2
「えっ、うそっ! なんでここにいるのっ!?」
突如店内であがった声に鳴海は振り向いた。
バレンタインまであと1週間。平日でも時間帯を問わず混み合うようになってきた。仕事や学校が終わる夕方ともなればなおのこと、人の入りは多い。鳴海も加奈子も、客の入り具合で厨房での作業を中断し、店頭に立つことが増えた。ちょうど、そのさなかのことである。
見ると、ショウケースの片隅で、OLらしきふたりの女性客が葵と向き合っていた。
「え~っ、ビックリなんだけど! まさかこんなとこで会うなんて思ってもみなかった」
「ほんと。思わぬ転身! 吉野さんがチョコレート・ショップの店員さんになってるなんて思わなかった」
賑やかに話しかけるふたりに愛想笑いを浮かべつつ、葵はどこか、緊張の色を滲ませていた。
――まさか……。
鳴海もまた、内心で警戒を強めた。
「バイト? それとも本格的に転職したの?」
「会社のみんなも結構心配してたんだよ。総務の人たちなんかとくに。吉野さんがいなくなったあと、とんだ災難だったねって同情的な声も一部であがってたし」
「あ、うん……」
やはり、まえの職場の同僚で間違いないようだった。
接客をつづけながら確認した鳴海は、頃合いを見て葵たちに近づいた。
「いらっしゃいませ」
声をかけると、女たちはいっせいに驚いた顔で振り返った。それから、気まずそうに誤魔化し笑いを浮かべる。
「あ、ごめんなさい。お邪魔でしたね、忙しいのに」
「いいえ、大丈夫ですよ。お友達ですか?」
「ええと、まあ、そんな感じです。友達っていうか、まえの職場でちょっと……」
「よかったらご試食、如何です?」
言いながら、鳴海は楊枝の刺さった試食用のブラウニーを差し出した。それからさりげなく、葵に試食用のチョコを追加するよう指示する。あきらかにホッとした様子で頷いた葵は、ふたりに挨拶をするとバックヤードへと下がっていった。女たちは鳴海が現れた途端、葵への関心をなくしたように鳴海に向きなおった。
「うわっ、このブラウニーすっごい美味しいっ!」
「ほんと。評判どおりだね」
「ありがとうございます。よろしければ、こちらのチョコレートもどうぞ。バレンタイン用の新作です」
鳴海に勧められるまま、トレイに載った試食用のチョコにも手を伸ばす。そして、おなじように美味しい!と歓声をあげた。
「お気に召していただけてよかったです。ホワイトチョコベースの苺のガナッシュを、ミルクチョコレートでコーティングしました」
「あの、ひょっとしてこのお店のオーナーさんですか? ここのチョコレートが美味しいって噂で聞いて、それでお邪魔したんですけど」
おずおずとした口調ながらも好奇心が滲む態度で訊かれ、鳴海はそうだと応じた。途端にふたりは色めき立った。
「じつはこちらのお店、SNSなんかで最近結構話題なんですよ? オーナーさん、ご存じでした?」
「いえ、知りませんでした。でも、こうしてわざわざ足を運んでいただけて光栄です。重ね重ねありがとうございます」
あくまでも従容として応じる鳴海に、女たちは嬉しそうに頬を上気させた。
「今日はバレンタインの下見のつもりだったんですけど、やっぱり買って帰ろうかな。自分用に欲しくなっちゃった」
「あたしも。ブラウニーもまだありますか?」
「ございますよ。チョコはバレンタイン用のギフトボックスと、あとはお好みでショウケースから詰め合わせとしてお選びいただくこともできますが、どちらにいたしましょう」
「え~、やだ、どうしよう。迷っちゃう!」
「どっちも捨てがたいよねえっ」
「うちのスタッフとお知り合いでしたね。吉野と代わりましょうか?」
さりげなく鳴海が水を向けると、ふたりはすぐさまかぶりを振った。
「あ、いいですいいです。知り合いっていっても顔見知り程度なんで。ただ、思いもしなかったところでばったり会っちゃったから、ビックリしたっていうか」
「おなじ会社でも、あたしたち、吉野さんとは全然部署が違ってたんです。だから、たまにすれ違うと挨拶する程度だったっていうか」
言ったあとで、片方が思わせぶりに鳴海を見た。
「あの、彼女、アルバイトですか?」
「いいえ、正規の従業員ですよ。たまたま縁があったので、こちらからスカウトしました」
「あ、そうなんですか……」
曖昧に頷いたあとで、ふたりは意味深に目配せし合う。鳴海はそんな女たちの様子をそれとなく窺った。なにか含むところがあるように思える。だがそれは、たんなる野次馬や好奇心とは違っているように見えた。
「やはり交替しましょう」
「え?」
少しお待ちくださいと口早に告げた鳴海は、女たちの返事を待たずに身を翻した。その足で厨房に引き返す。試食用の商品の準備をしていた葵に、ふたりの応対に当たるよう伝えると、その顔がわずかに硬張った。
「気持ちはわかるが、君が直接話しておいたほうがよさそうだよ。たんなるひやかしじゃなさそうだ」
鳴海の口調から察するところがあったのか、一瞬押し黙った葵は、やがて意を決したように頷いた。
「わかりました。ありがとうございます」
「長時間にならなければ、他の接客は気にしなくていいから」
鳴海が言うと、葵は無言で頭を下げて店に出ていった。鳴海もまた、葵が準備したぶんの試食用商品を手に店に出る。葵がショウケースを挟んでふたりと話すあいだ、加奈子と手分けして他の客の対応に当たった。
葵は空のボックスに、女たちと言葉を交わしながらショウケースの中のチョコをひとつずつ詰めていく。一見したところ、あくまでも客と店員のやりとりに終始しながら、双方の顔は不自然なほど硬い表情に覆われていた。
ふたりの客がそろって買い物を終え、会計を済ませて店を出るまでに15分あまり。かすかな笑みを浮かべて手を振るふたりを、葵は重い空気を振り払うように丁寧に頭を下げ、見送っていた。