声をかけたくなる。これは歳を重ねるとどうしようもない性のようなものだと、居酒屋の大将大熊陣は思っていた。
だからだろう。今日もカウンター席に虚ろな表情で酒を飲んでいる青年に声をかけた。昨日は常連の女性だったが、この青年は初めて見る顔だった。
「どうした青年。元気ないな!」
青年はゆらりと顔を上げ自分を認識すると、こくりとやけに素直に頷いた。
「そうかそうか。俺で良ければ話聞くぞ!」
「……聞いてくれます……?」
そうして青年が語りだしたのは、失恋話だった。いや、正確に言うと諦めてはいないらしいので失恋ではなくフラれただけだと、彼は力なく笑った。それが強がりからくるものなのは一目瞭然なのだが、それより気になるのは内容のほうだ。この道端で酔いつぶれていた女性をラブホで介抱し、名刺を頼りに会社に押しかけフラれた。後半はともかく前半の流れは先日雪から聞いた話と合致する。まさかこの男が。いやまさかそんな偶然あるだろうか。
ぐだぐだ話している彼を眺めてみる。イケメンである。
整った顔立ちにふわふわのパーマがあたった黒髪。垂れがちな目は愛嬌もあり女性受けする顔をしていると、男の陣からも見て取れた。弟子の純も似た系統の顔立ちをしているから、仮にこの青年が件の男だとすると、雪が純を嫌がったのにも合点がいく。
のんきに話を聞いていた陣は、いつの間にか青年が泣きだしていることに気づいた。
「ホントに好きなんです……一目ぼれだしちょっと喋ってみてオレになびかない女って珍しくって楽しくて、ガチ恋になっちゃったんですよ……」
「まあその女もびっくりしただけだって!」
「びっくり……?」
「おまえさん、朝起きて知らない男が傍にいたらどう思う?」
青年はシチュエーションを思い浮かべている様子で視線をさまよわせ、恐る恐るといったように口を開いた。
「驚きます……」
「だろ? その男がさらに迫ってきたらそりゃまたびっくりするだろうよ」
酒を煽ろうとする青年。その手を陣が止める。
「心当たりがあるなら反省しな。酒と一緒に飲み込むなんざ、臆病者のすることだ。諦めてないなら今ここで吐き出しちまえよ」
鋭い眼光に青年は少し怯み、それからぽつぽつと呟きだした。
「怖がらせたかもしれない……でもそんなことオレは思いもしないで自分のことだけ押し付けて……」
困惑と後悔が混ざったような眼だ。無理もないか。
「オレ、どうしたらいいんですかね」
「まずは無理強いを止めることだ。相手はストーカーだと思っているかもしれない。ほとぼりが冷めたらまた連絡してみるなり会いに行くなりするといいさ」
そしてそれはそう遠くない未来だと、陣は思っていた。
青年は今度こそ酒を煽った。
「そんな話ひどくない!?」
そう言うと雪はジュリエンヌの腹をこぶしでアタックする。テディベアであるジュリエンヌは布地の腸をへこませ黙ったままだった。強まる追撃に、持ち主である春子は思わず叫ぶ。
「やめて! ジュリエンヌに罪はないわ!」
「ごめん、ちょうどいい殴り心地だからつい……」
大人しくジュリエンヌを彼女の指定席に座らせた雪が、今度は春子に詰め寄ってくる。
「でもひどい話だと思わない!? 何かに当たりたくなる気持ちにならない!?」
職務から帰ってきた春子を待っていたのは、今にも死にそうなくらいやつれた雪だった。雪とは学生時代からの付き合いだが、彼女がここまでになる理由が皆目見当がつかない。雪は地味だが頑固で意志が強いので、生半可なことでは折れないのだ。
それが今はどうだ。
男につきまとわれた話を延々とし、ジュリエンヌに当たる雪。これは相当心が折れている。
二杯目のハーブティーは気分が落ち着くラベンダーにしよう。そういう気づかいを込めて、電子ポットのスイッチを押した。
「確かにつきまとわれるのは嫌よね」
「春子捕まえてよ~」
