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「――は?」
「関係があろうがなかろうが、そんなのどうだっていいっ! あたしは鳴海さんが好きなのっ! だから手を出さないでっ。乱暴なんかしたら絶対赦さないっ!!」
悲鳴に近い絶叫。男は愕然とした顔で葵を振り返った。
「おま、なに言って……。――冗談だろ?」
「冗談じゃない! ふざけてこんなこと言うわけないっ。本気に決まってるでしょっ!」
「……バカ言うなよ。いくつ離れてると思ってんだよ」
「鳴海さんから見たら、あたしなんか子供だってことぐらいわかってる。だけど自分の気持ちに嘘はつけない」
「そうじゃない! こんな、30もとっくに超えてるようなおっさん相手に本気になるわけねえだろっつってんだよ!」
「あんたにそんなこと言う資格ない!」
葵は頬を紅潮させて怒鳴った。
「なにも知らないくせにっ。鳴海さんがいなかったら、あんたもあたしも、いまここにいなかった!」
「なに?」
胡乱げな表情を浮かべる男とは対照的に、鳴海はハッとして葵を見やった。
「やめろ、言わなくていい!」
制止したが、葵は引かなかった。
「気がすむまで謝るからやりなおそうですって? やりなおせるわけないじゃないっ。どれだけ謝られたって気なんかすむわけないっ。あたしがどれだけ傷ついて苦しんだと思うのっ!? あんたに裏切られて、川島さんにまで目の敵にされた挙げ句、職まで失ってっ。あのときのあたしは、もう二度と立ちなおれないんじゃないかって思うくらい身も心もボロボロだった。当然でしょう? 落ちるとこまで落ちた状態で放り出されたんだから! 正気なんかとっくの昔に手放してた。あたしがあの状態のままだったら、あんたはいまここでこうして、あたしを追いかけまわすことなんてできなかったっ」
「おい、なに言ってんだよ。さっきから全然、意味わかんね――」
「あたしはあんたを殺してやるつもりだったって言ってんのっ!」
葵の放ったひと言は、爆弾のような威力を発揮した。男の顔が瞬時に凍りつく。
「比喩なんかじゃない。あたし、あんたを殺すつもりで去年の秋、駅前のデパートで果物ナイフ買ったの。本気だった。本気であんたを刺して、それから川島さんのこともメチャクチャにして、自分の人生も終わらせるつもりだった。そのぐらい、追いつめられてたの」
「葵……葵、おま、なに言って――」
「そこの大通りの反対側にある深夜のコンビニ」
動揺する男を後目に、葵はトーンを下げた低い声でまくし立てた。
「去年の10月の半ばに、川島さんとアイス買おうとしてた。お惣菜買って、お弁当買って、こんな時間に甘い物食べたら太るとか太らないとか、ふたりでアイスケースのまえで、ひたすら楽しそうにバカみたいなやりとりしてた」
「なんでそれ……」
「決まってる。あんたたちを襲うタイミングを見計らってたから。おなじ店内で。すぐ近くで。あたしがそんなすぐ近くにいたの、翔馬、知らなかったでしょ。ある意味、川島さんが流した、あたしがストーカーだって噂、ホントだったかも」
葵はそこで、クスリと笑った。鳴海の手の中で、掴んでいる男の腕がピクリと反応した。
「あんたたちが今日までなにも知らずにいられたのは、全部鳴海さんのおかげ。鳴海さんが偶然その場に居合わせて、あたしを止めてくれたから。鳴海さんがあたしの持ってたナイフ取り上げて、預かってくれたから。鳴海さんがあたしをこのお店に連れてきて、理由もなにも聞かず、ただ気持ちが落ち着くようにってホットチョコレートをご馳走してくれたから。それから鳴海さんが、行き場をなくしたあたしを拾って、従業員としての居場所を与えてくれたから。だからあたしもあんたも川島さんも、救われたのっ」
言い募るほどに、男の顔色は白くなっていく。
「あたしにとっての生きるよすがを鳴海さんが与えてくれた。鳴海さんに支えてもらってあたしは救われた。悲観しきったどん底の絶望から這い上がれた。あんたなんかに、鳴海さんをどうこう言う資格なんかないっ。あんたの口で鳴海さんを貶めないで!」
鳴海の拘束を受けていた腕から、一気に力が抜けた。
「葵……」
「翔馬、ほんとにもう帰って。翔馬が川島さんと別れたとしても、心から悪かったって言って頭を下げて、あたしのとこに戻ってきてくれたとしても、だからもうダメなの。あたしは鳴海さんしか好きじゃない。ほかの人じゃイヤ。鳴海さんじゃなきゃダメ。翔馬でも無理」
葵は悲痛な顔で告げた。
「お店にいっぱい迷惑かけちゃって、鳴海さんにはたくさん嫌な思いをさせちゃった。あたしじゃ全然釣り合わないってこともわかってる。鳴海さんの心には、いまでも亡くなった奥様がいて、ほかのだれも入りこむ余地なんてないことも知ってる。そんなの充分わかってる。あたしの一方的な片想いでさえ迷惑だってこともちゃんとわかってる。だから、この気持ちを伝えるつもりなんて全然なかった。ただ、想ってるだけでよかった。それで充分だった。あたしがいちばんつらかったときに手を差し伸べてくれて、大人で優しくて、いっぱいいっぱい支えてもらった。救ってもらった。すごく感謝してる。それなのに、その恩を仇で返すようなことになっちゃって申し訳なくて、合わせる顔もなくて。だけどやっぱり、そのあともずっと、お店のことが気になってしかたなくて。鳴海さんのことも、遠くからでいいから、ほんのちょっとだけでいいから様子が知りたくて……迷惑なのに。傍にいちゃいけないのに。それでもやっぱり会いたくて……。
――ひどいよ、翔馬。なんでこんなこと言わせるの? あたし、言いたくなかった。鳴海さんにこれ以上迷惑かけたくなかった。負担にもなりたくなかった。だからずっとずっと黙ってたかったのに……言いたくなかったのに……っ」
言葉を詰まらせた葵は、そのまま蹲って自分の腕の中に顔を埋めた。
鳴海が手を放すと、脱力した男の腕がダラリと重たげに落ちる。その肩が、大きく下がった。
打って変わって訪れた静寂。
薄闇の中、葵の押し殺した嗚咽だけが路地裏にひっそりと響いた。不意にあらぬ方を見やった男は、深く、大きく息をつく。それっきり、ひと言も発することなくその場から立ち去っていった。
眼前にしゃがみこむ葵を、鳴海はしばし見下ろす。それからゆっくりと近づいて、その腕をとった。
「怪我は、ないか?」
引っ張り上げるようにして立たせながら尋ねると、おとなしくそれにしたがいながら葵は頷いた。泣き濡れた眼差しが、縋るように鳴海に向けられる。
「ごめ、なさ……、あたし、またこんな……。こんなつもりじゃなかっ……」
「いいから来なさい」
静かに言って、鳴海は葵の腕をとったまま店に誘った。