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どうしてこんなに靱くいられるのだろう。
鳴海は自分に向けられるまっすぐな心に圧倒された。
答えなら、もう出ている。ずっと蓋をして考えないようにしてきた結論は、たったいま自分で認めてしまった。手放せないと気づいた時点で、取消しが利かなくなっていた。
「俺は君より、ひとまわりも年上だ」
「ひとまわり違うと、あたしは子供にしか見えませんか?」
「そうじゃなく、君ならばもっとほかに、いくらでもいい男と出逢えるだろうにと」
「鳴海さんこそ、自分がどんなにお客様たちの目に魅力的に映ってるか、自覚がなさすぎです。鳴海さんを基準に『もっと』って言われても、ハードルが高すぎて、見つけるのが難しいです」
「そんなはずは……」
「鳴海さんは自分のことに無頓着すぎます。それとも遠回しに無理だって断られてるんですか? あたしが鈍くて気づけないだけ? 鳴海さんは優しいから、あたしのことを傷つけないように気遣ってくれてるんですか?」
「そんなつもりじゃない。無理だともダメだとも言ってない。ただ、俺は君より年上で、それなりの経験も積んできてる以上、簡単に感情に流されるわけにはいかない。君を傷つける可能性があるならなおのこと、余計にもっときちんと考えて――」
「考えて慎重になったら、最善の選択ができますか? そのときになってみないとわからない。そう言ったのは鳴海さんです。起こるかどうかもわからない将来を心配するより、タイミングを逃さないことだったり、自分の気持ちに素直になることのほうが大事な場合もあります。あたしは、鳴海さんとの未来を考えていきたい。鳴海さんが不安なら、あたしがその不安ごと全部背負う。そのぐらいの覚悟を決めたつもりです」
きっぱりと告げられて、今度こそ鳴海は絶句した。それから不意に、笑いがこみあげてきた。
いつまでも最初の一歩が踏み出せず、二の足を踏みつづける自分とは、なんという違いだろう。これではどちらが年上で、どちらがリードすべき立場なのかわからない。
「……鳴海さん?」
自分を見上げるふたつの瞳が、その反応を見て不安げに揺れた。
男前すぎる腹の括りかたをしていながら、それでもやはり、葵の心は鳴海から言い渡されるかもしれない最悪の答えに怯えていた。
「あ、あのっ、あのあたし、もしかしてものすごい勘違い、しちゃってまし、たか?」
「勘違いって?」
笑いを含んだまま尋ねた途端に、葵の顔が一瞬蒼褪ざめた。それから直後に、真っ赤になって狼狽えはじめた。
「あ、どうしよう。あたしやっぱり、なんか勝手に早とちりして先走っちゃってたんですね!?」
「え?」
「どうしようっ。『手放せない』とか言って鳴海さんが抱きしめてくれたりしたから、舞い上がっちゃったかもっ。あ、でも、だからってべつに、鳴海さんが悪いっていうわけじゃないですけどっ。なんていうかその、鳴海さんから見たらあたしはやっぱりただの、うんと年下の子供で、その子供が泣いてるから慰めてくれただけっていうか、たんにあやしただけだったっていうか……。とにかくそういうことですよね?」
「いや、そんなことは――」
「っていうか、よくよく考えたら鳴海さんみたいなきちんとした人が、従業員相手にそんな邪な気持ち、抱くはずもないわけでっ」
誤解を解こうとしたが、葵はもはや聞いていない。
「そ、そもそもあたしが勝手に大人の鳴海さんに憧れたところからはじまった恋愛感情なわけですしっ。鳴海さんにしてみれば、こんな色気もなにもない相手に魅力なんか感じるわけもなかったのに、自分が好きっていう理由だけで勝手に鳴海さんも、とか、ずっ、ずうずうしすぎましたね。すみませんっ。いまのはなかったことにしてください! あたしやっぱり、自分の気持ちばっかりで全然ほかのことはなんにも見えてなくてっ。ほんと恥ずかしいです。なんでいっつもこうなんだろう。たったいま反省したばっかりだったのにっ。こういうところが未熟っていうか子供っていうか、思慮深さがたりな――」
内心の動揺を押し隠すために矢継ぎ早に繰り出される言葉は、とどまることを知らぬばかりかどんどんスピードを増していき、これ以上ないほど早まったところで唐突に途切れた。
厨房内を、不自然な静寂が満たす。
シンと静まりかえった空気が、肌に刺さるほどの刺激となって時間の流れを凍結させた。
長い長い静寂――
やがて、止まった時間がふたたび動き出したとき、茫然としていた葵の口からふるえる吐息が小さく漏れ出た。
「――な、るみ、さ……?」
「何度も言うようだが、君は俺を買いかぶりすぎてる」
いまだ目を見開いて自失したままの葵を真上から見下ろしながら、鳴海は言った。
「俺は君が評価してくれるほど立派な人間じゃないし、理性的な人間でもない。自分でも情けなくなるほど臆病で身勝手な人間だ。俺の君に対する気持ちは君の勘違いなんかじゃないし、それでも踏ん切りがつかずに躊躇ってたのは、君の気持ちを思いやってとか、俺が大人で思慮深いからだとか、そんな上等な理由なんかじゃない。俺は自分の身勝手さのせいで、だれかの人生を踏みにじったり傷つけてしまうことが怖い。そしてそれ以上に、自分の懐にだれかを入れてしまうことが怖い」
鳴海の腕の中で、発せられた最後の言葉に葵がピクリと反応した。その瞳を、鳴海はまっすぐに覗きこんだ。
「大切な存在がある日突然消えてなくなる痛みと恐怖を嫌というほど知ってる。だからもう二度とあんなふうに、この手の中にあるだれかを喪いたくはない。……それが怖くて、一歩を踏み出せなかった」
鳴海を見上げていた葵の瞳に、徐々に理性が戻ってくる。それはやがて、やわらかな笑みに取って代わった。
「大丈夫。あたしは鳴海さんのまえから、消えてなくなりません。傍にいます。ずっと……」
自分の頬に向かって伸びてきた手を捕らえ、鳴海は堪らず、その掌に口づける。それからふたたび屈みこむと、笑みを湛える葵の口唇に、己のそれを重ね合わせた。
葵の裡にある羞恥と緊張が、かすかなふるえとなって口唇越しに伝わってくる。鳴海はその緊張を解きほぐすように髪を撫で、幾度となく角度を変えながら、わずかに漏れる甘い吐息の隙間を縫って舌を差し入れ、絡ませた。一度目のときには、ただ茫然と、人形のようにされるままになっていた葵が、次第に硬張りを解いて鳴海に身を委ねていく。そして、求めに応じるように、ゆっくりと応えていった。
やがて口唇を離した鳴海は、あらためて葵の躰を抱きしめると、己の肩口に顔を埋めるその耳もとに口を寄せ、低く囁いた。
「うちに、来るか?」
縋るように鳴海の服を握りしめていた両手に力が籠もる。葵は顔を伏せたまま、それでもはっきりと頷いた。