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正面のガラスのドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
顔を上げた鳴海は、来店した客に声をかけた。若い女性のふたり連れ。仕事帰りのOLだろう。
駅から徒歩7分。鳴海がチョコレート専門店『ル・シエル・エトワール』をオープンして、まもなく半年になろうとしていた。
開店時、あまり大々的な宣伝は行わなかったため、口コミで少しずつ固定客がついてきたところだった。たったいま来店したふたりも、顔馴染みになりつつある客のひと組だった。2、3週間に一度のペースで顔を見せるようになってすでに四度目か五度目。そろそろ、常連と言ってもいいリピーターかもしれない。
「いい匂~い」
「ホント、いつ来ても癒されるよねぇ」
賑やかに言いながら、勝手知ったる様子で奥のカフェスペースに移動していく。鳴海もまた、ウォーターサーバーの冷えた水をグラスに注いでテーブル席に足を運んだ。
「今日はなんにしようかなあ。タルト・ショコラにエクレア、チョコレート・モンブラン。パフェも捨てがたいし……」
「こないだ食べたピスタチオのやつも美味しかったよ? あと、ガトーショコラとかも」
「やめて、言わないでっ! 余計迷っちゃう!」
楽しげなやりとりに、鳴海は目もとをなごませた。
「いつもありがとうございます」
穏やかに声をかけると、ふたりは気恥ずかしげな様子を見せつつ、親しみの籠もった笑顔を鳴海に向けた。
「あたしたちこそ店長さんには感謝してるんですよ? 職場の近くにこんな素敵なお店ができるんだもん。おかげで仕事帰りの楽しみが増えちゃった」
「お財布事情とカロリーのことさえ気にしなくていいなら、毎日でも通いたいぐらい。メニューもオープン当初に比べてだいぶ増えたし、ますます通い詰めたくなっちゃうよね」
「まだまだ試行錯誤の連続ですけどね。マンネリになって皆さんに飽きられないよう、精進します」
鳴海の言葉に、女性客ふたりは華やかな笑い声をあげた。
注文を聞いた鳴海は、グラスを乗せていた銀のトレイを小脇に抱え、奥に引っこむ。エクレアとタルト、アイスショコラテ、ホットチョコレートの準備に入った。
店内に設けたテーブル席はふた席。商品のテイクアウトを中心としているため、これまでさほど単独で切り盛りすることに不都合を感じることはなかった。だがここ最近、順調に客足も伸びてきている。テーブル席が埋まっているのをガラス越しに見て、残念そうに引き返す人影を目にする回数も増えてきた。そろそろ自分が厨房スペースに引っこんでいるあいだの応対要因として、店頭に立つ人間を入れることも検討したほうがいいのかもしれない。そんなことを思いはじめたところだった。
「でさぁ、外回りから返ってきた清水さんに部長が――」
賑やかなわけではないものの、女性特有の高い声が静かな店内に響く。聞くとはなしにその声に耳を傾けながら、ちょうどおなじぐらいの年代だったろうか、と鳴海は考えた。
1週間前の夜、帰り際に立ち寄った近くのコンビニで見かけたひとりの女性。
物陰にじっと佇む様子を不審に思って目に留めた途端、すぐにそれとわかった。
思いつめた表情。血の気をなくして白くなった顔。バッグの陰で、ギュッとなにかを握りしめている手もとを見て、彼女がなにをしようとしているのか容易に推測はついた。
余計なお世話だったかもしれない。だが、介入せずにはいられなかった。
突然割りこんだ自分に彼女はひどく狼狽し、怯えた顔を見せた。
抵抗する気力すらなくして立ち尽くす彼女の手を引き、無理やりこの店に連れてきたのは果たして正しいことだったのか。鳴海にはいまだ、判断がつかなかった。
ホットチョコレートを勧めた後、店の片隅でひそやかな嗚咽が漏れていた。
気づきはしたが、鳴海は厨房の奥に引っこんで作業の手を止めることはなかった。
やがて、どれだけの時間が流れただろう。時計の針はすでに零時をまわり、静かな空間には、さらに深閑とした気配が漂っていた。
途中一度だけ、店舗わきの通用口が開け閉てされたことには気づいていた。それと知りながら、鳴海は気づかぬふりをつづけた。相手もまた、暗黙の裡にその意図を察したのだろう。
無人となった店内のテーブルに残されたのは、空になったカップ。そのカップの下に、1万円の新札が挟みこむように置かれていた。