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陶器の砕ける、派手な音が響きわたった。
「ちょっと! どうしてくれんのよっ!!」
直後に、ヒステリックな女の声が喚き立てた。咄嗟に顔を上げた鳴海は、店のほうを顧みる。おなじく作業の手を止めた加奈子が振り返った。
「オーナー……」
確認するように鳴海を見やって、様子を見に行きかけた加奈子を鳴海は止めた。
「いい、俺が行く」
言うなり、鳴海は厨房をあとにした。
「あんた、あたしに喧嘩売ってるわけ!? 服もバッグもだいなしじゃないっ! 靴にまで撥ねてる! いったいいくらしたと思ってんのよっ!!」
「すっ、すみませ……」
「気持ち悪いっ。会社からようやくいなくなって清々したと思ったら、まさかこんなとこで売り子やってるなんてね。ここ、翔馬さんのマンションの近くじゃない。未練たらたらでみっともないったら。あんた、まだ諦めきれてないわけ? このストーカー!」
「ちっ、ちが……っ」
「おあいにくだけど、彼ならもう、この街にいないわよ。とっくの昔に引っ越して、いまはあたしと一緒に住んでるんだから。いつまでもこんな惨めったらしいことつづけるつもりなら、このまま警察駆けこんで、婚約者に一方的に想いを寄せてるストーカー女に襲われたって訴えてやる!」
口早にまくし立てる高飛車でヒステリックな声。それは、かつての深夜のコンビニで、連れの男とアイスを買うか否かで楽しげに言い合いをしていた女のものだった。
ショウケースわきの木戸を抜けた鳴海は、店舗奥のカフェスペースに足を運んだ。
「申し訳ございません、お客様。オーナーの鳴海と申します。うちの従業員がご迷惑をおかけいたしましたようで」
そう言って深々と頭を下げる鳴海に、ビクッと身を竦ませた葵が蒼い顔で振り返った。
「なっ、鳴海さん、違うんですっ。あの、あたし……」
いまにも泣き出しそうな顔で葵は懸命に弁解しようとする。その葵にきつい眼差しを向けた鳴海は、腕を取って自分の横に並ばせると、後頭部を押さえこむようにして女に深く頭を下げさせた。
「教育が行き届かず、大変失礼をいたしました。深くお詫び申し上げます。お汚ししてしまったお召し物などはすべて、こちらで弁償させていただきますので」
「鳴海さんっ、でも……っ」
「いいから謝りなさい!」
これまでにない厳しい口調で叱責され、葵は見る間に顔色を失い、口唇を戦慄かせた。訴えるように鳴海を見上げる目に、みるみる涙が盛り上がる。だが葵は、すぐにその目を伏せると女に向きなおり、もう一度、今度は自分から頭を下げて謝罪の言葉を口にした。
「……申し訳、ございませんでした」
椅子に座ったまま意地の悪い目つきでそのさまを眺めていた女が、不快げに鼻を鳴らす。その目が、隣の鳴海に向けられた。
「この店のオーナーさんってことでしたけど、こんなコ、雇ったままでいいんですか?」
「――どういうことでしょう?」
「この人、まえの職場でなにしたか知ってます? あたしの婚約者に勝手に横恋慕した挙げ句、相手にされないってわかるや逆恨みして、ストーカーまがいのつきまとい行為繰り返してたんですよ? そのうえ、あたしまで目の敵にされちゃって。そりゃもう、さんざんな目に遭って大変だったんだから」
上体を起こした葵は、血の気の失せた顔でギュッと口唇を噛みしめた。両手を握りしめ、じっと俯いている。先程の鳴海の言葉で、この場はどうあっても反論してはならないことを察し、己に言い聞かせているようだった。
「被害に遭うまえに、店長さんもとっととこんな人、追い出したほうがいいんじゃないですか? おとなしそうな顔して、じつはとんでもない性格の女なんだから。いま叱られたことだって逆恨みしかねないし、あるいは店長さんみたいなイケメンなら、一方的に想いを募らせて、つきまといのターゲットにされちゃうかも」
目つき同様、意地悪い口調で言って女はせせら笑う。鳴海はそんな女を、表情を変えることなく淡然と見下ろした。
「従業員の不始末に関しましては、責任者である私から深くお詫び申し上げます。どうかこの辺で、鉾をおさめていただくことはできないでしょうか?」
どこまでも従容とした態度を崩さない鳴海に、女はいまいましげな様子を見せた。自分の言葉をまるで取り合おうとしないことに、あからさまな不快の色を滲ませていた。
「謝って済む問題? 弁償って簡単に言うけど、まさかクリーニング代程度で済ませる気じゃないでしょうね? 服もバッグも、彼からの大切なプレゼントだったのよ? それに、あんまり騒ぎ立てるのもどうかと思ったから黙ってたけど、ホットチョコレートがかかった部分、さっきからヒリヒリして、ずっと痛くてたまらないんだけど。第一こんなみっともない恰好じゃ、とても人前になんて出られないわ。どうやって帰れって言うのよ!」
女の主張は、まるっきり言いがかりである。チョコレートがかかったと言っても、床に落ちたカップから、スカートの裾やストッキング、ハイヒール、すぐわきの椅子に置いてあったバッグに、ほんの少し飛沫が飛び散った程度にすぎなかった。クリーニングで落とせない汚れでは決してなく、医者にかかるほど大変な火傷を負ったわけでもない。ましてや人目に曝せないほどチョコレートまみれになっているわけでもなかった。
「むろん、ご不快な思いをさせてしまったお詫びも含め、お怪我をさせてしまった治療費と、ご自宅までのお車代もすべて当方で負担させていただきます」
承知していながら、相手の言い分をまるごと呑もうとする鳴海に、葵は顔色をなくして愕然と振り返った。だが、気配を察した鳴海は無言で目配せをする。そのまま、目顔で葵を制した。
「服もバッグも、5万、10万じゃ済まないってことぐらい、わかってるわよね? どっちもブランド物なんだから」
「承知しております」
「鳴海さん!」
「ここはもういいから、床を片付ける用意をしてきなさい」
低い声で鳴海は葵に命じる。掃除道具を取りに行かせているあいだに、話をまとめようとしていることはあきらかだった。
「でも、鳴海さん……」
泣きそうな顔で必死にかぶりを振る葵を、鳴海は強引に押しやった。
どうして……。
葵の顔が悲痛に歪む。気にすることはないのだと言ってやりたかったが、鳴海はひとまず、目の前の女と向き合った。