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「鳴海さん、お店閉めました」
「お疲れさま。上がっていいよ」
閉店時間を迎え、店舗側の戸締まりを済ませて厨房に顔を覗かせた葵に、鳴海は声をかけた。
「あ、はい。お疲れさまです」
応えながらも、葵は邪魔にならない位置に立って、興味深そうに鳴海の手もとを覗きこんでいる。ちょうど、コーティング用のチョコレートを、大理石の台の上でテンパリングしているところだった。
鳴海が両手でパレットナイフを操るさまを、葵は真剣な眼差しでじっと視つめる。
「やってみるか?」
あまり熱心に眺めているので尋ねると、葵は即座に胸のまえで両手を振って後退った。
「とっ、とんでもないっ! ダメです! 素人のあたしなんかがやったら、せっかくのチョコレートがだいなしになっちゃいますっ」
思いのほか大きなリアクションを返されて、鳴海はクッと笑った。それを見た葵が、わずかに不服そうな表情を浮かべた。
「……もしかして、からかっただけですか?」
「いや、そんなことはない。本気だった」
鳴海は否定したが、葵の顔から疑惑の色が消えることはなかった。
一瞬止めただけの作業を、鳴海はすぐに再開する。チョコレートのツヤを出し、口溶けをなめらかにするために欠かせない作業。カカオバターが表面に溶け出すファットブルーム現象を防いで、商品の質の高さを維持するためには、使用する材料の種類や配合によって、温度や攪拌のしかたも調整しなければならない。熟練の勘と技術が要される、難しい作業だった。
カカオバターの結晶が全体に安定して均一になったところで、作業台の下に据えられた巨大なボウルに少しずつチョコレートを落としこんでいく。それをすべておさめ終えると、鳴海は手にしたボウルを別の作業台へと移動させた。
息を詰めるようにそれらの工程を見ていた葵の口から、ホッと肩の力が抜ける。その様子を見て、鳴海は表情をなごませた。
「それじゃ、君にもできる仕事を最後にひとつ」
「あ、はい」
返事をした葵を、仕種で招き寄せる。すぐ傍らに来た彼女に、型から取り出したボンボンショコラをひとつ差し出した。
「新作の味見」
うながされて、ダークチョコレートでできたひと粒を、葵はやや緊張した面持ちで受け取った。目の高さに持ち上げたそれを、吟味するように眺めた後に慎重に囓る。その目が、ややあってから瞠られた。
チョコレートの中から弾けてひろがったのは、甘酸っぱい芳醇な液体。その意外な風味に、葵は驚いた様子を見せた。
「……これ、梅ですね?」
感歎の色を浮かべたまま、葵は口にする。
「そう。梅のリキュール」
鳴海が頷くと、葵は鳴海を顧みて「美味しい!」と声をあげた。その口許に、ごく自然な様子で笑みが零れる。返ってきた反応に、鳴海は満足げに息をついた。
「いい反応がもらえてよかった。これなら安心して店頭に出せそうだ」
「ええ。お客様もきっと喜ばれると思います。あたしなんかの感想でいいのか、自分の舌に自信ないんでちょっと不安ですけど、でも、あたしはすごく好きです、これ。爽やかで、口の中にあっというまに梅の風味がひろがって。周りの甘さを抑えたチョコレートとの相性も、ぴったりだと思います」
「じゃあ、こっちは?」
問いかけと同時に、今度は調理台わきに置かれていたふたつの容器から、それぞれひとつずつトリュフを取って差し出した。色合いから、いずれも抹茶のチョコレートと思われた。
ふたたび試食をうながされ、葵はまず、渡されたひとつめを口に運んで慎重に味見する。それからもう一方も、ゆっくり吟味した。
「あ……」
よくよくふたつを食べ比べたあとで、葵はポツリと呟いた。
「違いがわかるか?」
問われて、葵は頷いた。
「ほんのちょっとの差なんですけど、柚子の風味が……」
抹茶チョコでコーティングされたトリュフの内側のガナッシュに、それぞれ異なるバランスで柚子の風味が加えられていたのだ。
「あと抹茶チョコも、少し違うような気が……」
「なかなか優秀だ」
鳴海は口角を上げた。
「ガナッシュに加えた柚子のバランスに合わせて、抹茶の配合と甘さも調節してある」
「すごい! おなじ材料でも、こんなに変わるものなんですね」
「そういうこと。で? 君はどっちが好きだった?」
訊かれて、数瞬考えた葵は、ややあってから「最初のほう」と答えた。口調は遠慮がちだったが、その表情に迷いはなかった。それを見て、鳴海は頷いた。
「わかった。じゃ、そっちを商品化しよう」
鳴海が言った途端、葵は愕然とした表情になった。それから直後に、今度はおろおろとあわてふためきだす。
「えっ!? まっ、待ってくださいっ! そんなっ、あたしの好みでそんな大事なこと決めちゃうなんてっ」
「だけどいま、迷わなかっただろう?」
「それはそうですけど、でもっ、素人の一存で決めていいことじゃないです、絶対! 鳴海さんご自身のプロとしての見解とか、いろんな方たちからもっと意見を募るとか……」
「大丈夫だ。そんな悲愴な顔で、責任重大に考えなくていい」
「でもっ」
なおも言い募ろうとする葵の必死な様子に、鳴海はまあまあとなだめた。