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「なっ!?」
驚愕に目を見開いた男が振り返る。その左頬に、できたばかりの大きなミミズ腫れの痕が、くっきりと浮かび上がっていた。異変に気づいた葵もまた、腕の隙間からこちらを窺い見る。
「鳴海さんっ!?」
葵の声にも驚きが滲み、その一声でおそらくは鳴海の正体に気づいたのだろう。驚愕を浮かべた男の表情に、一転、険しさが浮かんだ。
「なんだよ、引っこんでろよ。あんた関係ねえだろ。ちょっとした痴話ゲンカに部外者が余計な口出しすんなよ!」
「翔馬!」
乱暴に振り解こうとする男の手首を、鳴海はなおも強く掴み上げた。ちょっとした痴話ゲンカが聞いて呆れる。冷ややかに相手を見据え、込めた力をさらに強くした。
「部外者じゃない。彼女はうちの従業員だ。危害を加えるようなら、このまま警察に突き出す」
「っざけんなっ! 痴話ゲンカだっつってんだろ! 男と女のことに、出歯亀ヨロシク無関係な奴が嘴突っこんでくんなよ!」
掴まれた手首の痛みに顔を蹙めつつ、男は鳴海に噛みついた。その後方から、葵が声を張り上げた。
「痴話ゲンカじゃないっ! あたしはあんたとなんか付き合ってない!!」
「葵っ」
「あたしはもう、あんたなんか好きじゃない! これ以上あたしにつきまとわないでっ。本気でイヤなの。心の底から迷惑なのっ。あんたとはもうとっくに終わってる。それにあたし、ほかに好きな人がいるの。あんたとのことは過去でしかないっ。だからもう、あたしにかまわないで! 川島さんのとこに帰ってっ。もう二度とやりなおそうなんて言わないで!」
「嘘つくなよっ! おまえ、そんな切り替え早くねえだろ! なに適当なこと言ってんだよ。追い払おうって魂胆見え見えなんだよ。見え透いてるにもほどがあんだろっ」
「嘘じゃないっ。デタラメでもない! ほんとにいるの。最初は自分でも信じられなかった。だけどどうしても気持ちは誤魔化せなかった!」
「じゃ、言ってみろよっ。どこのどいつなんだよ、それ」
問いつめられて、葵は途端に表情を硬張らせた。
「なんだよ、言えないのかよ?」
「……言いたくない。っていうか、言う必要ないでしょ? 翔馬にいちいち報告しなきゃならない義理もないし」
視線を泳がせ、急に歯切れが悪くなる。そんな葵を見て、男は意地悪く口許を歪めた。
「なんだよ、やっぱ吹いてるだけかよ。そうだよな。おまえ、そんな器用な性格じゃねえもんな。ほんとはいまでも俺に未練たらたらなんだろ。ちょっと拗ねてるだけだよな? それともアレか? 少しでも多く俺の気惹きたくて、わざと煽ってんだろ」
「そんなんじゃない!」
「いいって、わかってるよ。麻里とのこと、根に持ってんだろ。いっぱい傷つけて、おまえにもさんざんつらい思いさせちゃったもんな。許してくれなくても、何度でも謝るよ。土下座でもなんでもする。罪滅ぼししろって言うなら、おまえの気がすむまでどれだけでも、どんなことでもするからさ。俺、そのぐらいの心づもりはあるんだって」
言いながら葵に近づこうとした男は、そこでなおも腕を掴まれ、動きを封じられていることに気づいて鳴海を顧みた。
「おい、いつまで掴んでんだよ! これでわかっただろ、邪魔してんのはそっちなんだって。いい加減どっか行けよ、おっさん。じゃないと、こっちこそ警察呼ぶぞっ」
成績のいい営業マンであるはずの男は、社会人としてのマナーをかなぐり捨てて鳴海を威嚇した。
「やめてってば!」
葵の悲鳴が重なった。
「なんだよ、庇うことねえだろ。葵、おまえ、こいつにセクハラでもされてたんじゃねえの? 売り子やってるとか言いながら、ここしばらく店にいなかったもんな。もういいから辞めちまえよ、そんな店。どうせ俺のこと引きずってたせいで、諦めきれなくて通ってただけなんだろ? もともと俺が住んでたとこだもんな?」
「そんなんじゃないってばっ」
どれほど必死で否定しようと男は取り合わない。
「はいはい、わかりました。ちゃんと話聞くから場所移動しようぜ? こんな部外者がいたんじゃ、まともな話もできやしねえ」
言った直後に男は表情を豹変させた。身を捻ると同時に、拘束されていない左手で鳴海の胸倉を掴み上げ、乱暴に引き寄せる。
「いい加減にしろっつってんだよっ! 女のまえだからってカッコつけてるつもりかしんないけどな、おまえの出る幕じゃねえんだよ!」
くいしばった歯の隙間から、押し殺した声を発して凄味を利かせた。
「利き手封じた程度でどうこうできるとか思ってんじゃねえだろな? 本気で反撃するまえに、とっとと手ェ放せ。でなきゃ、穏便におさまるもんもおさまらなくなるぞ?」
息が吹きかかる位置で鳴海を恫喝すると、その瞳に剣呑な光を宿らせた。
胸倉を掴まれた状態で頭突きでもくらわされてはひとたまりもない。
鳴海がわずかに身構えたその瞬間、同様に殺気立った男の気配に取り乱した葵が金切り声を発した。
「やめてってば、翔馬っ! 鳴海さんになにかしたら、あたし、あんたのこと一生許さないからっ!」
「いいから、おまえは下がってろよ。これは男同士の面子の問題なんだよ。雇い主だかなんだか知らねえけど、変に義理立てする必要なんかねえだろ。おまえとはもう、なんの関係もなくなるんだから」
「そういう問題じゃない! あたしの好きな人に手を出さないでって言ってんの!」