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ショコラ・ノワール  作者: ZAKI
第1章
6/35

 ふと気がつくと、路面や窓ガラスを叩く雨の音が強まっていた。キリのいいところで明日のぶんの仕込みを中断した鳴海は、これ以上雨脚が強くならないうちに切り上げることにした。

 時刻はまもなく21時になろうとしている。閉店後、一時間たらずといったところで、いつもよりだいぶ早めに作業を終えることとなった。それもたまにはいいだろう。

 手早く調理場を片付け、売上金を金庫に保管して身支度を調える。店を出て、裏口わきのロック・システムにカードキーを通し、傘を差そうとしたところで鳴海は愕然とした。店の片隅に、女が立っていた。


「君……っ」


 いったい、いつからいたのだろう。街灯が弱く周辺を照らす薄闇の中、女は傘も差さずにずぶ濡れで立ち尽くしていた。申し訳程度に出ている店先の庇など、雨除けにすらならなかった。


「こんなところでなにをしてる!」


 思わずといった具合に声を尖らせた鳴海に、女はビクリと身をふるわせた。


「す、すみませ……」


 呟いたきり、首を竦めて口唇を戦慄わななかせる。前髪や顎の先から、幾筋もの雫を滴らせていた。

 まもなく11月も半ばに差しかかろうという季節の冷たい雨は、確実に体温をも奪う。小刻みにふるえる肩を見やって、鳴海は小さく息をついた。


「家はこの近く?」


 トーンを落としての問いかけに、女は項垂うなだれたまま無言でかぶりを振った。鳴海は傘をひろげると、半ば強引にその腕をとって歩き出した。


「あ、あの……っ」

「このままじゃ風邪を引く。来なさい」


 出逢った最初の日同様、鳴海は女の手を引き、無言で歩く。女の歩幅に合わせ、けれども可能なかぎり急いで目的地に向かった。

 店から徒歩5分。駅とはさらに逆方向に進んだ先の住宅街の一角に、鳴海の住むマンションがあった。入口のパネルでオートロックを解除して建物に入り、エレベーターで12階に上がる。部屋の鍵を開けて女をしょうじ入れると、リビングに通してタオルを手渡した。


「すぐに風呂を沸かす。他意はないから、とにかくあったまっていきなさい」


 言い置いて、返事も待たずにきびすを返した。

 廊下をとって返してバスルームに行き、大急ぎで掃除を済ませて電源を入れる。洗面所の戸棚からバスタオルを出して用意し、その足で寝室に向かった。クローゼットの奥からスウェットの上下を取り出してリビングに戻ると、女は先程の場所から、一歩も動くことなく途方に暮れたように立ち尽くしていた。

 ふたたび息をついた鳴海は、手にしたスウェットをソファーの上に置く。女の手からタオルを取り上げると、正面に立って、なにも言わずに濡れた髪を拭った。


「すみま…せ……」


 女はまたしても、消え入りそうな声で囁いた。その口唇が、小刻みにふるえる。いいから、と応じた鳴海に、女は一瞬押し黙った。だが、すぐに意を決したように自分から口を開いた。


「止められそうに、なかったんです」


 寒さのせいばかりではないだろう。口唇だけでなく、全身をふるわせながら、女は搾り出すように言った。


「まっすぐ家に帰るつもりだったのに、気がついたらまた、この駅で降りてて。このままだとあたし、無理やりあの人の家に押しかけて取り返しのつかないことをしてしまう。ひとりじゃ止められない。自分で自分のことが抑えられない。どうしたらいいのか全然わからなくて、怖くて、苦しくて。そしたらあたし、いつのまにかあそこに……っ」

「いいよ、かまわない」


 髪を拭く手を止めて、鳴海はしずかに言った。


「俺がストッパーになれたならよかった。だけど、こんなふうに自分を粗末にするような真似をしたらいけない。必要なら、店を閉めたあとでも声をかけてくれてかまわないから」


 意識したにせよ無意識だったにせよ、鳴海の存在が彼女の激情を抑止する歯止めとなり得た。はじめて会ったときに、鳴海が彼女の凶行を止めた。そのことが、こうして彼女に救いを求める行動を取らせたのだろう。その事実に、鳴海は少なからず安堵した。

 女の目から涙が零れ落ちる。鳴海はそれを、手にしたタオルに吸いとらせた。

 ちょうど風呂が沸いたことを給湯器が告げる。鳴海はソファーに置いた着替えを取ると、女に手渡した。


「身体が冷えきってる。風邪を引かないよう、よくあたたまってくるといい」


 自分の手に渡された女物のスウェットを、女はしげしげと眺めた。その様子を見て、鳴海は苦笑を閃かせた。


「妻のものなんだ。これなら、サイズはそんなに問題ないかと思うんだが」

「……え?」


 いぶかしげな様子を見せた女は、次の瞬間、驚いたように後方を振り返って室内を見回した。鳴海はすぐさま、言葉を捕捉した。


「ああ、いや。この家に住んでるのは俺ひとりだ。彼女はもう――亡くなってるから」


 言った途端、鳴海を顧みた女は目を瞠った。それからあらためてもう一度、手もとの着替えに視線を落とした。


「死んだ人間のものなんて抵抗があるかもしれないが、濡れた服を乾かすまでのあいだだけでも、よかったら使ってほしい」

「いいんですか、ほんとに?」

「え?」

「大切な奥様のお洋服、わたしなんかがお借りしてしまって……」


 ひどく申し訳なさそうな口ぶりに、鳴海はいいんだ、と答えた。


「処分しきれなくて、手もとに残してあるだけだから。もうずっと、タンスの肥やしにしかなってない」


 自嘲めいた呟きを、女は神妙な面持ちで受け容れた。


「すみません。お借りします」


 女をうながして、鳴海はバスルームに案内した。

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