「無理よ。何かあってからじゃないと、警察は動けないわ」
「ちくしょう~~~~~~~~~」
ダン、とテーブルを叩き突っ伏す雪。半分残っていたカモミールティーが零れた。万能薬といわれたカモミールでも、雪の調子は収まらない。やはりラベンダーか。
「でも、そのストーカーには嫌いって言ったんでしょ? 諦めたんじゃない?」
「わかんない。それから見てないから」
冷めたカモミールティーを飲み干し、雪は春子のベッドへダイブする。シャワーを貸したので部屋着も春子のものだ。雪のくたびれたスーツは壁際にかけた。それがこのぬいぐるみが多く立ち並ぶ部屋と不釣り合いだった。
「傷ついてたりして」
春子がぽそりと呟いた言葉に、雪はばっと上半身を上げてどたどたと詰め寄ってきた。
「なんでそうなるの!?」
「だって、ストーカーとはいえ、雪のこと好きって言ってたんでしょ? それなのに雪ってば『嫌い』だなんて強い拒絶したんだから、傷ついてもおかしくないと思うの」
「じゃあ被害者の私は泣き寝入りってこと? おかしくない?」
「そういうんじゃないわ。もっとやんわりとした断り方があったと思うの。そうじゃない?」
「だって……あいつの顔見るとついイラッときちゃうんだもん……」
雪はまたどたどたと、今度は年季の入ったうさぎのミルフィーを抱え込みベッドへ寝転がってしまった。
きっとふてくされてるのだろう。
ラベンダーティーが一杯余分になったが、飲めない量ではないので良しとしよう。
春子の部屋には心地よいラベンダーの香りが漂っていた。
「最近調子のおかしい子がいるの」
マヤはそう言って右脇腹付近に鋭い蹴りを入れる。もちろんそれは入るわけもなく軽く手でいなされてしまう。
「調子がおかしいって? 夜遅くの仕事だし疲れてるんじゃないですか?」
蹴りを止めた同じ道場の門下生の純は、他人事のように言いながら女子の顔面にパンチを繰りこんでくる。もちろんすんなり躱す。
「やっぱり純に相談するのは筋違いだったわ。陣さんならもう少し話聞いてくれるのに。今日いないの?」
「今日は武術道場のお偉いさんたちの会合だからねぇ。こっちには来れないんじゃないかな。おかげで店も臨時休業だしね」
「じゃあ悪いけど聞いてもらうわよ!」
語尾の最後に繰り出した蹴りは空を切った。
相談役に向いていない純にさえ聞いてもらいたいとマヤが思うのには、それだけ切羽詰まった理由がある。
マヤはホストクラブの裏方仕事をしているのだが、そこのナンバーワンホストが最近不調なのだ。笑顔がぎこちなく、囁く言葉も上の空のよう。贔屓にしてもらっている客からもクレームがくる始末で、マヤも頭を悩ませていた。
「何かきっかけとか心当たりないの?」
受け取ったスポーツドリンクを口にし、記憶を探るまでもなくある出来事が頭に思い出される。
「ないこともないんだけど……」
一度だけ、やけに機嫌がいい時があった。だがそのすぐあとから急に不調に陥りだしたのだ。
「直接聞いた方がいいんじゃない?」
「聞いてるわよ、何度も! でも、『すみません』と『大丈夫です』の一点張りで何にもわかりゃしないのよ!」
ぐりっとペットボトルを握り、苛立たしさを露わにするマヤ。そんな彼女に対し、純は相変わらずのんきだ。
「人間生きてればそういうこともあるよ」
やはりこいつは相談役には向いていない。
目下の悩みは解決せず、わかりきったことだけがわかったのだった。
「先輩、最近ストーカー被害の通報ってありますか?」
思わず口にふくんでいた緑茶を吹きだす。同僚の太刀川春子から発せられた、あまりにもトレンドな話題に驚いたのだ。
「俺は聞いていないが、なんで急にそんなことを?」
隼人は平常を装いつつ口元を拭うが、内心は心穏やかではない。つい先日親友がストーカーまがいの行為をしようとした話を聞いたばかりだからだ。まさか本当に通報されて捕まったか、いや自分の知る限りそんなはずはない。
