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ショコラ・ノワール  作者: ZAKI
プロローグ
2/35

 繁華街のはずれに近い駅前通り。

 見知らぬ男に手を引かれ、行き先もわからぬまま彼女は足を動かしつづける。店を出てすぐの交差点を渡り、道路の反対側に移動して駅とは逆の方向に進む。そこからひとつ目の角を曲がり、細い路地に入って少し行ったところで男は足を止めた。

 人気のない、薄暗い路地裏。だがすぐそこに、大通りは見えていた。


 自分の身に、いったいなにが起ころうとしているのか。


 彼女は急に、自分の置かれている状況が怖くなってわずかに後退った。その気配を察したのだろう。男は彼女を顧みると、穏やかに言った。


「大丈夫、俺の店だから」

「……店?」


 囁くような問いかけには答えず、男はズボンの尻ポケットを探ると長財布の中からカードキーを取り出した。それを、シャッターわきのボックスに差しこむ。そして、蓋を開けて暗証番号を入力した。電子音が響くと同時に、カチリというロック解除の音が響く。男はドアノブに手をかけて通用口を開けると、建物の内側に身を乗り入れ、すぐわきの壁のあたりを探るような仕種をした。ほどなくその動きが止まり、室内に灯りがともる。振り返った男は、「入りなさい」と彼女を招き入れるように、開いていた通用口のドアをさらに大きく押し開いた。


 戸口に佇んでいた彼女は、一瞬躊躇する。だが、ドアを開けたままじっと待つ男の様子を見て、おずおずと建物の中に足を踏み入れた。


 薄暗い路地から一歩進んだ途端に明るい光に包まれる。しかし、それ以上に甘い香りが鼻腔を刺激して、彼女は驚きのあまりその場に立ち竦んだ。

 白い壁とダークブラウンで統一されたモダンなインテリア。ガラスのショウケースが横長に伸び、その奥にいくつかの椅子とテーブルが見える。


「奥へどうぞ」


 さらにうながされて、彼女はゆっくりと、もう一歩まえへ進んだ。その肩に軽く手を添え、奥のテーブルへ導くと、男は手前の椅子を引いて、そこに彼女を座らせた。


「ここで待ってて。すぐに戻る」


 おとなしく席に着いた彼女にそう言い置くと、男はショウケースわきの腰高の木の扉を押し開いて、店の奥へと姿を消した。

 シンと静まりかえった店の奥から、食器の触れ合う澄んだ音色と、人の動く気配や物音がする。彼女はなおも茫然としたまま、じっとその場に座りこんでいた。

 なかに入った瞬間から、全身を包むように充満していたチョコレートの甘い香り。その強烈な独特の香りに、昂ぶっていた神経が次第に落ち着きを取り戻していくのがわかった。


 自分はなぜ、こんなところにいるのだろう。


 冷静さを取り戻すにしたがい、今度は別の混乱が彼女の心を満たしていく。同時に襲いくるのは、激しい後悔。


 バカな真似をした。失敗に終わってよかった。だけど、取り返しのつかないことをしでかしてしまった事実が消えることはない。自分はこれから、どうすればいいのだろう……。


 思いに沈む彼女の目の前に、不意にカップが置かれた。驚いて顔を上げると、傍らに立つ男と目が合った。


「ホットチョコレート。確認が前後してしまったけれど、カカオのアレルギーは?」


 訊かれて、彼女は無言でかぶりを振った。


「ならよかった。嫌いじゃなければ、どうぞ。気持ちも落ち着く」


 静かに勧められて、彼女は全身を硬くした。

 男の行動の意味がわからなかった。自分がおなじ立場だったら、とてもこんなふうに悠長にもてなすことなどできはしない。目の前にいるのは、深夜のコンビニで刃傷沙汰を起こそうとした人間なのだ。


「……ですか?」


 搾り出した声はあまりに小さく、自分の耳ですら聞き取ることができなかった。


「え?」


 訊き返されて、彼女は両手を握りしめる。それからもう一度、意を決して口を開いた。


「警察に、突き出さないんですか?」


 緊張と不安から、どこか挑むような口調になっていた。けれども男は、落ち着き払った態度で彼女を見下ろした。それどころか、わずかに黙りこんだ後に、逆に「なぜ?」と問い返してきた。


「君はなにも、しなかっただろう?」

「でもっ――だって、それは……っ」

「いまからもう一度引き返して、彼らを追いかけておなじことをするか?」


 重ねて訊かれ、言い返そうとした彼女は結局、開きかけた口を噤んだ。


「なにも起こらなかったし、これから先も、もうなにも起こらない。君が警察に行く理由は、だからどこにもない」


 穏やかに言い含められて、彼女は口唇くちびるを噛みしめ、じっと俯いた。


「冷めないうちに、飲みなさい。気がすむまで、好きなだけいていいから。俺は奥で、明日の仕込みをしてる」


 そう言い置いて、男は彼女から離れていった。

 ふたたび取り残されたそこで、彼女はその背中を心細げに見送る。それからやがて、目の前に置かれたカップに視線を戻した。

 あたたかな湯気を立てる、甘い香りの飲み物。

 ふるえる指先を伸ばしてカップを包みこみ、躊躇ためらいがちにゆっくりと引き寄せたそれを、彼女はそっと口に含んだ。


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