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「オーナー、どうかされました?」
気遣うように問われ、鳴海はハッと我に返った。
見ると、口調同様、気遣わしげな眼差しで加奈子がこちらを見ていた。
手もとが疎かだったのか、それとも、なにか話しかけられたことに反応が返せなかったのか。いずれにせよ、鳴海がぼんやりしていたことは間違いなかった。
「ああ、申し訳ない。なんでもないよ」
すぐさま表情を取り繕って応じたものの、加奈子がその言葉を額面どおりに受け止める様子はなかった。言葉が、態度に伴っていないせいだろう。
「なにか問題でも?」
尋ねたあとで、加奈子はしばし躊躇いを見せ、それから遠慮がちに懸念を口にした。
「――葵ちゃんと、なにかありました?」
鳴海の顔は、自然、その言葉に硬張りを強くしていった。
なにがあったというわけでは、もちろんない。だが先程、厨房の出入口ですれ違った葵に対し、鳴海は自分でも思いがけないほど過剰な反応を示していた。
行き過ぎる際に何気なく交わった視線。葵はごく普通に目礼し、そのまま通りすがろうとした。だが――
葵の眼差しが己をとらえた瞬間、鳴海は反射的にビクッと全身をふるわせていた。それは、傍目にもそれとわかるほどの顕著な反応だった。
『……え?』
一瞬驚いたように葵がこちらを仰ぎ見る。その顔が、別の人間のそれと重なった。思ったときには、鳴海は葵から顔を背けていた。
あからさまな拒絶が滲む態度。葵が悪いわけではない。目の錯覚だと己に言い聞かせようとした。けれど、すでに遅かった。瞬間的にこみあげた嫌悪は、どうしても呑みこむことができなかった。
背後で葵が息を呑む気配がする。そして、
『すみません……』
消え入るような声で呟いた後、その姿は厨房から消えた。
なにに対して謝罪をしなければならなかったのか、葵にもわからなかっただろう。
葵はなにも悪くない。非は、全面的に自分のほうにこそある。わかっていながら、鳴海はその場を動くことができなかった。取り繕うことさえも――
一部始終を見ていた加奈子の目に、それはいったい、どう映ったのか。
――なにをやっているんだ、俺は。
内心で毒づいた胸の裡に、苦いものがこみあげる。みずから目を背けて視界の外へ追いやったはずの葵が、ひどく傷ついた表情を浮かべるのを目の当たりにした気がした。
感情が、制御できない。
自分の心を量りかねて、鳴海は強い苛立ちをおぼえる。否、そうではない。自分はあの瞬間に、たしかに葵の中に別の人間を見ていた。わかっていながら、それを認めることができない。ただそれだけのことだった。
旭を通じて、加奈子と葵のあいだに微妙な隔たりがあることを知った。それが自分に起因していると気づいたことで、鳴海は葵が自分に向けている眼差しを意識せざるを得なくなった。それが余計、裏目に出た。
最初から納得ずくで葵を雇ったはずだった。それなのにいまさら、こんなことになろうとは。
葵を己の感情に巻きこみ、わけのわからない状況に追いやっておきながら、その後もフォローを入れることさえできずに放置している。そんな自分に、心底嫌気が差した。
「ほんとに申し訳ない。ちょっと考えごとをしてただけなんだ。仕事とは関係ないことだから、気にしなくていい」
平静を装って、鳴海はかろうじて、それだけを告げた。
でも、と言いかけた加奈子は、そこで思いとどまったように口を噤む。仕事とは無関係であると言われた以上、不必要に介入すべきではない。そう判断したのだろう。
鳴海は小さく息をつくと作業を再開した。仕事に私情を持ちこむなど、どうかしている。ましてやそれを、従業員にぶつけたり心配されるなど、あってはならないことだった。葵には後ほど、きちんと詫びを入れて雇用主としてのけじめをつけなければならない。鬱屈した気分を拭い去れないまま、鳴海は己にそう言い聞かせた。
手紙を受け取ってからこちら、平常心が保てなくなっている。ともすると気持ちを掻き乱され、沈みがちになる精神状態がもどかしかった。
「あの……」
「ああ、悪い。なんの話だった?」
遠慮がちに声をかけられ、鳴海は殊更なんでもないふうを装って訊き返した。だが加奈子は、一度開きかけた口を閉じると、きっぱりとした態度で首を横に振った。
「いえ、なんでもありません。お疲れが溜まってらっしゃるんじゃないかと気になっただけです」
一瞬その言いまわしにひっかかりをおぼえたものの、それこそくいさがれば不自然になる。問題ないと頷いて作業に戻った鳴海は、加奈子がチラリと気掛かりそうに葵のいる店のほうへ目を向けたことには気づかなかった。