突然茶を吹きだした隼人に首を傾げながら、春子は言葉を続ける。
「友人が被害に遭ってるんですよ。私としては、好きの一方通行だと思うんですけど、今の彼女なら通報してもおかしくないかなと思って」
「へ、へぇ~そう……まぁ警官としては、犯人捕まってほしいと思うな」
親友としては捕まってほしくない。というか、あいつはあれからどうしたのだろう。元々頻繁に姿を現す奴ではなかったが、あれほど浮かれていたにも関わらず、その後一切の報告はなかった。
諦めたのだろうか。いや、あの面倒くさい性格のトキトが諦めるとは思えない。きっとなにかあるはずだ。そうは思うものの逮捕されるのは止めてほしい。本気で。
「ストーカーが恋の一方通行なら、警察なんていらないさ」
「それもそうですね」
彼女は頷いた。
面倒ごとは止めてほしい。ただ、隼人はこれが嵐の前の静けさのような気がしてならなかった。
最悪だ。
雪は自分の不運に嘆いていた。
ルート周りが終わり、あとは会社に帰るだけだというときに。ヒールが折れたのだ、ボキリと。
右足のヒールが折れたとき、べしゃっと体が地面に叩きつけられる。
「いっ……た……」
盛大に転んだにも拘らず、周囲は無関心を決め込んでいる。世知辛い世の中だ。
アスファルトに打ちつけた脚を見る。ストッキングが破れ、その下の肌が露出し赤い血が滲んでいた。
最悪だ。
そんな感情を、深い深いため息でやり過ごす。
「あれ? もしかして雪ちゃん!?」
聞きたくなかった声がした。あのストーカー男だ。
男は地面にうずくまっている雪に、見るからに慌てているようだった。加害者でもないくせに変なの。ストーカーには変わりないが。
そんなことより逃げたい。今すぐにでもこのストーカーから逃れたい。だが脚が痛くて動けない。
そうこうしていると男はまっすぐ雪のほうに向かってきた。
「雪ちゃんこんなとこに座って……」
言いかけたところで、雪の脚の惨状を見て言葉を途切れさせる。
「雪ちゃん、脚ケガしたんだね」
男は雪をひょいと姫抱きにする。細身のわりに意外と力持ちなのだろう。
香水と、そうではない自然の香りがする。
「はっ、放して!」
「でも雪ちゃん、このままじゃ動けないでしょ。病院連れてくから」
「びょ、病院!? いい! そんな大げさじゃない!」
「でもほっとけない」
このままでは本当にこの体勢のまま、ここから距離がある病院に連れていかれそうだった。
そんな恥ずかしいことされてたまるか!
「会社までで、いいから……」
「え?」
「この前押しかけてきたでしょ、あそこ。すぐそこだから」
「そこまでいけば大丈夫なの?」
「救急箱あるし」
男は少し考えを巡らせているようだったが、やがて「わかった」と呟いた。
なんだ、普通にいいところあるじゃん……。
周囲に顔を見られたくなくて埋めた首筋は温かく柔らかく、悔しいことに心地よかった。
雪が知らない男と会社へやってきた。
事務員の千穂は、平常を保ちつつ内心興味津々だった。
雪は現在彼氏がいない。社内でそんな噂もなかったし、この前飲み会でべろべろに酔わせてやっても男関係の話は出なかった。
「雪! どうしたのそのケガ!」
「ちょっとヒールが折れちゃって転んだの」
「それでイケメンにお姫様抱っこ? あんたどんだけ前世で得を積んだの!」
「イケメンでもこいつにだけはされたくなかった! 不可抗力だから! 大体千穂! もう終業時間でしょ!? いつもならとっくに帰ってるのにちょっかいかけてくるな!」
「ひどいよ雪ちゃん! 一夜を共にした仲なのに」
「ストーカーは黙っててください!!」
なんと。これは聞き捨てならない。あの飲み会のあと、タクシーを呼んでやることもせず寒空に雪をほっぽりだした千穂だが、まさかまさかの展開、雪が新しい男と一線を越えてしまったというのか!
