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この件をきっかけに、鳴海は女を店の売り子として雇うことになった。
妙な縁だったと、あらためて思う。だが、これもまた、見えないなにかに導かれた巡り合わせだったのかもしれない。
女の名を、吉野葵といった。年齢は23歳。ちょうど鳴海とは、ひとまわりの差があった。
店のまえでずぶ濡れになっていた葵を自宅に連れていったあの日、彼女は勤めていた会社を辞めてきたところだった。望んで職を辞したわけではない。そうせざるを得ない状況に追いこまれての、やむにやまれぬ理由あってのことだった。
都心にある大手不動産会社の総務部に席を置いていた彼女は、おなじフロアの営業部の先輩社員と恋仲にあった。社内恋愛ということもあって、しかるべき時期がくるまではと、ふたりの関係は周囲に秘していた。だがそれが、かえってよくない方向に作用した。
若手営業マンとして好成績をおさめていた男は、持ち前の明るさと人を惹きつける恵まれた容姿も相俟って、女性社員からの人気も高かった。葵ももちろんそのことは認識していた。それでもふたりの交際が順調であったことから、さして不安を抱くこともなかったという。
その関係に暗雲が兆しはじめたのは、今年のゴールデンウィークを過ぎたあたりからのこと。
ゴールデンウィーク中に予定していた旅行が、男の都合で急遽、直前に中止となった。長野に住む実家の父親が、体調を崩して入院したとの連絡が入ったという。突然こんなことになって申し訳ない。そう恐縮してすまながる男をなだめ、彼女は男を送り出した。いつでもできる旅行なんかより、お父さんのほうが大事だから、と。男の実家が長野ではなく、関東圏内にあることを知ったのは、秋ぐちになってからのことだった。
連休明けしばらくしてから、社内で流れたある噂。
それは、秘書課に勤める社長お気に入りの女性社員が、寿退社をすることになったというものだった。
同僚たちが口に上らせる話題に、なんとなしに耳を傾けていた彼女は次の瞬間、その耳を疑った。女性秘書の相手として名前が挙がったのが、ほかでもない自分の恋人だったからである。
まさかそんなはずはない。
激しい動揺をおぼえながらも、でまかせだろうと思う気持ちのほうが強かった。そんなことはあり得ないと思ったからだ。だがその内容は、デマでも偽りでもなく、事実であったことがほどなく判明する。噂を耳にしたその夜、恋人本人の口から直接、あっさり内容を認める答えが返ってきたからである。
かつて『帰郷』した長野は、男の実家ではなく、女性秘書の故郷だった。男の子供を身籠もった彼女が、煮えきらない男との将来に失望し、堕胎した末に身体と心の傷を癒すため実家に戻った。その事実を知った女性秘書の両親が、男の真意をたしかめ、責任を取らせるために呼びつけた。それが、ゴールデンウィーク中の出来事の真相だった。
妊娠や堕胎云々については事実かどうかわからない。それでも女性秘書が身籠もったという話を一蹴できない程度には、男にも身におぼえのあることだったのだ。
いったい、いつから……。
男にとって、どちらが本命でどちらが遊びだったのか、いまとなってはたしかめることさえ意味もない。事実が明るみに出た後、男は葵に向かって懸命に弁解を繰り返した。おまえとの将来を真剣に考えていた、魔が差しただけなのだと。その言葉を、葵はもはや、信じることはできなかった。
なぜ……。
幸せだと思っていた。すべてが順調だと思っていた。けれど、目の前に突きつけられた現実は、彼女を容赦なく絶望に突き落とし、打ちのめした。それどころか彼女にとっての真の苦しみは、まさにここからがはじまりとなったと言える。
ふたりの関係に気づいた女性秘書は、葵の存在を決して許そうとはしなかった。都内の有名私大を出て、大手企業の社長秘書となったプライドが、地方の短大出身者にすぎない、冴えない後輩と同列に扱われることを是としなかった。
欠員が出た総務に、たまたま運良く拾われただけのくせに。
女性秘書は、面と向かって蔑むように葵に言ったことがあったという。
華やかな秘書課のメンバーの中でも、とりわけ目立つ存在で、つねに集団の中心にいるタイプだった。そんな勝ち気な性格の女に、ひとりの男を奪い合うような事態は屈辱以外のなにものでもなかったに違いない。ましてや競う相手が、葵のような地味で目立たない人間ともなればなおのこと、プライドを傷つけられたのだろう。
葵に対する嫌がらせは、陰湿で執拗を極めた。
ロッカーにしまってあった制服が汚され、処理したデータの数値がこっそり書き換えられるなどの工作がたびたび為された。果ては、ありもしない出来事をでっち上げられ、誹謗中傷の対象にさえされた。
針の筵の中、勝手に横恋慕した葵が逆恨みをして、女性秘書に悪質な嫌がらせをしているかのような濡れ衣まで着せられた。
『おまえさ、いい加減にしろよ』
もとはと言えば、自分がそもそもの原因の種を蒔いた張本人だというのに、恋人だった男は葵に向かってうんざりしたように言い放ったという。そんな女だとは思わなかった、と。
葵が鳴海と出逢ったのは、極限の状態まで追いつめられた彼女が昏い怒りに身を焦がし、理性を手放そうとした日のことだった。会社に辞表を提出したのは、それからわずかひと月後のこと。葵がストーカー行為を働いている。匿名でそんな内容のビラが社内にバラ撒かれたことが決定打となった。
すべてを事細かに語って聞かせたわけではない。だが、語られる内容の断片を繋ぎ合わせて、鳴海はそれらの事情を葵の話の中から読み取った。
冷たい雨が降りしきる夜、亡き妻の服を身につけ、己に生きる価値すら見いだせず目の前で放心するひとりの女。そんな彼女に鳴海は言った。行く場所がないなら、うちに来ないか、と。
次の働き口が見つかるまでのあいだだけでもいい。その気があるなら、うちで雇おう。
鳴海の提案に、葵は一も二もなく飛びついた。縋れるものがあるなら、どんなものでもかまわない。そんな必死さが伝わってくる葵の危うさを、鳴海は放っておくことができなかった。