「えっ、なにそれちょっと詳しく……」
「いいから! 千穂はさっさと帰って!」
怒鳴りつけられる。確かに千穂は残業などせずさっさと帰宅するのが常だが、友人の恋バナは見過ごせない。
「男っ気がなかった雪にやっと春がきたんでしょ!? その話、聞かずしてどうするの!?」
「うるっさい! 大体、こんなことになったのも、千穂が私をほっぽりだして先帰っちゃったから!」
「だって誰も雪の家知らなかったし、雪も大丈夫って言うんだもん」
「あぁああああああ私のバカぁああああ」
バタバタと暴れる雪に、雪をお姫様抱っこしている男は少し大変そうになだめようとしている。優しくて甘い声をしていて、こいつは雪に恋してるなというのが一瞬でわかった。
「とにかく! 手当してあげるからこっち座りなさいな」
ロビーのソファーを指してやると、男は素直に雪をそこに座らせた。ゆっくりと、優しく。まるで壊れ物を扱うかのように。
「じゃあ私救急箱取ってくるからちょっと待ってて」
上履きに履き替えて会社の中へ入っていく。救急箱はどこにあったっけというのと、なんと言って雪から事の顛末を聞き出そうかということで、千穂の頭はいっぱいだった。
雪は苛ついていた。
元凶は目の前にいるし、さらに遡った元凶はおもしろがるばかり。これでどう心の平常を保てばよいのだろう。
「雪ちゃん、痛くない? 大丈夫?」
今雪を苛つかせている元凶の一人が尋ねてくる。
痛みはあるが、擦りむいただけだ。ついでにいうならストッキングが無駄になったくらいだ。それを病院などと大げさだ。
……心配、してくれているのだろうか。
雪は心の中に浮かんだ言葉をすぐさま消し去る。ストーカーはストーカーでしかない。今回のことだって、無理矢理病院に連れてこうとしたじゃないか。
でも結局は雪の意志を尊重した。
この男、まさかいいやつなのではないか?
そんな思いが浮かんできて、慌てて首を横に振った。男は不思議そうにこちらを見ている。
その目には一切の邪気がないように感じて、雪は少なからず混乱した。
こいつは私のことをおもしろがって、そしてストーカーで、でも今は助けてくれて……
頭の中がぐちゃぐちゃだ。それもこれも、この男が優しくするからだ。ダメだ、これ以上は……
「雪ちゃん?」
「ここまで運んでくれたことには感謝します。でももう、私に関わらないでください」
大人しかった男が突然雪の両肩を掴んだ。そして声を荒げて言う。
「そんなの嫌だよ! だって好きなんだから!」
好き。
自分へのそんな言葉、久しく聞いてない。この男くらいだ。
昔から強気な性格が災いして、男子とは上手くいかないことが多かった。彼氏なんてできたことないし、恋バナにも興味はなかった。そんな雪に、この男は『好き』だと言う。
頬が熱い。胸が苦しい。こんな感覚、知らない。
「知らない……そんなの……」
「オレは雪ちゃんが好きだ!」
ナイフで胸を抉られるような痛みだった。どうしてこんな痛みが?
わけもわからず、しかし原因が目の前の男だということだけはわかっている雪は、声を荒げて叫んだ。
「知らない! 帰って! お願いだから!」
泣きそうともとれる声だったかもしれない。
男は少し黙っていたが、やがて「わかった」と呟き、雪の前から去っていった。
男が消えると胸の動悸も頬の熱さも和らいだ。
「あれ? あの人もう行っちゃったの? 聞きたいこといっぱいあったのに」
あとからやってきた千穂がのんきにそんなことを言う。
こちらの気も知らないで。
手当されている間、千穂の問い詰めには結局雪は何も答えなかった。
あんな顔、させるつもりなかったのに。
トキトは公園のベンチで一人項垂れていた。
雪の、今にも泣きそうな顔を思い浮かべる。出会ったばかりの頃ならおもしろがって写真の一枚でも撮ろうとスマホを持ち出しただろう。
だが本当に彼女に好かれたいと思っている今では、そんなこと天地がひっくり返ってもする気にはならなかった。
「会いたいなぁ……」
哀愁漂う呟きに答える人はおらず、白い息と共に寒空へと消えていった。
あの優男との遭遇から一週間経った。
スマホに連絡が入ることも、まして会社に押しかけてくることもない。すべてが平常通り。
そのはずなのに。雪はどこか心がうずくのを感じて仕方なかった。何かを待っている? そんなバカなことってある?
何度も自問自答していて、そこを千穂に何回かつつかれたが無視した。煩わしくて、何が煩わしいのかわからなくて。それでも日常は進んでいく。
夕方。次のルートへ行く道すがらのことだった。
「今日はお店にいるんでしょ~」
「そうだよー。いっぱい満足させてあげるから覚悟してね?」
聞いたことのある声だった。聞きたくなくて、でもこの一週間、ずっと探していた声だった。
声のほうを向くと、あの男がきらびやかな服装をした女性と話ながら歩いているところだった。
ばたり、と鞄を落としてしまう。なんてテンプレな動作だと言われたとしても、今の雪にはそれ以外どうすることもできなかった。
なんだよ、私のこと好きって言っておいて、別に女がいるんじゃないか。ストーカーまがいのことも、あいつにとっては単なる遊びの範疇で、私はただ揶揄われていただけだったんだ。
そう思うと途端に空しくなる。そして腹が立った。
「あっ……雪ちゃん!?」
呼びかける声が聞こえた気がしたが、無視してその場を走り去った。
「春子! 春子いるんでしょ!?」
「ちょっと待って雪! ここわたしの職場!!」
夜の派出所。夜勤の春子はいつものように勤務に勤しんでいた。しかし突如それを妨害する者が現れた。雪だ。
どうやらひどくご立腹のようだ。先輩に咎められる前になんとか宥めなくては。
「何があったっていうの? 人の職場にまで押しかけてくるなんて雪らしくないわ!」
「だって……だってあの男が……あいつが……」
「この前のストーカーのこと? とにかく落ち着いて話して」
雪をパイプ椅子に座らせ、毛布を膝にかけてやる。そうこうしてると奥から先輩の高峰隼人が顔をのぞかせる。やや焦ったような雰囲気に見えるのはなぜだろう。
「今ストーカーって聞こえたんだけど……」
春子は雪の後ろから両肩に手を添える。
「この前言ってた友人です」
それで察したのか「ああ」と頷いてこちらへやってきた。
「お辛いでしょうが、今は落ち着いて。そしてゆっくりでいいので話してくださいね」
隼人が優しく声をかける。さすが先輩、手慣れてる。いや、こういうのは知り合いより赤の他人のほうが話を聞き取りやすいのかもしれない。
とりあえず、派出所に持ち込んでいたラベンダーティーでもいれようと、春子は流しへと向かった。
さてどうするべきか。
目の前には、やや落ち着きを取り戻したが怒りを抑えきれていない女性。交代したはいいものの、地雷を踏んで爆発されてはたまらない。ここは少し待つべきか。
隼人がそんなことを考えていると、女性のほうから言葉が呟かれた。
「嫌いなんです……」
それから聞かされたのは、どこか聞いたことのある出来事。飲み会の翌日ラブホで知らない男に介抱され、会社にまで押しかけられたことなどをぽつぽつと語った。
それに頷きながら、隼人の内心は穏やかではなかった。
トキトじゃねーーーーーかーーーーーー!
親友が一般市民を困らせている。その事実を目の当たりにした警官の隼人は頭を抱えたくなった。この女性が訴えれば親友は間違いなく逮捕される。それはどうにかして回避したい出来事だった。
「大変でしたね」
声をかけると女性はぽろぽろと泣き出してしまった。困った。隼人は途方に暮れた。もしこれがただのストーカー被害者だったらここまで困らなかったかもしれない。だが彼女のストーカーは自分の親友だ。親友が逮捕されるのは外聞が良くない。
「雪も怖かったのね」
奥から人数分のお茶を入れてきた春子が、意外そうに言う。聞けば、女性は気が強くめったなことでは泣かないと思っていたらしい。
「私、揶揄われていただけなんです……」
ぐすりと鼻をすする女性にボックスティッシュを手渡してやる。何枚か紙を引き抜き鼻をかむ音が夜の派出所に響く。
さてどうするか。
形ばかりとはいえ調書は取るべきだろう。そう思い引き出しを開けようとした隼人の耳に、今一番聞きたくなかった声が聞こえてきた。
「隼人くんーーーーーーー!!!!」
トキトだ。ついでに目の前の女性のストーカーだ。
これはもう俺にはどうしようもない。
隼人は早くも諦めの境地に達していたのだった。
なんてことだろう。
あまりに腹が立ったから、とにかく話をぶちまけたくて親友の春子の職場に押しかけるという、普段なら絶対しないことをしたのに。
あろうことかあの男もここに来るとは。
胸が痛い。涙腺がまた刺激される。すべては目の前の男のせいだ!
「春子! あいつ! あいつがストーカー! 逮捕して! お願いだから!」
「あらイケメンじゃない」
「そういう問題じゃない!!」
バンバンと机を叩く。警察ってやっぱり市民の味方じゃない。ただの公務員の税金泥棒だ!
そんなやさぐれた思考をしだした雪の肩にぽんと手が置かれる。春子と夜勤を共にしていた男性警官だった。
「あの……なんかごめんなさい……」
「な、なんであなたが謝るんですか」
男性警官はバツの悪そうな顔をして黙り込んだ。
そうこうしてると彼にストーカーが詰め寄ってくる。
「えっ、なんで雪ちゃんが隼人くんといるの!? 知り合い!?」
「ちげーよ、いま初めて会って、おまえのバカさ加減を謝罪したとこ」
「お知り合い……なんですか……?」
雪は恐る恐るといったように尋ねた。そうして警官が頷くと、深いため息を吐いた。
「警察の知り合いにストーカーだなんて……世も末ですね」
「すみません。こいつ恋すると面倒くさくてさ」
「ストーカーを恋なんて言葉に置き換えないでください! 会社にまで押しかけて来たんですよ!」
「だって会いたかったんだもん!」
「トキトは黙ってろマジで!」
あの男はトキトというのか。今初めて知った。
そういえばずっと優男のストーカーという認識しかなかった。知ろうともしなかった。そんなことを思っていると突然がしっと手を掴まれた。トキトだ。
「雪ちゃん。この前はごめんね。ホテルでのこと。怖かったよね。オレも雪ちゃんが可愛くてそんなこと気づけなくて…………ごめんなさい!」
手を握られたまま勢いよく頭を下げられる。
「おもしろがってたくせに」
「だってそのときはおもしろかったと思ったんだ。でも雪ちゃんにしてみれば、知らない男と一緒にラブホなんて怖かったよね」
おや、と雪は思う。ストーカーなんて相手のことをまったく考えない人種かと思ったが、意外とそうでもないらしい。少なくともこのトキトは、あのときの雪の気持ちを、彼なりに考えたということは見て取れた。
まあ、だからといって仕事用のスマホに電話したり会社に押しかけたりしていいわけではないのだが。
「あなたに迫られたとき、本当に怖かったんです」
「うん、ごめんなさい」
頭を下げたまま謝罪の言葉を口にする。ただし手は握ったままだ。会社の前で唇に当たった、角ばった男の手だ。
その筋に、雪は指を這わせる。びくりと手が揺れる。
「許したわけじゃないです」
手を引き抜こうとして、でもがっちりと掴まれているのがわかるとすぐに諦めた。
「女の服脱がしたり寝起きで混乱したとこ写真撮ろうとしたり会社まで押しかけて来たり、男の風上にもおけません。ドン引きです」
「うっ」
顔は下げられてどんな表情をしているかはわからないが、声からしてダメージを受けているようだった。そうなるように言ったのだから効果的だったということだな。自画自賛。
「許してくれとは言わないよ……雪ちゃんがそう思ったことは事実だから……」
「私のこと好きって言っておいて、別の女の人といたくせに」
「あれは仕事の……オレ、ホストやってるんだ! 今本当に恋したいのは雪ちゃんだけだよ!」
「信じられません」
「じゃあっ!」
そこでばっと顔を上げ、トキトはまっすぐ雪を見つめた。
「とっ、友達から始めてもらいたいんだけど、いいかな?」
雪はまじまじとトキトの顔を眺めた。整った顔立ち、睫毛が長く幼かったら少女と見間違うような、そんな相貌だと気づいた。そんなイケメンの顔が真っ赤に染まって必死にこちらを見ているものだから、雪は思わず笑ってしまった。
「うっそ、雪ちゃん今笑うところ!? かわいいけど!」
「ウケるその顔……」
「ひどい!」
「あなたが私に最初に言った言葉もこれじゃありませんでした?」
「うっ……」
覚えていたのか視線をそらす。加害者側は他人を傷つける言葉を忘れやすいが、彼は覚えていたようだ。
それに免じて……
「友達、ですよ。それ以上はありませんから」
「え……」
目を丸くして雪を見るトキトは鳩が豆鉄砲を食ったようという表現がぴったりな顔をしていた。
しばしの沈黙。
「やっっっったぁあああああ! 隼人くんやったよオレ!」
男性警官のほうへ顔を向け歓声を上げるトキト。その間も手は雪の手を握ったままだ。
「話聞いてたか? 友達が認められただけだぞ」
「それ以上にしてみせるから! 雪ちゃん、覚悟してね!」
「それでまた同じようなことしたら、今度こそ警察に通報しますから」
「大丈夫!」
その自信はどこからくるのだろう。
ただ、無邪気に喜ぶトキトを見ていて悪い気はしなかった。
いかがだったでしょう。
多少強引な箇所はあったかもしれませんが、個人的にはこれでいいかなと思っています。
雪とトキトがちゃんとくっつくかはわかりませんが、がんばってほしいですね。
最後に、こんな小説に目を通してくださりありがとうございました。